戦国時代をこよなく愛する激務ファミレス店長南昌幸がお届けする

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キリシタン大名の高山右近公が大名というなかなか成り得ない立場を捨て

キリスト教の信仰にすべてを捧げていった理由を探って行きたいと思います!

 

それを通じてどれだけキリスト教がそれほど人を惹きつけるものなのか?

そんなことを知ることが出来れば幸いです!

 

高山右近公とは?

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生まれと育ちは?

1553年大和国(奈良県)の沢城で生まれ育ちます。

10歳の頃には父の影響でキリスト教の洗礼を受けています。

 

その後、高槻城の城主、大名になり、キリスト教の布教を進めていきます。

有岡城の戦い

しかしある時、高山右近公が与力(助力)として従っていた荒木村重公が、

その上司の織田信長公に対し謀反をおこし、

高山右近公は、荒木に味方するか?織田に寝返るか?究極の選択を迫られます。

 

ここで、織田信長公は、高槻城下のキリシタン(7割)を人質に取り、寝返りを高山右近公に迫り、

結果、高山右近公は織田家に寝返ることを決断します。

 

この裏切りもきっかけになり、荒木村重公は最終的に戦いに破れます。

 

荒木村重公自身は逃れますが、

妻子、一族などはことごとく磔や鉄砲で殺害、

その他は生きたまま家に入れられ、家ごと火をつけられる

という残酷な処刑を受けることになります。

 

一方、高山右近公はキリスト教の布教は認められ、自身の領地も安堵されます。

 

ただ、自分の寝返りのせいもあり、荒木家の人達が最悪の最期を迎えたことを

高山右近公自身はとても悔いたんだと思います!

 

豊臣秀吉公のバテレン追放令による棄教

その後、織田信長公は横死し、それを引き継いだ豊臣秀吉公は、

キリスト教を危険視しバテレン追放令を発布します。

 

簡単に言えば、キリスト教を追い出す法令です!

 

これは、キリシタン大名である高山右近公にとってまたも究極の選択を

迫られることになります。

 

今度は、キリスト教を捨てますか?大名の地位を守りますか?

 

結局高山右近公は、キリスト教を選びます。

 

そして、すべての領地を奪われ、各地を転々とすることになります。

 

徳川幕府になって禁教令が発布される

バテレン追放令より更に強力な法令が徳川幕府から発布されます。

もう、日本にもいることすらも困難になった高山右近公は、

フィリピンのマニラに向かいます。

 

その後、40日滞在後病死してしまうのです。

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高山右近公が大名よりも信仰を選んだ本当の理由?

高山右近公の人生の決断にはすべてキリスト教が関わってきていました。

次から次へと大きな分かれ道が現れ、その都度苦渋の決断をして行きます。

 

なぜ、この人のもとにはこのように難しい決断を迫られるのか?って

思う部分もあります。

どちらを選んでも何かが犠牲になる状態です。

キリスト教を信仰していたから引き寄せたのではないか?

とも思える所もあります。

 

そんな中でもキリスト教は、正しい道を導いてくれていたのでしょう。

信仰していると、心が救われるのでしょう。

どんな状況でも、信仰することで、生きることが出来るのでしょう!

 

高槻の領民は、高山右近公を慕い、皆信仰をし、

そして高山右近公の決断により、領地の死者は出ませんでした。

この結果が最大の信仰を選択し続けた理由ではないでしょうか?

信仰を広めていくことのみが、人々を救うことが出来る!

 

荒木家は救うことは出来なかったけれど、信仰している人は救うことが出来ると!

 

他の大名のように、キリスト教と貿易を結びつけるようなこともなかったでしょうし、

高山右近公自身の中には、すでに、大名という地位や、報酬、領地

など、この世のものには全く興味がなくなっていたのでしょう!

 

大名でいても救うことはできないが、信仰をすることで人を救うことが出来る。

 

そう信じていたことが最大の大名よりも信仰を選んだ本当の理由でしょう!

 

まとめ

少年の頃からキリスト教の洗礼を受け、キリスト教を信仰していることで、

様々な大きな決断を迫られることになります。

 

でも、大名の地位や領地、報酬などは結局誰も救えない、

信仰だけが救いの道だと高山右近公は結論づけたのでしょう!

 

それが本当の理由、、、。