今、日本の首都として大いに発展している東京

東京と言われる前は、江戸と呼ばれていましたね。

 

江戸から東京に変わるのは、天皇の住まい、政務場所が京都御所から江戸城皇居に移ったタイミングで変わります。都が遷都したのです。

 

 

しかしもし、幕末に新政府軍が、旧幕府軍の本拠地である江戸に対して大規模な戦争を起し、江戸城が落城し、街が焼け野原状態になっていたら、、、。

きっとスムーズに東京へ都を移そうなどというわけには行かなかったでしょう。

 

それだけ、明治政府としての、近代国家としての日本のスタートが遅れることになったでしょう。

 

外国から攻め入られたかもしれません。

植民地化されていたかも??

 

それを避けることが出来たのは、旧幕府側代表、陸軍総裁の勝海舟と、新政府側代表、大総督下参謀の西郷隆盛との切羽詰まった交渉があったからでした。

二人の様々な思いや背景などいろんなものが複雑に絡み合い、交渉した結果、新政府軍による江戸、江戸城への総攻撃は見送られ、文字通り血を流さずに城を新政府軍に明け渡すことに決したのでした。江戸城無血開城の成功です。

今回は、江戸城無血開城における二人の思い、背景を紐解きながら、交渉の決め手となる部分を見ていきたいと思います。

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江戸城攻撃までの簡単な推移

徳川慶喜が15代将軍になった頃から見てみましょう。

徳川最後の将軍

徳川慶喜

Tokugawa yoshinobu.jpg

引用:Wikipedia

将軍になった慶喜は、徳川幕府を立て直そうと、様々な努力をしていきます。

賢い慶喜は矢継ぎ早に政策を導入していきます。

 

しかし時代の主導権、流れは、もうすでに新政府軍の方にありました。

倒幕(徳川幕府を倒す)の密勅(天皇からの命令)が西郷隆盛率いる薩摩や長州に降されます。

ちょっと遅かったあ。

大政奉還

引用:Wikipedia

賢い慶喜は時代の流れを察知し、まずは名目的に政権を天皇に返上します(大政奉還といいます。徳川政権の終了です)。慶喜の逃げです。逃げて再起をねらための逃げです。

倒幕の密勅を受けていた薩摩、長州軍の目標(倒幕)を失わせるためでした。(政権が天皇に移行していれば、倒幕の意味がなくなるという慶喜の悪知恵ですね)

これで政権は名目上将軍から天皇に変わりました。

 

しかし倒幕の意味を失った薩摩藩でしたが、江戸にいた一部の薩摩藩士が引き続き旧幕府に対して工作を続けていました。これが、江戸の警備を任されていた庄内藩により薩摩藩邸が焼き討ちにされます。

これがきっかけになり、

新政府軍(西郷隆盛)と旧幕府軍(徳川慶喜、勝海舟)のとの戦が、鳥羽伏見にて起こります。

 

ここで慶喜、勝大逆転なるか?

兵力で圧倒的に勝っていた旧幕府軍でしたが、油断や作戦ミスなどが度重なり、新政府側の勝利となります。さらに、朝廷は新政府軍を官軍とし、旧幕府軍は賊軍とされていまします。あらら。

 

慶喜は、大阪城を離れ、軍艦開陽丸に乗って、さっさと江戸城に逃げ帰ってしまいます。

どうも敗者の流れが濃厚ではありますが、、、。

その後、江戸城で何とかして逆転を狙っていたかも知れない慶喜。

 

しかし、味方のはずの、徳川御三家や幕末の有力藩の越前や土佐も新政府側に付いてしまいます。なんてことでしょう、、。身内とはなんなんでしょう?

ともかくこれでは武力で何とか対抗するのは無理だと悟らざるを得なくなります。

こうなったら致し方ない!新政府への恭順を決意し、慶喜自身と徳川家の保身に全ての神経を集中させるしか無いでしょう。慶喜は決断します。

慶喜の助命と徳川家の存続のために

勝海舟

Kaishu Katsu 2.jpg

引用:Wikipedia

慶喜の心の中は、なんとか江戸城での戦争は回避し、徳川家の生き残りを成功させたいとの想い!これのみ。

そんな慶喜の想いの実現の為の交渉役に、勝海舟が任命されました。

徳川旧幕府軍、陸軍総裁勝海舟の誕生です。

やっとでてきました勝海舟。どんな交渉手腕を見せてくれるでしょうか?

まずは手始めに幕臣、山岡鉄舟(一刀正伝無刀流の開祖で、禅、剣、書の達人で思想家)を新政府軍の西郷隆盛のところへ交渉に出します。

 

新政府軍西郷隆盛の対応は?

西郷隆盛

Saigo Takamori.jpg

引用:Wikipedia

一方新政府軍は江戸へ向けジリジリと攻め上がっていました。

新政府軍の総裁は熾仁親王(たるひとしんのう)です。

親王というとちょっとなよなよっていうイメージがあったりしますが、熾仁親王は、どちらかと言えば、武士っていうイメージが強いです。

新政府軍の大将なんて普通の皇族に出来やしませんよ。

それをやってのけてしまうのですから、凄い!

熾仁親王を総大将とした新政府軍は、東海道、東山道、北陸道の3方から攻め込みます。

やがて江戸包囲網の完成に向け、総攻撃の日にちは3月15日に決まります。

その中、西郷隆盛は、熾仁親王を補佐する下参謀を勤めていました。

江戸へ軍を進め、駿府(静岡)に宿泊していた西郷隆盛のもとへ、前述の幕臣、山岡鉄舟が勝の指令でやってきます。

勝からの使者山岡と西郷との交渉内容

山岡鉄舟

Yamaoka Tessyu.jpg

引用:Wikipedia

西郷のところへ交渉に挑んだ山岡は、真摯な態度で西郷に接し、交渉のテーブルに着くことに成功します。さすが達人です。

 

勝からの使者、山岡鉄舟が望むのは、とにかく慶喜の助命と、徳川家の存続です。そして、江戸城無血開城。

 

それに対し、西郷は7つの条件を山岡に示します。

その条件とは?

1,徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること

2、江戸城を明け渡すこと

3,軍艦を全て引き渡すこと

4,武器を全て引き渡すこと

5,城内の家臣は向島に移って謹慎すること

6,徳川慶喜の秒居を補佐した人物を厳しく調査し、罰すること

7,暴発の徒が手にあまる場合、官軍が鎮圧すること

 

山岡は、2から6は了承するものの、1の他の藩に慶喜の身柄を渡すということは断じて拒否をしました。

そりゃそうですよね。立場を変えて考えてみれば簡単に分かること。

山岡は西郷に、西郷の尊敬していた殿様、斉彬が他藩に預けられたらどう思うか?と詰め寄ります。

 

斉彬が死んだ際、西郷自らも死のうとしたほど尊敬した殿様を他藩に預けることを出受け入れることなど西郷に出来るわけもありません。

結局1条は西郷隆盛が預かることで決着が付きました。

山岡、ギリギリの崖っぷちでちょっと救われました。

そして山岡は勝海舟のもとへ帰って報告します。

 

西郷隆盛も駿府を出て薩摩江戸藩邸に向かいました。

着いたのは3月13日。

その間にも、新政府軍は着々と江戸の近づき、攻撃態勢を整えつつにいました。

江戸城総攻撃の予定日、3月15日の2日前でした。

江戸城

引用:Wikipedia

さあ、ココまでが、江戸城総攻撃直前までの流れです。

残された猶予は2日。

この2日間の勝海舟と西郷隆盛の交渉の行方がとても重要になってくるのです。

江戸を活かすも殺すもこの2日間にかかっています。

 

 

江戸城、江戸をなんとか無傷で残すために動く勝海舟と

とにかく徳川家を殲滅仕様とする西郷隆盛との交渉がはじめられることになりました。

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江戸城無血開城へ向けて

 

 

勝海舟と西郷隆盛との会談

総攻撃2日前。

勝海舟と西郷隆盛は、江戸薩摩藩邸で、2日間に渡って行われました。

この会談を迎えるにあたって、勝海舟は相当な覚悟と作戦をもって望みました。

その覚悟と作戦とはこの5つです。

勝海舟の覚悟と作戦

1,旧幕府軍艦隊は東洋一の規模を持っている。そして最精鋭の陸軍を温存していた。

新政府軍ともいざという時には戦う準備をしていました。

特に幕府海軍の基礎を築いてきた勝には相当の自信もありました。

また、鳥羽伏見に参戦していない無傷の軍隊も残されていたので、これも自信の裏付けになるところでした。

 

2,イギリス公使パークスに内戦長期化の不利益を訴える。

徳川家温存の圧力が英国公使パークスからも西郷隆盛に伝えられました。

イギリスからの援助を目論んでいた西郷はその思惑が外れたことになります。

3,和宮と天璋院篤姫の身柄確保を最後の切り札

天璋院篤姫は、薩摩藩、島津家の姫で、西郷隆盛からみると頭が上がらないお人。

勝はそれを利用しようと考えていました。

4,勝海舟自身が交渉にあたること

勝海舟は、西郷隆盛が敬愛してやまない、故島津斉彬元薩摩藩主と親交が深かったのです。

いわば西郷から見れば、斉彬は神。その神と盟友関係にあった勝海舟は特別な存在といっても良いでしょう。このことは、交渉をする上で勝に大いに有利になった点でしょう。

5,江戸市街を焦土にする準備を整え。和戦両用の体制を誇示

これは、勝海舟の最大の覚悟と言っていいでしょう。

西郷と、戦争を避け、江戸を戦火から避けるための交渉をしているのですが、もし交渉決裂した場合、自ら火を付け、江戸を火だるまにし、敵の進軍を防ぐという大胆かつ無謀な作戦を計画していました。(実際火を消す算段まで用意していました)

これは、ナポレオンの進軍を防ぐロシア帝国の例を参考にしたようです。

この作戦からは、相当な覚悟を見て取れますね!

交渉参加者

幕府側→勝海舟、大久保一翁、山岡鉄舟

新政府側→西郷隆盛村田新八桐野利秋

結果としては?

13日、14日と2日に渡って交渉が繰り広げられました。

13日は質疑応答でほぼ終わります。

14日は、先の西郷隆盛から出された条件の勝からの回答が出されました。

 

1,徳川慶喜は故郷の水戸で謹慎する(水戸は慶喜の地元です)

2,慶喜を助けた諸侯は寛大に処置し、命に関わる処分者はださない

3,武器、軍艦はまとめておき、後差し渡す

4,城内居住のものは、城外に移って謹慎する

5,江戸城を明け渡しの手続きを終えたあとは即刻田安家へ返却願う

6,暴発の土民鎮定の件は、可能な限り努力する

と骨抜きな内容ではありますが、西郷隆盛は、勝海舟を先の覚悟と作戦により、信用せざるを得ず、江戸の総攻撃をこの場で中止するのでした。

江戸城無血開城へ

その後、4月11日。条件が詰められ、最終的に新政府側と徳川家側の合意がなされることとなります。

そして、江戸城の無血開城なされることとなるのです。

長かったです。

でも、平和的に事が進んで。本当に良かったです!

最後に

勝の5つの覚悟と作戦が最終的に西郷隆盛との合意に至った理由だと言えましょう。

この江戸が戦争にみまわれなかったことは、本当に意味のあることでした。

当時100万人の人口を誇った江戸が戦火に見舞われれば、日本の国力が半減することは必定。

今があるのも二人のおかげです。

勝海舟、西郷隆盛、ありがとうございます!

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