明智光秀明智光秀

敵は本能寺にあり!

と言ったのは、戦国武将、明智惟任光秀です。

明智光秀

引用:Wikipedia

織田信長の家臣だった明智惟任日向守光秀は、本能寺の変と呼ばれる謀反(裏切り行為)をおこし、上司である織田信長を襲い、自害に追い込みました。

この日本史を揺るがす事件は、明智光秀の名前を後々まで残す事となる大事件でした!

天下統一直前の上司を自害に追い込み、その夢を砕いてしまうという大胆な行動。

しかし、その決断は様々な理由があったんだと思います!

そんな理由を知りたい方はこちら→本能寺の変の真実とは?智将明智光秀が下した決断の理由!

 

それでは今回は、そんな大事件をおこした明智光秀の生涯を年表で見てみたいと思います!

スポンサーリンク

明智光秀の年表

西暦(和暦)光秀年齢光秀の出来事周りの出来事
1528(享禄元)1歳明智光綱の長男として美濃多羅城に生まれその後明智城へ移る将軍足利義晴近江国に逃亡する
1535(天文4)8歳父親が死去し、家督を相続する家康の祖父死亡。丹羽長秀、荒木村重誕生。
1556(弘治2)29歳明智城落城。浪人となり越前朝倉氏に知行(給料)もらう斎藤道三没
1557(弘治3)30歳諸国遍歴に出る織田信長、弟を謀殺
1560(永禄3)33歳越前(福井)に戻る。織田信長と徳川家康の同盟成る(清洲同盟)
1562(永禄5)35歳朝倉家より鉄砲隊100人預かる。細川忠興生まれる
1563(永禄6)36歳織田信長に仕える三好義継、松永久秀
将軍足利義輝を殺害
1565(永禄8)38歳信長より、美濃安八郡を拝領する足利義昭、朝倉家を頼り移動。
1566(永禄9)39歳北伊勢平定に出陣織田信長美濃(岐阜)を制圧
1567(永禄10)40歳信長と将軍との仲介役を務める
足利義昭が将軍になる、
1568(永禄11)41歳北畠具教討伐参加。二条城普請。織田信長、北畠家を制圧
1569(永禄12)42歳長男生まれる。金ヶ崎の退き口務める。姉川の戦い。
石山本願寺挙兵。
1570(元亀元)43歳比叡山焼き討ちの後、信長より近江志賀郡を与えられる。比叡山焼き討ち。
1571(元亀2)44歳浅井家と戦う。坂本城築城。三方ヶ原の戦い。
1572(元亀3)45歳今堅田の本願寺勢攻撃。足利義昭の槙島城攻撃。朝倉浅井滅亡。
1573(天正元)46歳光秀の子(十二郎
)を筒井順慶に養子に出す。
信長、長島一向一揆を制圧。秀吉、長浜(近江)を治める。
1574(天正2)47歳丹波(兵庫県)平定を信長に命じられる。「惟任日向守」を与えられる。長篠の戦い
1575(天正3)48歳波多野秀治の謀反により敗走する。
石山本願寺攻めの最中病で倒れる。
信長、石山本願寺攻める。
1576(天正4)49歳信貴山城攻めで松永久秀自害。安土城下、楽市と定める。
1577(天正5)50歳娘のガラシャが細川忠興に輿入れ。荒木村重、信長に謀反。
1578(天正6)51歳丹波平定する。安土城完成。
1579(天正7)52歳坂本城修築。石山本願寺との和議が成立。
1580(天正8)53歳信長の馬揃え(天皇の前での軍事パレード)を取り仕切る(惣奉行)信長、京都で朝廷の所望により馬揃えを行う。
1581(天正9)54~55歳家康の安土城来訪時の饗応責任者を命じられる。
本能寺で信長を自害に追い込む。山崎の戦いで秀吉に敗退し、逃走中にヤブの中で土民に殺害される。
武田家滅亡。
本能寺の変。
秀吉の中国大返し。
山崎の戦い。

本能寺直前までは、結構良い感じの人生を送っていたのでは?と私には見えてなりません。

大事な家族がいて、戦争でも実績を残し、織田家の中では途中参加でしたが出世し、趣味も持ち、良い領主として民にも評価され、とあまり表立って非の打ちようがありませんでしたから、、。

まとめ

前半生は資料がほとんど残っていないようで、若い日どの様な人生を送ったのか確かなものはありませんが、明らかに戦争が日常にあったような場所で暮らしていましたから、明智城主や、斎藤道三などから大人の教育を受けていたことでしょう。

謀反人、戦国最後の下剋上武将として名前が現在は伝わりますが、最新の研究では、勇猛で智将で、教養人で、良い領主で、家族思いのスーパーマンだと見直されえています。

 

うんうん、そうあって欲しいと強く思います!

関連記事

2020年大河ドラマの詳しくはこちらの記事を御覧ください(随時追加中)

2020年大河ドラマ「麒麟がくる」の明智光秀まとめます!

戦国時代のはじめ(ビギニング)を彩る他の武将たちの年表比較はこちら

戦国ビギニングの大河「麒麟がくる」!英雄達の年表比較!