「何!本能寺で殿が明智殿に討たれたと!?」

「討つべき仇は明智光秀ただ一人!」

「決戦の場は山崎天王山じゃ!」

豊臣秀吉

引用:Wikipedia

 

本能寺で織田信長が明智光秀に討たれた後、仇を見事羽柴秀吉は山崎の戦いで明智光秀を討ち果たし、織田信長の天下統一の事業を受け継ぐことになるのでした。

その天下統一の様は、日本全国に近い統治でした。

そんな秀吉は、その野望を世界に求めていくのですが、、、、。

 

今回は、豊臣秀吉という日本史に無くてはならない、世界を夢見た人物の一生を簡単に年表で見て見たいと思います。

足軽から太閤へ!天下統一までの道のりは?

和暦西暦年齢内容
天文6年1537年0歳誕生
天文23年1554年17歳織田信長に仕官
永禄4年1561年24歳浅野長勝の養女(ねね)と恋愛結婚
永禄11年1568年31歳観音寺城の戦い(9月)
元亀元年1570年33歳金ケ崎の戦い(4月)
天正元年1573年36歳羽柴に改姓。
8月小谷城の戦い
天正3年1575年38歳筑前守拝命(7月)
天正5年1577年40歳信貴山城の戦い。(10月)
手取川の戦い(11月)
天正6年1578年41歳三木合戦(3月)
上月城の戦い(4月)
天正10年1582年45歳備中高松城の戦い
本能寺の変(6月)
山崎の戦い(6月)
清州会議(6月)
太閤検地
天正11年1583年46歳賤ヶ岳の戦い(4月)
本拠地を大阪城に(11月)
天正12年1584年47歳小牧長久手の戦い
権大納言拝命(11月)
天正13年1585年48歳紀州征伐(3月)
四国攻め(6月)
関白に(7月)
惣無事令実施(10月)
天正14年1586年49歳九州征伐(7月)
豊臣氏を賜る(9月)
太政大臣に(12月)
天正15年1587年50歳バテレン追放令発布(6月)
天正16年1588年51歳刀狩り制定(7月)
海賊停止令(8月)
琉球服属要求(8月)
天正17年1589年52歳後継者鶴松が誕生(5月)
天正18年1590年53歳小田原征伐(2月)
奥州仕置(7月)
天下統一
朝鮮へ入朝要求(11月)
天正19年1591年54歳身分統制令
フィリピンに服属要求
唐入へ軍役要求

世界の野望を!朝鮮出兵から中国を狙う

和暦西暦年齢内容
天正19年1591年54歳身分統制令
フィリピンに服属要求
唐入へ軍役要求
文禄元年1592年55歳朝鮮出兵開始(文禄の役)(4月)
人掃令制定(7月)
文禄2年1593年56歳本拠を伏見城に。
秀頼誕生。
慶長元年1596年60歳サン・フェリペ号事件
慶長2年1597年61歳朝鮮出兵(慶長の役)
慶長3年1598年62歳太政大臣辞職
伏見城で死去

 

まとめ

戦争に次ぐ戦争を経て、最後、決定的なチャンスを得て天下をもぎ取った豊臣秀吉。

その権力は日本ではものたらなくなり、世界を求めて行きました。

飽くなき欲望はやがて終わりがきます。

秀吉の人生は、底辺の地位から正にトップへ登りつめ、更に上へ行こうとした、人間の欲望の象徴のような人生だったと言えるのではないでしょうか?

 

しかし、一代で築いた王国は実にもろく、砂の城のように崩れ去っていったのでした。

関ヶ原で敗け、大阪の陣で完膚なまでに叩きのめされる豊臣の遺志を継ぐ者たち。

 

時代は徳川家康に引き継がれていくのでした。

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