川路利良は日本の警察の父です!

川路利良

引用:Wikipedia

起業家やラーメン屋の天主のような腕組みが決まっていますね!

彼こそは、日本の近代警察の父、川路利良です!

大河ドラマ「西郷どん」では泉澤祐希さんが演じています。

参照:大河ドラマ・西郷どん全キャスト表!出演者と役柄、独自評価!

アニメ「るろうに剣心」にも出てきていましたのでご存知のかたもいらっしゃるかもしれませんね。

今回は、薩摩藩士だった川路利良が警察の父と呼ばれるまでの生涯を見てみたいと思います。

西郷隆盛との関係や長州藩の豪傑、来島又兵衛を撃ったというエピソードも興味ありますねええ。

年表

まずは川路利良の生涯を年表で見てみましょう。

年号出来事年齢
1834薩摩(鹿児島)に身分の低い武士(準士分)の長男として生まれる島津(薩摩藩主)家臣団の武士身分制度って?西郷隆盛の位は?
1864禁門の変で長州藩の豪傑、来島又兵衛を狙撃する31
1867薩摩藩御兵具一番隊小隊長に任命される34
1868薩摩官軍大隊長として戊辰戦争に参加35
1869薩摩藩兵器奉行に昇格36
1871西郷隆盛の誘いにより、東京府の役人として活躍。欧州の警察を視察した後、日本の警察制度を確立させる。38
1873西郷隆盛の下野に賛同せず東京に残る40
1874警視庁初代大警視(現、警視総監・警察の最高位)に任じられる41
1877西南戦争当初、陸軍少将を兼任し、別働第三旅団長として九州を転戦。44
1878大久保利通暗殺者の情報を得るも無視する45
1879欧州を視察。病魔に倒れ帰国後死去。46

薩摩隼人として育ち、警察の確立に奔走した人生でした

では、次に川路利良が出世の発端となった、禁門の変という戦で、敵方の大将、来島又兵衛を狙撃し味方を勝利に導いた話をご紹介しましょう。

禁門の変で来島又兵衛撃つ!

川路利良31歳の話です。

1864年に起きた、禁門の変(蛤御門の変)という、天皇を連れ去ろうと京都御所蛤御門に攻め込んできた長州軍を、幕府側の薩摩軍が追い払う戦での事です。

まだ若き川路利良も薩摩藩士として戦争に参加しました。

そこで川路利良は、大大金星をあげるのです。

それはなんと、長州軍の遊撃隊総督(要するに大将そしてかなりの豪傑!)、来島又兵衛を狙撃して撃ち落としたのです!

参照:来島又兵衛は遊撃隊総督で大石流剣術の達人!禁門の変で死す!

戦の勝利の法則に、大将を狙え!というのがありますが、まさにそれをきっちりと仕事した事になります。

薩摩藩の大将、西郷隆盛からは、相当高く評価され、出世の一歩を踏み出すことになるのです。

結果、長州軍は敗退し、京都から一掃されることになります。

勝負感と狙撃手としての実力を持っている男です!

持っていると言えば、運も持ち合わせていました。

参照:薩長同盟の内容をわかりやすく図で解説!坂本龍馬は何をした?

戊辰戦争での川路利良キンタ○事件

1868年の戊辰戦争でも破竹の活躍を魅せてくれました。戦の神様がついているのでしょう。

そして神様といえば、川路利良が磐城浅川の戦いの時、股を狙撃されて負傷するのですが、キンた○は無事だったと言います。

何故だったのでしょう?

それはキンた○袋のみを撃ち抜かれたからでした。

川路利良が戦争にビビることなく堂々としていて、袋が縮こまっていなかった(ビビったり緊張したりするときんた○が縮こまるのです)証拠でした。

縮んでいないから玉に当たらずに伸びていた袋にあたったというわけです

運が良かった上に肝が座っていたんですね!

 

近代警察の父に!

その後、明治維新が始まると、西郷どんの推薦もあり、西欧視察団に選ばれ、欧州の警察を大いに学びます。

その中でも、あの革命児、ナポレオンのもとで警察大臣を務めていた、ジョセフ・フーシェを模範とする、フランス警察をモデルに帰国後、日本の警察制度を確立するのです!

 

警視庁の初代大警視(現在の警視総監)についたのは41歳の若さででした。

この年令で警視庁のトップになることは今では事実上不可能となっています。

って位凄い若さで警察組織のトップになり、働いていたのですね。すごすぎます!

 

しかし、その勤務内容は超多忙で、勤務終了後に、交番や警察署を周り、指導を行っていました。

現在の夜回り先生みたいですね。

そのおかけで、毎日3.4時間睡眠だったようで、、、それだけ命賭けていたのですね!

そして初めて欧州に渡った際、川路利良は伝説を残しております。

 

この先閲覧注意文があります!気になる方はさっと飛ばしてください

 

 

大便投げつけ事件

明治5年、初の欧州視察のさい、フランスのマルセイユからパリへ向かう列車の中、便意を催した川路利良。

トイレまで間に合わない!さあどうする?

ってときに、新聞の上に大便をし、それを丸めて列車の外に投げたというのです。

大胆すぎる!

と、それが川の中とかに落ちればよかったのですが、運悪く、保線夫(線路を保守する人)に

あたってしまうのです。

すごい偶然です。

そして、その大便をくるんでいた新聞を地元の警察に持ち込んだ所、新聞が日本語だったので、

地元の新聞に「日本人が大便を投げ捨てた!」と話題になった伝説です。

幸い川路利良がの大便かどうかは知る善しもありませんでしたが、、。

閲覧注意終わり!

 

 

西南戦争では西郷隆盛の敵に?!

西郷隆盛の推薦で警察への道を歩んでいった川路利良ですが、明治6年その西郷隆盛と決別する出来事が起こります。

征韓論です。

征韓論(朝鮮を武力または話し合いで開国させようとするやり方)の中心的存在だった西郷は外遊から帰国した、かつての親友、大久保利通たちにより時期尚早と判断され、征韓論自体を却下されてしまうのです。

 

これに憤慨した西郷隆盛は、中央政府から離れ、鹿児島に帰ってしまいます(下野)。

この時、多くの薩摩藩士が一緒に鹿児島に下野するのですが、同じ薩摩藩士の川路利良もお世話になった西郷隆盛と一緒に下野するかと思われました。

しかし、川路は一味違いました。

警察の仕事を放り出すわけにはいかない!と東京に残るのです。

「大義の前には、私情を捨てる!」と表明しています。

仕事の鬼、ですし、民のための仕事を投げ出すわけにはいかないってところが強かったのでしょうね。

こうして、かつての先輩、西郷どんとは決別する道を選んだ川路利良でした。

 

西郷隆盛暗殺疑惑

その後、鹿児島で、西郷どんの親友、大久保たち中央政府に対する不満が高まり各地で反乱が起きると、大久保利通の命令で、川路利良は部下の警察官24人をスパイとして故郷、鹿児島に送り込みます。

根回しで反乱を起こさないように、という作戦でした。

なんとか、穏便に反乱が起きている事態を収めたかったのです。

参照:大久保利通と西郷隆盛との関係まとめ!子孫に麻生太郎発見!

しかし、このコソコソしたスパイ行為が裏目に出ます。

スパイ行為が西南戦争の引き金に?

鹿児島に私学校という学校がありました。

西郷隆盛たちが、不平士族の暴発を防ぐ目的で造られた学校で、主に、漢文の素読と軍事教練が中心の学校です。

大久保利通も設立に伴い資金を拠出していました。

 

この私学校の生徒たちが新政府に対してかなりの不満を持っていくのですが、西郷隆盛が政府を辞め鹿児島に戻ったとなるとそれに拍車がかかります。

未然に反乱を防ぎたいと考えた新政府に残った大久保利通に命じられた川路利良がスパイを送り込みます。

しかしその作戦は失敗し、スパイ中原尚雄はじめ何人かは捕らえられてしまうのです。

さらにそこで強烈な拷問を受けている最中、中原尚雄は西郷隆盛を「刺殺」(実は視察の間違いだったとも、、)しに来たと自白させられてしまいます。

本当は「視察」だったのに・・・。

うわあ、致命的な聞き間違い?!わざと聞き間違えたことにしたのかも?

 

これにより、私学校の生徒たちは、スパイを送り込んだ、大久保利通と川路利良を完全に敵とみなします。

私学校の生徒たちは、もうすでに不満を爆発せずにはいられない状態になっていた事もありますし、影でコソコソやるスパイ方式も良くなかったのです。

いずれにしてもこれが西南戦争につながるきっかけになってしまいます。

かつて寺田屋事件で薩摩藩士が同士討ちをした出来事がありましたが、その再来です。しかも今度は規模が大きい!

関連記事:有馬新七:神影流剣術達人で朱子学学者!寺田屋で同士討ち!

西南戦争で川路利良も西郷と対決

中原尚雄の自白がきっかけで、鹿児島の西郷隆盛を担いだ私学校の面々たちと、新政府軍との間の戦争が勃発します。

これが西南戦争です。

その戦線の中で西郷軍は、川路利良を司令官とする警視隊を中心とする別働第三旅団と激戦地田原坂で激突します。

抜刀隊(警察の中から優秀な者を選んで編成された日本刀を武器に使う部隊)が導入されるまでは、両者互角か西郷軍有利に進められていました。

しかし薩摩藩士中心に結成された100名ほどの警察抜刀隊が西郷軍を蹴散らします

これにより、西郷軍は田原坂の戦いで敗退し、その後の新政府軍の勝利へとつながっていくのです。

 

川路利良はかつての先輩を完全に負かしてしまいます

これも複雑な心境でしょうね!

戦争の途中で川路利良は司令官を免じられ、警察業に戻っています。

参照:西郷隆盛の年表を簡単解説!西南戦争の理由とは?!

黒田清隆の潔白を証明する!

あくまで警察の仕事を優先する川路利良でしたが、一方、薩摩人を見捨てない心も持っていました。

黒田清隆とは川路利良と同じ薩摩出身の陸軍軍人で総理大臣にもなった人です。

彼黒田清隆の妻が肺炎で急死した際、黒田が酒に酔って出迎えが遅いと逆上し、妻を斬り殺したと新聞の記事に出てしまいました。(当時黒田は確かに酒のせいで他に事件を起こしています)

この時、黒田の身の潔白を証明するために、川路利良は大久保の命令で医者と共に墓から棺桶を掘り出し、中にいる黒田の妻の死体を目視し、病死と決定づけました。

警察の仕事ですから、死体を見ることはそんなに珍しいことではないでしょうが、

なんか、前向きになれない仕事ですね。川路利良さん、汚れ仕事も何のそのです!

(その時、本当に死体は病死した遺体だったのか?黒田をかばったのでは?という噂も絶えませんでしたが・・)

最後まで伝説?

明治12年1月には、再度欧州へ警察の視察に出ています。

その船中、咳、痰、喀血の症状が出始め、欧州についてからも診療もしてもらいますが回復せず、結局、10月に帰国して更に病状が悪化し、死亡してしまいます。

一説によると、藤田組という財閥が、汚職の捜査を恐れて毒殺したとのまことしやかな伝説もあります、、、。

警察業を徹底的に行なった日本警察の父は、また、敵も多かったのでしょうね!

 

そんな生涯を送った川路利良ですが、もうちょっとプライベートのことも触れておきましょう。

川路利良のプライベート

身長は180センチ位で、好物は蒲鉾と焼酎だったようです。

蒲鉾はかなりの量を何度も購入するので、料理屋がお客様に出す食材として買いに来ているんじゃないか?と思われるほどだったそうです。徹底していますねええ。

そして焼酎は芋ですよね!きっと。(鹿児島といえば芋!)

そして薩摩切子で飲んでいたのかも?!

関連記事:江戸切子と薩摩切子の品質や歴史・由来の違いを比較してみました!

さらに、こんな名言を残されています。

川路利良の名言!

これは川路利良の語録をまとめた「警察手眼」からです。

この中にひとつ珠玉の名言がありますので、ご紹介します!

聲なきに聞き、形無きにみる

という言葉です。

意味は「警察官たるものは、声なき声に耳を傾け、表面的な現象のみにとらわれることなく、奥に隠されたモノを見逃すことなく、真実をあばきだすこと、が必要である」という意味です。

今でも警察官の活動の指針となっています。

 

すごい、重みのある言葉だと思います。

 

とかく、表面で判断したりしがちですが、そこを一歩踏み込んで見てみるってことは、とっても大事なことだと私も思います。

川路利良もこの言葉を地でいったがゆえに、警察のトップを務め続けることが出来たのでしょうね。

 

では、そんな川路利良の血を継ぐ方はどんな方がいらっしゃるのでしょうか?

川路利良の子孫

 

いらっしゃいました。

俳優でありコメディアンやジャズドラマーなど多彩な才能をお持ちのフランキー堺さん。

川路利良の養子で、福岡、奈良、熊本、岐阜知事を歴任した川路利恭(としあつ)さん。

なかなか渋く実力重視のお方です。

 

最後に

警察創設の過程で、相当な仕事量をこなしていた川路利良。

また、大久保利通の命令で、様々な汚れ仕事もこなしていたことが分かりました。

しかし、日本警察の父と呼ばれるだけありまして、警察の在り方を記した「警察手眼」は今でもバイブルとして多くの警察官に読みつがれています。

なにかとお騒がせした方でもありましたが、今の日本の治安が守られているのは、川路利良の存在は大きいのだと思います!ありがとうございます!

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