戦国時代をこよなく愛する激務ファミレス店長、南昌幸がお届けする

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関ケ原の戦いは6時間ほどで決戦が終了した超短期決戦でした。

早朝からお昼ころまで、密度の高い戦闘が繰り広げられことでしょう!

 

実際は、殺し合いなので、本当に生臭い、グロテスクな現場だったと

思いますが、、、。

「関ヶ原」についての簡単な解説は、『関ケ原の戦い!合戦に至る経緯を分かりやすく5分でまとめました!映画「関ケ原」を10倍楽しめます!』をご覧ください。

映画「関ケ原」公式サイト

そんな人と人とが殺しあう生な現場で最強といえる武将は誰でしょう?

 

そんなことが気になってしまったので、ちょっと調べてみることにしました!

最強の基準について

最強の基準をご紹介する前に決めておきいたいと思います!

1,関ケ原の戦いで首を獲った数

2,関ケ原までの武将としての実績

3,関ケ原の戦いでの武将としての姿勢、影響力

これらを総合的に判断して決めていきたいと思います!

関ケ原最強武将候補:島左近公

 

島左近公は、西軍石田三成公の家臣で、かつては筒井順慶公に仕えていたころから

武勇に優れ、松倉右近公とともに「右近左近」の島左近と呼ばれていました。

 

また、「三成に過ぎたるものが2つあり、島の左近に佐和山の城」と言われるほど、

素晴らしい家臣でした!こんなふうにいわれる人物になってみたいものです!

 

関ケ原直前の戦い、「杭瀬川の戦い」では、僅かな手勢で東軍の出鼻をくじき、

西軍の士気を高めるという目的で戦を仕掛け、見事勝利しています!

 

このように、戦にも目的を持たせて、必要な戦を確実にものにしていく

軍略の才能も大いに持っていました!

 

石田三成公には、様々な献策をしているのですが、戦に関しては意見を退けられることも

良くあったといいます。

戦に関する島左近公の意見が採用されていたら、歴史も変わっていったのかもしれません!

見てみたかったあ!

 

最期は黒田長政軍に討ち取られるのですが、その折の狂気じみた奮戦ぶりは、

黒田家に後々まで怖さと共に語り継がれることとなります。

死を恐れずに立ち向かうその姿勢は敵の脳裏に深く染み込んでいきました!

 

特に実際に対戦した黒田家のある武将は、夢にまで、左近公の「かかれー!」

という声が聞こえてきて布団から飛び起きた!と語りぐさになっています。

夢にまで出てきて戦いをするなんて!

 

余程の荒々しい掛け声と、そこに傷だらけの風貌が相重なって

鬼のように見えたのでしょう!「鬼左近」とあだ名された所以です!

 

敵方に後々まで語り継がれるとは、関ケ原最強武将の称号を与えても良いと思います!

 

関ケ原最強武将候補:本多忠勝公

本多忠勝

三成公に島の左近ならば、家康公には本多忠勝公です!

 

三成公の時の対で、「家康に過ぎたるものが2つあり、唐の頭に本多平八(忠勝)

と言います。

 

実際、12歳の初陣以来、57の戦に参加してきた本多忠勝公ですが、一度も負けておらず、

また、戦の際、一度も手傷を負わなかったといいます!

(唯一怪我をしたのが、死の数週間前に仏像に名前を彫る際に指に傷を付けてしまった

事だそうです!どんだけ~)

 

そんな人この世に存在するのか?と疑問に思ってしまいますが、

名前の由来を見ても頷いてしまいます!

ただ勝つ=忠勝

 

勝つために生まれてきて、その通りの人生を歩んでいて素晴らしいです!

 

そして特筆すべきは、彼のもっていた槍です!

名槍「蜻蛉切り」(とんぼきり)です。

飛んでいたトンボが槍に当たっただけで2つに切れてしまったという伝説から、

この名前がついたといいます!(すごい切れ味だったということです!!)

(因みに製作は妖刀「村正」の製作者の弟だそうです!)

 

この6メートルある槍を使いこなし、敵をバッタバッタ切り倒して行ったのでしょう!

(6メートルって!想像しただけでちょっと無理!って思っちゃいます。

それを使いこなせるとは相当の怪力の持ち主だったのでしょう!)

 

また、装いも鹿角の兜に、数珠をたすきがけにした鎧というかなり強そうなスタイル!

 

関ケ原最強武将候補にふさわしいです!

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関ケ原最強武将候補:可児才蔵公

福島正則公に仕える武将です。

槍の名手で、三日月槍で有名な「宝蔵院流」の初代に習い、槍の技術を会得していました。

無心で使える境地まで達しており、相当な名手だったようです!

 

関ケ原の戦いは、福島正則公の先鋒隊長として出陣し、岐阜城の戦いで「3」関ケ原本戦で「17」

首を獲ったと言います。

この数は、関ケ原参加の武将の中では一番多い数だったと言われています!

 

 

獲った首の数が多すぎ、持ち歩くことは不可能なので、可児才蔵公トレードマークの「」を

口にさしてその証明としました。

(笹にしたのは、酒(ささ)を飲ます最期の手向けという意味合いがあったといいます。

そういう慈悲深い所も奥ゆかしいです。今でも人気が高いのはこのような気持ちと行動の

現れの部分に人は共感したのではないでしょうか?私もその一人です!)

 

確かに、17もの首を持ち歩くことは戦場で不可能ですね!

この武勲を家康公には大いに賞賛されたと言われています!

 

この首を獲った数の多さ!関ケ原最強候補にふさわしいです!

 

まとめ

3人の最強武将候補を見てきましたが、なかなかに甲乙つけがたい勝負でした!

 

島左近公→敵に与えた影響力、インパクトはかなり大きいものがあります!

本多忠勝公→無傷で無敗。実績はナンバーワン!

可児才蔵公→関ケ原の戦いで一番多くの首を獲り、武将としての姿勢は良く、

実績もなかなかあります!

 

今回は、総合的に見て、福島正則公家臣、「可児才蔵公」を

関ケ原における最強武将とさせていただきます!!

 

可児才蔵公、おめでとうございます!!

(何も出ませんけどね笑)