すみ子、小梅、千穂、玉蝶、小雄、極子、、、、、。
伊藤博文が愛した女達のお名前です!
さすが、初代総理大臣となると、プレイボーイぶりが半端ないですね!
そんな愛の人、「伊藤博文」
おひげがいい感じに貫禄を醸し出していますね!
今回は、明治維新の新政府の中心メンバーとして、日本が近代国家になる礎を作った「伊藤博文」の
実は女好きだったというエピソードについて見てみたいと思います。
日本を動かすパワーの源は、女の方だった!ってことでしょう。
また、伊藤博文が、韓国で暗殺により何故命を落としたか?
その理由についても迫りたいと思います!
伊藤博文は女好き?!エピソード8選!
政治の方で、グイグイと日本を引っ張っていった伊藤博文ですが、
プライベートの方でもグイグイと女性を引っ張っていったのです。
エピソードを早速ご紹介しましょう!
1,松門四天王の入江の妹すみ子
初めて結婚した相手が、吉田松陰の弟子で四天王の一人、入江九一の妹、すみ子です。
さすがお目が高い。ここで女性を知るのですね。
機転が効いて頭の回転が早い美女だったようです。
しかし、浮気や次の妻になる小梅の間に子供が出来、元々ソリが合わなかったこともあり、離婚しちゃっています。
2,馬関の芸者、小梅(梅子)
下関の花街、馬関の芸者、小梅を2番めの妻として結婚します。(結婚後、梅子と改名)
梅子がすごいのは、この先幾多の浮気をすることになる伊藤博文を、別れること無く、
終生支え続けるのです。
出来た嫁さん?
伊藤博文が連れてくる芸者が朝までいたら、化粧のお世話をしたり、帰りにはお土産をもたせたり、至れり尽くせり。
浮気なんて何のそのって感じです。
さらに芸者時代に身に着けた社交術や、色んな知識を持ち、英語も話せる初代ファーストレディとなっていくのです!
3、新橋芸者、樋田千穂
後に料亭田中家の女将になる彼女も、伊藤博文から寵愛を受けた一人です。
彼女が残した書によりますと、同時に複数の芸者と関係を進行させる事、かなり上手だったとのこと。
一人の芸者と情事を楽しんだ後、もうひとりの芸者を呼んで、3人川の字になって一緒に寝たっていう神業。
余程、気遣いや、テクニックや、マメさがないと成り立たないとは思いますが。。。
さすが総理大臣を4回こなし、吉田松陰にも政治の才能があると評価された人物だけあります。
4,おねしょの癖がある美人芸者玉蝶への気遣い
新橋の芸者で美人芸者さん、玉蝶の玉に瑕は、おねしょ。
気遣いの伊藤博文は、おねしょの時間になると、起こしてトイレに連れて行ってあげました。
なかなかですね。モテるのもわかりますねえ。
5,大阪ミナミの小雄
大阪の芸者、まだ若干13歳の小雄を気に入り、なんと伊藤博文が梅子と住んでいる神奈川県大磯まで連れてくるっていう!?
そして小雄の面倒を梅子が見るっていう!!しかも伊藤博文もその小雄の存在を忘れちゃうっていう失態。
はじめは梅子も小雄の世話を焼いていましたが、わがままな小雄を持て余し、伊藤博文の官舎に小雄を送り込むっていう行動に
出ることに、、、!
6,伊藤博文のあだ名は「ほうき」
なんで「ほうき」って言われたのでしょう。
それは、女の人を掃いては捨て、掃いては捨てを繰り返し、その様は「ほうき」で掃くようだ、ということで
このあだ名がつきました。
プレイボーイですね!首相だからっていうステイタスも大いにあったのでしょうね。
7,明治天皇に叱責を受ける
そんな女遊びがすぎる伊藤博文に、見かねて明治天皇が叱る場面もありました。
天皇から直々に叱られちゃう!
でも、懲りなかったのです。女好きは止まりませんでした。
「公の芸者を公に呼ぶまでです」と悪びれた様子は全くありませんでした。
実は明治天皇が本当の天皇じゃなかったから?なんてことがあったのかも知れませんね?
参照:孝明天皇の子供は明治天皇かすり替えか?死因真相は伊藤博文の暗殺説?
8,スキャンダルに発展!
引用:Wikipedia
上手いことやっていた伊藤博文でしたが、一度、危ない目にあっています。
芸者以外の女の人に手を出したときのことです。
その人は公家の娘さんです。岩倉具視の3女、旧大垣藩藩主、戸田の妻で、鹿鳴館の華といわれるいわゆるセレブリティです。
そんな高貴なお人を、首相官邸のパーティー(仮装舞踏会)で、関係を持とうとしたことです。
しかもそれをマスコミが嗅ぎつけ、大体的に報じました。
これには伊藤博文、参った!って感じですね。
「英雄色を好む」といいますが、その文字通りの生き方をされた人と言えるでしょう。
そんなプレイボーイ伊藤博文も、最期は暗殺されてしまいます
それではどのような最期を遂げたのか?その理由とは?
見てみましょう。
伊藤博文韓国にて暗殺事件
明治政府の初期中心メンバーの大久保利通が、伊藤博文37歳の時暗殺され、その後をついでいったのが、伊藤博文でした。
ここから、伊藤博文は、憲法起草や様々な政策を矢継ぎ早に繰り出していきます。
そして44歳で内閣総理大臣になると、日清戦争、日露戦争も勝利して、日本のブランド力をガンガン上げていきました。
すごいことです!
そんな結果を残し続けた男が韓国で不運に巻き込まれてしまいます。
64歳で韓国の初代韓国総監になり、政治体制を整えようとしていったのですが、これが一人の若めの朝鮮人のカン違いにより
水の泡と消えます。
68歳のとき、ハルビン駅で、安重根という朝鮮の独立を目指す青年に銃3発撃たれ、倒れ、亡くなりました。
伊藤博文は、韓国の国力をつけ保護から独立させるために頑張っていたのに、、、。
伊藤が倒れた翌年、日本は韓国を併合してしましまいます。安重根、分かってよ!
伊藤博文は、韓国を併合を望んではいなかったんだよお!
皆には伝わらないものなんですね、、、
その他の伊藤博文の功績
●初代内閣総理大臣で最年少記録(44歳)!
●長州の百姓からの成り上がり!
●大日本帝国憲法起草!
●お金の通称「円」を定めた!
●ふぐを食べれるように決めた!
●東京女学館創設!
実に色々携わっていますね!
そして
引用:http://kosenkaitori.info/furushihei/itouhirohumi1000.php
お札の肖像にも!
まとめ
日本の明治時代を力強く屈強な外国の中にあって、戦争も乗り越え、政治も憲法を中心に定まり、
いい感じで舵取りをしていた伊藤博文でしたが、人生の「まさか」がありました。
伊藤博文が生きていいたら、韓国は独立し、日本の思い上がりも少しは抑えられたのかも知れません。