「松平容保」
幕末のイケメン会津藩主といえばこの人でしょう!
松平容保

引用:Wikipedia

どうですこのイケメンぶり!
絵とはいえ、ここまでのイケメンさんはなかなか描けないのではないでしょうか?
美青年って感じで、ジャニーズにもいそうな感じですね。
容保が宮中に現れると女達がそわそわしはじめるほどでした。
松平容保は、幕末の時代、天皇が住む京都を警備する京都守護職という重役を任され、
幕府側として、最後まで德川家に忠義を貫こうとした人です。
(会津藩はそもそも藩祖が徳川秀忠の隠し子、名君保科正之だというのも影響しています)
まさに義の人。
そして孝明天皇からの信頼されていたってどれだけだったのでしょう?
これも義が影響しています。
今回は、その義の人を紐解いて行こうと思います。

松平容保とは?

まずは代名詞でもある京都守護職について見てみましょう!

京都守護職

一番に有名なのは、京都守護職に就任したことでしょう。
時代は幕末、朝廷がある京都では、外国の脅威に対応できず決断ができない江戸幕府を倒して
天皇を担ぎ新しい時代を作るぞ!っていう考えを持つ過激な浪士(尊王攘夷)たちが暗躍していました。
この任務は、相当の大役で、倒幕の機運が高まる中、朝廷がある京都の治安を守る職です。
過激な尊王攘夷志士達を取り締まらなければならない、大変危険で非常に重要な任務。
血が流れる事は当たり前の世界です。

京都守護職就任前

容保は、時の将軍、德川家茂からこの命令を受けた時、再三固辞しました。
一番の理由は、病にかかっていて、この大役をまっとうする自信がないというものでした。
意外と弱気な感じですね。
次なる理由は、過失が万が一あった場合、德川家に多大なご迷惑をかけてしまうから。
意外と弱気な感じですよ容保さん。
もちろん家臣たちも皆反対でした。
なぜって、すでに幕府の形成が不利な状況にある中、京都守護職の任務を受けるのは、あまりにも
労が多くて易がすくないと考えたのでした。
至極、まっとうな意見です。
でもでも、最後は受けてしまうんですね。
当時の幕府の権力者、やはり、德川家の流れを組む松平春嶽の説得により引き受けることになります。
決め手は、「徳川家と盛衰存亡を共にすべし」との藩祖保科正之の遺訓でした。
決めたからには、家臣にも共有し、納得させ、京都を死に場所にしようと会津藩一同固く決意したのでした。やると決めたらやり通す!
本当に義の人です。
損得勘定じゃない。
己の、家の、信念を貫くといった人生観に基づくものです。
そうして京都守護職の就任が決まります。

京都守護職仕事方針

孝明天皇

基本方針は、朝廷と幕府が力を合わせ国家の混乱を鎮める事。
世論を鎖国攘夷から開国へと徐々に持ってく。
その対策として、まずは開港を延期し、外国人の傲慢な態度には毅然と対応する。
といった方針を掲げました。
孝明天皇はこの考えを知り、褒め称えたと言います。
このころから信頼が高まったのです。
そして、軍隊を率いて京に赴き、天皇に謁見しますが、周辺への挨拶もきちんとし、
とても折り目正しい行動をとり、天皇から新たに御衣(衣服)を賜るなど、
相当良い待遇で持って迎えられています。
この頃の写真です
松平容保

引用:Wikipedia

なかなか凛々しいですね!

天皇達の食事改善

さらに、天皇たち公家はとても少ない御料(給料、物価が変わっても戦国時代と同じ料)で暮らしていまして、
必然的に食事にお金をかけられず、魚も食べられような物は食卓に上らず、食べる素振り(形式的に)をするだけというヒモジイ食卓の有様でした。
愕然としますね。
幕府は裕福な暮らしをしていたのに、。
この辺りに幕府を妬むものは貧しい公家につけいり、幕府を悪者にして公家をそそのかしたりしていました。
御料見直しを容保は行い、やっと美味しい新鮮な魚を天皇は食べることが出来ました
これも信頼度アップです!
天皇の胃袋をゲット!

京都の守り方は?

明智光秀
当時の京都はかなり治安が悪くなっていました。
暗殺、脅迫当たり前。
暗殺で切り取られた手足が脅迫文書とともに、公家の屋敷に投げ込まれる、
なんていうことが頻繁にありました。
幕府に対する強烈な批判でした。
これは、天皇をはじめ。公家たちも辟易しますよね。
まず、容保は「言路洞開」という戦術で臨みました。
要は、話を聞こうじゃないかと
同じ徳川幕府を支える一橋慶喜や松平春嶽は、反対でしたが、容保はこの話を聞くことが
問題解決の一番の良策だと信じて行いました。
この考えは、私も賛成です!
今にも通じる策です!
しかしこの策は一部の浪士には伝わりましたが、過激な浪士たちには効きめ無く、
政権を敷いた足利将軍の像の首が三条大橋にさらされるのを見て、容保完全に激怒!
(幕府に対する冒涜です)
目には目をで、治安維持を強めていきます。
配下には新選組、京都所司代、京都町奉行、京都見廻組がいました。
そのやり方も
「策は用いるな!最後には必ず一途な誠忠が勝つ!」という義の徹底ぶりでした。
しかし、相手の倒幕志士たちはいろんな策を弄してきます。
特に天皇からの偽の命令文書、偽勅。
これが厄介で、「会津藩は京都から江戸に帰るように」という勅命を受け、容保は
大いに混乱します。でもこれは偽物だったのです。
そこで、孝明天皇は、慣例を破り、直接天皇直筆の手紙を関白を通じ本物の勅命を容保に届けました。
これだけでもどれだけ天皇が容保を信頼していたかがわかりますね!
内容も、「江戸へ帰るようにという勅命は偽物。朕はもっとも会津を頼りにしている」と!
容保は涙で顔を上げることが出来ないほど感動したのです。
天皇の前で披露する馬揃え(軍事操練)も、過激派の策を乗り越え、しっかりとやりきっています。
長州藩による討幕の動きも、落ち着いて対処し、孝明天皇は「全て容保に任す」といい、
われら会津の精鋭にて一挙に殲滅します!」とその場を鎮めてしまうのです。
相当かっこいいです!

長州との戦い

その後、容保が長州征伐のため軍事総裁に就任し、京都守護職を解かれると、天皇は相当悔しがり、なんとか容保を京都守護職に戻そうとするくらい、信頼をおいていました。
というより、もう離れられない状態とでも言いましょうか。
でも容保は病に倒れ、仕事がまっとうにできない状態。
京都守護職の管理下にいた新選組から、容保の下で働きたいとの願いがあり、
幕府の奉行や老中からも復職要望が多く復職することになりました。
病は厳しいながらもまた京都守護職の職を続けるのでした。
禁門の変(蛤御門の変)で長州軍が攻めくるも「数刻で蹴散らします!」と宣言し、孝明天皇を守り抜きました!
この勢いを活かして攻めれば長州も倒せる!のに、、
と容保は幕府に進言するも、腰が重い幕府。
両肩を家臣に抱えられながら、、。病魔はどんどん体を蝕んでいきました。
どれだけ天皇を守っても、将軍は戦わないし、過激派は減らないしで、弱っていきました。
その後やっと長州征伐は行われますが、最終的には、幕府の本気度がまったくなく、軍勢を見せれば降伏するだろうくらいの甘い考えでいる、昔の江戸時代の統治されていた雰囲気が抜けず、
特に2回目の討伐戦ではほぼ敗退。最悪です。
次期将軍の一橋慶喜も戦いをする気概はなく、休戦方針
容保だけが、なんとか徳川家と朝廷による支配復活を信じ続けて進言しますが、
まったく受け入れられず。
そんな中、将軍家茂、続いてついに孝明天皇が崩御。
暗殺ともいわれるこの出来事は、容保が忠義を尽くすべき人を失うことになります。
進言も通らない、幕府はやる気ない、孝明天皇はもういないのです。
半分あきらめの境地?

戊辰戦争

旧幕府軍と新政府軍との鳥羽伏見の戦いが始まり、ここでも旧幕府軍に気概があれば違ったのでしょうが、多くの軍隊にはそれが足りません。
結果敗戦を続け、大阪城にいた総大将慶喜将軍は江戸に逃げる作戦を実行。
容保も江戸へ戻らざるを得なくなります。
連れ去られるという感じです。断腸の思いだったでしょう。
慶喜が気概があれば!
その後、王政復古の大号令がなり、新政府が成立、京都守護職を廃止、容保は一転、朝敵になります。
あれだけ孝明天皇には信頼されていた容保でしたが、息子の明治天皇はすでに新政府側の薩摩たちが取り込んでいました。
もう会津に勝ち目はほぼありません。戦う大義ももうありません
降伏を決めるものの、それを退けられます。何という、、、。
そして一ヶ月に及ぶ会津戦争にて容保達は新政府軍にこてんぱんにやられてしまいます。
武士道を重んじる会津藩では、家臣をはじめ、女子供も戦い、または自決するという道を選びます。
なんという悲劇。どれだけの死者がでたのか、、、。女子の自決人数は239人に及ぶと、、、。
もっと早く降伏していればよかったのか?
そうすれば悲劇を生むことがなかったのか?
確かにそうだったのか知りません。
時代の流れは変えられませんでした。
ああ、これも必然か。
兎にも角にも、時代は代わり、明治維新が始まりました。
容保達の苦労があり、その上に成り立ったものだと信じましょう!

その後

松平容保
引用:Wikipedia
その後容保は和歌山藩預け、斗南藩預け、東京蟄居を経て許されます。
日光東照宮の宮司に任じられ、東京小石川の自宅で肺炎のため59歳で亡くなります。
東照宮の宮司を出来たことはせめてもの徳川家に対する供養が出来たのかも知れませんね!
一方家臣にはとても好かれていた反面、会津の領民には年貢が重く、嫌われていたと。
民を思って改革を進めた薩摩、長州軍とお上を思って対抗した旧幕府軍との
違いが勝利の差になって現れたのかも知れませんね。

最後に

イケメンな松平容保は、会津藩祖保科正之の教えを忠実に守り、

徳川家を守り抜くという信念を貫き通しました。

それを良しとするか、どうかは意見が別れるとは思いますが、

とにかく貫き通したことは事実です。

しかし、多大な犠牲が出てしまったことは悔やむべきです。

孝明天皇の信頼を一手に受けたイケメン藩主。

幕末に咲き、そして枯れていった一輪の華といえるでしょう!