引用:Wikipedia
写真に映っているお方は、松平慶永(春嶽)という越前福井藩(今の福井県)の16代当主です。
幕末の時代に生まれ、幕末四賢侯と呼ばれるほど、優れたお殿様なのです。
そんなお殿様が、日本で初めてりんごを導入し、日本で初めて自転車に乗り、
近代国家「明治」の元号を命名したっていうじゃありませんか?
初めて尽くしで、新しい物好きだったのかな?
そして、明治っていう元号になにか思い入れとかあったのかな?
気になったので、調べてみましたよ。
それでは行ってみましょう。
日本で初めて西洋りんごを導入した人
そのりんごは何処から入手したのでしょう?
1862年、アメリカから輸入し苗木を手に入れました。
そして江戸郊外にある、巣鴨の福井藩下屋敷(別邸)に植えました。
さぞかしワクワクしたことでしょう!
または、育てて売れば儲かる、なんて希望もあったのかも?
それから接木によりガンガン増やし、100本ほどりんごの木を増やしていきました。
いい感じですねえ。
その後、りんごの栽培に適しているのは江戸よりも津軽(青森)だ!ということで、
このりんごの木から苗木を津軽の旅籠屋さんが、津軽に持って帰り、栽培したことから、現在の青森のりんごが始まっているのです。
この移植は大正解!
私達が美味しいりんごを食べられるのも、松平春嶽のおかげと言えますね!
自転車に初めて乗ったのが春嶽!
またまた新しいもの好きですね!
今度は自転車です。
りんごの導入と同じく1862年、(安政の大獄により謹慎中でした。安政の大獄に関してはこちらを→
江戸霊岸島の越前藩邸で乗りました。
乗った自転車は、「ビラスビイデ独行車」と呼ばれた欧州の三輪自転車です。
春嶽は謹慎中だったこともあって、憂さ晴らしもあったのでしょう、楽しく乗り回したって言います。
春嶽がさっそうと乗り回す姿が目に浮かぶようです。
馬や籠などはあっても、自分で漕ぐ自転車という乗り物は、画期的です。
自転車に乗りながら、何を思ったのでしょうか?
楽しみながらも、きっと、憎き井伊直弼!新しい日本を成し遂げてみせる!と心の中では思いながら
乗り回していたのかも知れませんね!
ちなみに自転車を組み立てたのは、家臣の佐々木長淳によるもので、入手は横浜で陸揚げされたものをゲットしてきました。
越前藩の家臣には有能な人が多かったといいますが、彼もその一人で、鉄砲、火薬、帆船などの建造に携わった人で、自転車が目に入ったのでしょうね。
「これが自転車ってものか!」
「早速殿様に持っていったら喜ぶだろう!」
て感じでしょう。
その後、井伊直弼が暗殺され、一気に時代の流れが倒幕に向かい、晴れて明治新政府が成立しました。
その「明治」という年号を命名したのが、松平春嶽だったのです!
その経緯を見てみたいと思います
明治を命名した松平春嶽
明治の由来は中国の書「易経」の中に、「聖人南面して天下を聴き、明にむかいて治める」
という言葉があります。
そこから「明」と「治」をとり、明治と名付けました。
良い言葉ですね。
この他いくつかの候補を挙げ、その中から明治天皇がくじ引きでご選出されたのです。
名付けた春嶽も良い元号を選びましたが、それを引き当てた明治天皇も良いくじ運をお持ちでした。
この元号の元、日本は、世界の列強の中に対等するような力を手に入れて行くようになるのでした!
松平春嶽ってどんな人?簡単に
日本の初めて物語に関わってきた春嶽ですが、もう少し、松平春嶽について紐解いてみましょう。
1828年10月10日に江戸城で生まれた松平春嶽は、血統的には、8代将軍德川吉宗の血を引くもので、
徳川家康次男の結城秀康の子孫の家に養子に入ったという、コテコテの德川、松平派です。
妻や子供は?
熊本藩主細川斉護の娘、勇姫でこれもまた、名家同士の結婚と言えます。
顔に、痘痕が残る勇姫を、心美しければ問題ないと嫁に迎え入れています。
男気です!
その子供も活躍していまして、
宮内庁初代長官の松平慶民や、日ソ交流協会会長の德川義親がいます。
活躍していますね!
松平春嶽の実績は?
90万両の借金を改善するため、まず財政改革を行いました。
財政改革
主なものに、
●全藩士の俸禄3年間半減
●藩主の5年間出費削減
自ら身を切る姿勢に、民衆も良き殿様と仰ぎ見ました!
やはり率先垂範、これは鉄則ですね!
また、部下の由利公正などにより、生糸の販売拡大などの積極的経済政策により、黒字に転化しました。
薩摩藩に負けじと結果を出しました!
参照:調所広郷が藩の借金踏み倒し?奄美黒砂糖で錬金術改革?!
挙藩藩上京計画
これは、熊本藩の横井小楠という人物を政治顧問として招き入れ、
発表された計画です。
これは簡単にいうと、福井藩による、天下掌握作戦デス!
福井藩を挙げ、さらに他藩とも連携して挙兵し、京都を制圧し、その後、朝廷と幕府を超えて有能な人材を登用。
新しい政府を自らぶち上げるという男気あふれる作戦。
最終的に実行は出来ませんでしたが、幕末の世に、このような天下を目指す大風呂敷を実行直前まで推し進めるとは只者ではありませんね!
軍政改革
中根雪江や橋本左内などの実力派部下を擁し、藩を強化するため、軍政改革や洋学所を建てたり、と矢継ぎ早に
取り組んでいきました。
結果、日本国の中央の政治に深く関わり、表舞台に躍り出ることが出来ました。
明治維新成立後、要職を務め、近代国家の幕開けに貢献した人物と言えます!
辞世の句
63歳で肺水腫のため、東京小石川の自宅で亡くなります。
その時読んだ句が、
「なき数に よしや入るとも 天翔り 御代をまもらむ すめ國のため」
國の事を最後まで想い亡くなっていきました。
最後に
男、松平春嶽を見てきました。
りんごを導入し、自転車を乗り回し、明治を命名し、福井藩を強くし、
日本の幕末から明治に掛けて大いに影響を与えた松平春嶽について見てきました。
血筋の良いお殿様なのですが、男気の有るところも随所に見られ、
魅力的な人物だったことがわかります!
福井県の英雄デス!