戦国時代をこよなく愛する激務ファミレス店長南昌幸がお届けする
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「薬袋」ってこれなんて読むと思いますか?
「くすりぶくろ」?
ですよね!普通はそう読みますよねえ。
でも違うんです。
「やくたい」?
なんか「布袋」(ほてい)みたいですもんね!
でも違います!
ではなんて読むのでしょうか?
答えは、「みない」と読みます!
殆どの方が読めなかったと思います!
どうして、薬袋をみないと読むのか?
この由来について紐解いて行きたいと思います!!
もしご興味がある方は、よろしくお付き合い願えればと思います!
目次
薬袋という地名はある?
まずよくあるのが地名からとったという説が多いようです。
薬袋という地名は果たしてあるのでしょうか?
探しました!
ありました!
山梨県南巨摩郡早川町薬袋!
山梨県の南に位置する山間の町にありました!
やはり、薬袋(みない)と読むようです!
由来はなにか調べてみました!
すると、1人の医師の名前が出てきました。
その名も「永田徳本」といいます!
安価で治療を行った放浪の医者で、武田信虎、信玄公に仕えていました。
「永田徳本がいれば、薬は要らない=薬袋はみない」
というところから、永田徳本先生が滞在した場所の早川町に
「薬袋」という地名が付けられたと言われています!
湿布薬などで知られる製薬会社「トクホン」の名前は、この医者の名前に
ちなんで付けられたそうです!
しかし、名字としては薬袋という家が一件も早川町にはいません!
なので違うルートを辿ってみることにしましょう!
レア名字BEST3位!由来の発表!
以前テレビ番組で、レア名字のランキングをやっておりまして、
そこでまさに3位にランキングされたのがこの「薬袋」
という名字でした!
では、そこで紹介されていた名前の由来をご紹介致しましょう!
甲斐の国(現在の山梨県)を治めていたのが武田信玄公でした。
武田信玄公についてこちらの記事を参考になさってください
甲斐の国、戦国大名、武田信玄公は「こじか」タイプ?その中身は?職場にいる?
武田信玄公は、病に侵されていて、薬を手放せない状態でした。
しかし、その病を周りに知らせるわけには行きませんでした!
なぜなら、病気という弱みにつけ込み攻め込まれたり、部下から謀反をおこされる恐れがあったからです。
その武田信玄公があろうことか狩りの最中に薬籠を落してしまい、
それを拾って届けた百姓に「薬袋くすりふくろ」は見たか?
と尋ねたところ「みない!」と答えたのでその百姓に「薬袋=みない」という名字を与えたようです!
なんかトンチのようで面白いですが、そういう話が伝わっています!
名前の由来ってこんな感じで付けられるものなんですね!
実際に武田家の家臣だったのか?
薬袋と呼ばれる人は、どのような人だったのか?
一番古い「薬袋」さんは、「薬袋小助」さんと言うようです。
これは、武田信玄を筆頭とする、家臣の一覧図があるのですが、
「信玄公から、武田24将、、と上から下へ書き記した図)
この下の方に、小さく「薬袋小助」と書いてあるではありませんか!
驚きました!
これは推測するに、名字をもらったことで、家臣に取り立てられたのでは
ないでしょうか!
きっとそうでしょう!
浅利与一公の子孫の一族という話は?
浅利与一公は弓の名手
浅利与一公という人物は、鎌倉時代の弓の名手で、三与一の一人です!
武田信玄公の祖先(武田信義公)と兄弟になります。
鎌倉幕府初代将軍の源頼朝公の幕下で働いていました。壇ノ浦の戦いなどにも参戦しています!
山梨県の浅利地区を本拠としていました。
(伝説として伝わるのが、ある時、浅利与一公がそこからかなり離れた川にいる白鷺を弓矢で狙いました。
その弓で弾いた矢が、見事に白鷺に命中します。
しかし、それは白鷺ではなかったのです、、、、。
白い服を来たお婆さんだったのです、、、、。悲しいお話です、、、)
浅利与一公の奥さんは板額御前
そして、奥さんは3御前の一人、謀反人の女武将、板額御前だったりします!
堂々たる振る舞いを見た浅利与一公は、時の将軍、源頼家公に謀反人である板額御前と結婚したいと申し出ます!
その時、浅利与一公は、「彼女との間に武勇に秀でた男子を儲けて、幕府や朝廷に忠義を尽くさせたい」
と言ったそうです!
男らしい!!!
将軍は、笑ってこれを許したといいます!
なんかいい話ですね!
要するに、武芸に秀でた2人が結婚したのですから、その血筋は
武芸に秀でたものが生まれるでしょう!
とその通りになっていきます
浅利与一公の子孫は武田家の重臣となる
時は流れ、戦国時代、武田信玄公の時代になります。
浅利与一公の子孫は、武田信玄公の重要な家臣、浅利信種公となります!
(赤備えの騎馬を120騎もつ侍大将でした!)
この浅利氏に仕えていた4つの家がありました。
そのうちの一つが、「薬袋」家なのです!
薬袋の人たちはどこへ
赤備えにいた薬袋藤市さんは武田家滅亡後
井伊直政公について彦根に行ったと言われています!
浅利信種公が亡くなった後、その部隊は
浅利昌種公についていったのが、薬袋ひょうべえ?さんという方で、
この方は、武田家滅亡後、浅利昌種公とともに東京都の昭島へ移動し、
そこで家系をつなげていったようです。(菩提寺は広福寺)
実際、昭島市の福島ってところには、薬袋って名字が多くいます!
薬袋小助さんはどうなりましたか?
土屋昌続公の弟の土屋昌恒公(片手1000人切りの勇者)と一緒に
武田勝頼公と共に、最後まで残った40人のうちの1人で
壮絶な最期を遂げたと思われます!
しかし、その子孫、薬袋久兵衛さんというのが生き残っており、
現在は山梨県の中央市大鳥居にて浅利与一公の墓の近くで
今もなお健在です!
たくさん人物が出てきましたので
一度整理しました!
浅利与一公 | 源頼朝公に仕える |
板額御前 | 浅利与一公の奥さん。女武将 |
武田信玄公 | 甲斐の国の領主。「薬袋」の名付け親。 |
浅利信種公 | 浅利与一公の子孫。信玄公に仕える。赤備えの騎馬隊を受け持つ。 |
浅利昌種公 | 信種公の嫡男。赤備え半分引き継ぐ。 |
土屋昌続公 | 赤備え半分引き継ぐ。後昌種公へ。 |
土屋昌恒公 | 昌続公の弟。信玄公の子、勝頼公と共に最後まで戦い戦死。 |
井伊直政公 | 武田家滅亡後、赤備えを引き継ぐ。 |
薬袋小助 | 武田家家臣。薬袋の名前をもらったと思われる。勝頼公とともに戦死。 |
薬袋藤市 | 井伊直政公についていった赤備えの一人。 |
薬袋久兵衛 | 薬袋小助の息子。山梨に根付く。 |
薬袋ひょうべえ | 浅利昌種公とともに東京昭島へ移動。昭島に根付く。 |
まとめ
薬袋という由来は、武田信玄公が薬を落としたことがきっかけでした。
この時、薬を見ないといったことからこの名字が付きます。
その後、薬袋家は浅利家の一族として、各地で活躍しました。
現在、確実なのは、東京都昭島市、山梨県中央市、
あたりで子孫が引き継がれているようです!
こういうレアな名字の由来を追ってみるのも面白いですね!
あなたの名字の由来はご存知ですか?
板額会は、浅利与一義成公の妻、板額御前のふるさと新潟県胎内市で活動している市民有志の歴史愛好グループです。
板額御前を話題にしてくださっているのが嬉しくてコメントしました。
浅利さんの一族はかなり栄えたのでしょうね、あちこちに「私はその子孫です」と名乗る方がいらっしゃいます。たまに「与一さんの嫁に会いに来た」といって、わざわざ胎内市まで遊びに来てくださる方もいらっしゃいます。
薬袋さんもご一族なんですね。記事が面白くて一気に読みました。
よしかったら板額会のfacebookや胎内市ホームページも覗いてみてください。
板額会さん、ブログをお読み下さり、またコメントまでくださりありがとうございます!
私は、浅利与一の墓がある、山梨県中央市大鳥居の出身です。(今の住まいは神奈川県ですが、、、)
板額御前の話は、山梨の実家の母親が踊りをやっていまして、その関係?で新潟に行き
仕入れてきた話しを聞いたところから、私も興味を持ち、ブログに書いた次第であります。
今度もう少し詳しい話を母に聞いてみたいと思います。
また、板額会のFacebookと胎内市ホームページも見させていただきたいと思います!
ご紹介ありがとうございました!