門松には寸胴型と、そぎ型があるのをご存知ですか?
そぎ型
(普段良く見るのはこの形ですよね。
しかし門松が出来た頃は違ったのです。)
(江戸時代スタイルの門松)
寸胴型
(実はこの形が元祖なのです)
(室町時代スタイルの門松)
どこが違うのでしょうか?
竹の先を良く見てみてください。
そぎ型は、斜めにそぎ落とされていますね。
対して寸胴型は筒のまま。
この、そぎ落された門松の由来が歴史のある出来事にありました。
その由来というのは、戦国時代、徳川家康公と武田信玄公とが戦った「三方ヶ原の戦い」です。
この戦いの後、門松の竹はそぎ型になっていくのですが、、。
それでは、そぎ型門松誕生の謎を紐解いていきましょう!
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門松の歴史
門松というのは、「年神様を迎え入れる為の対象物」ですが、
門松の歴史はどうなっていたのでしょう。
初めて出てきたのは平安時代で、当時は家に松を持ち帰っていました。
そして室町時代には正月に家の門の前などに寸胴型の竹、松を飾るようになります。(寸胴型の竹出現)
その後、「三方ヶ原の戦い」を経て徳川家が支配する江戸時代にはそぎ型の竹、梅、松を飾るようになるのです。(そぎ型の竹出現)
竹の型が変わるきっかけになったこの「三方ヶ原の戦い」で一体何があったというのでしょうか?
見てみたいと思います。
三方ヶ原の戦い
1572年12月22日、上洛する武田信玄公に対し、徳川家康公が浜松城から討って出て対戦した戦いです。
この戦いは、徳川家康公が大敗するのですが、武田信玄公は追い打ちをかけるようにある歌を新年の挨拶に徳川家康公に送ります。
これがそいだ門松が出来るきっかけになるのですが、、、。
詳しく見てみましょう!
新年挨拶の歌の攻防
合戦に勝った武田信玄公は、さらに徳川家康公を精神的に追い詰めるために新年の挨拶に歌を送ります。
その歌はなんて詠まれていたのでしょう?
ご紹介します。
信玄→家康
「松枯れて 竹類なき あしたかな」(まつかれて たけたぐひなき あしたかな)
意味は、「松(松平=家康のこと)が枯れて(滅びて)竹(武田のこと)類なき(比類することない、繁栄する)あしたかな」
要するに、「徳川家が滅び、武田家が繁栄する」という意味を歌にして送りつけたのです!
追い込みますねえ!
これに対して家康公も黙ってはいません。
徳川家康公から返した歌はこうです。
家康→信玄
「松枯れで 武田首なき あしたかな」(まつかれで たけだくびなき あしたかな)
意味は、「松枯れで(松平は滅びず)武田首なき(武田家は滅びる) あしたかな」
要するに、「徳川家は滅びず、次には武田家を滅ぼす」、という意味です。
この歌を作った時に、ちょうど季節柄飾ってあった門松の「竹」を「武田家」になぞらえて、徳川家康公は斜めに削ぎ落としました。
徳川家康公の怒り具合が伝わってきますね!
そぎ型門松の誕生
このように怒った家康公が門松の竹を「武田の首」に見立てて削ぎ落としたことで、
このそぎ型門松が誕生することになります。
おおっ、ちょっと怖いですね。
この後、徳川家康が治める領地の門松は、そぎ型に統一されていくことになります。
これがそぎ型門松誕生の秘密です!
さらに歌にトンチが隠されていました。
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歌のトンチ
信玄公の歌「松枯れて 竹類なき あしたかな」(まつかれてたけたぐひなき あしたかな)
家康公の歌「松枯れで 武田首なき あしたかな」(まつかれでたけだくびなき あしたかな)
比べますと濁点の位置を変えるだけで平仮名は全て同じ文字を使っています。
しかし、全く逆の意味になっているというなんともひねった歌です。
家康公の返歌はなかなかトンチが効いていて上手ですね。
実際この後の武田家は滅び、徳川家は日本を統一していきます。
まとめ
本来は寸胴型だった門松。
三方ヶ原の戦いの裏で起きた家康公と信玄公との歌合戦。
信玄公は、徳川は滅び、武田は繁栄するという内容の歌を、新年の挨拶として徳川家康公に送ります。
徳川家を貶める歌に怒った徳川家康公は返しに「武田の首無くなる」と歌を書き、
武田を竹に見立て、季節柄飾ってあった門松の竹を削ぎ落とします。
そうして、そぎ型の門松が生まれるのでした。
今の時代、そぎ型の門松が主流なのは、こうした理由があったのでした。