徳川斉昭ってご存知でしょうか?
引用:Wikipedia
ちょっと底知れぬ怖さがあり、ミステリアスな雰囲気を感じるのは私の気のせいでしょうか?
大河ドラマ「西郷どん」では、伊武雅刀さんが演じています。
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過去の大河はどうでしょう?
「八重の桜」では伊吹吾郎さん、
「篤姫」では江守徹さん、
「徳川慶喜」では菅原文太さんが演じています。
共通点は渋めで錚々たる演技派の方々といえるのではないでしょうか?
さて、実際の徳川斉昭がどのような人で、何をした人なのか?
そして子供はいたのか?
今回は、そんなミステリアスな徳川斉昭について見ていきたいと思います。
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徳川斉昭(とくがわなりあき)とは?
産まれたころから藩主まで
1800年、7代水戸藩主徳川治紀の3男として産まれます。
水戸藩といえば水戸黄門様で知られる2代藩主水戸光圀公がいた藩ですね!
幼少の頃から聡明で、水戸学を学び、尊皇攘夷思想(主君重視の開国反対異国は敵)を深めていきました。
30歳になるまで、江戸の水戸藩邸に部屋住み(待機)していました。
他の兄弟は家督を継いだり(長兄斉脩が8代目の家督を継ぎます)、養子に出たりしてきちんと自分の居場所を確保していましたが、斉昭はずーーと待機状態でした。飼い殺しみたいな状態ですね。優秀だったので、きっと父親が水戸藩に残して残しておきたかったのでしょう。
そしてそうこうしている間に8代藩主斉脩が自分の子供が出来ないまま病で亡くなります。
次は誰が嗣ぐんだあ。ってことになり、ちょっと揉めましたが、
遺言が発見されたことににより、正式に斉昭が9代藩主になります。
「やっと来た!」そりゃ思ったことでしょう。
とにかく引きが強いです!これも運命でしょう。一生部屋住みになる可能性もあったわけですものね。
藩主となって矢継ぎ早の改革。先見の明の数々
1829年に藩主になると、次から次へと改革を起こしていきます。
鬱憤していたものを一気に吐き出すかのごとく行動でした。
どんな改革をしたのか見てみましょう。
藩校、弘道館の設立
学校を作り、下層の藩士からも多く有能な人材を育て、登用していきました。
文、武、医学の総合的な大学みたいな学校でした。
人を育てることの重要さを身にしみて分かっていたんだと思います。
だって、自分がずうっと学んできていましたから。
藤田東湖、会沢正志斎など、有能な人材が教授にそろっていました。
その影響力は水戸藩だけではなく、日本全体の半分以上の思想は水戸発祥と言っても良いくらいの抜群の影響力がありました。(その後、尊皇攘夷の志士が次から次へ日本全国津々浦々たけのこのように出現します)
そして、卒業の概念がなく、学問は一生行うものという、生涯学習の概念も弘道館のひとつの特徴です。
現代でもよく言われる生涯学習。先見の明があったとしか言いようがありません。
近代軍事路線
軍事に対してもバシバシ改革を行っていました。
追鳥刈(おいとりがり)という大規模軍事訓練の実施や、西洋近代兵器の国産化と、外国に対抗するために必要な政策を繰り広げていました。幕府に対しても蝦夷地(現北海道)の開発や大船建造解禁などを提案していて、影響力はここでも全国レベルになっていました。
とにかく強くなければ外国に乗っ取られてしまう!生き残れない!そんな危機感が見えます。
世界を俯瞰して見ることができる。ここでも先見の明があります。
宗教面では
軍事や教育にお金がかかりますので、どこからか調達しなければなりません。その矛先を寺社に向けました。
釣り鐘、仏像を没収し、大砲の材料にすることにしました。
また、下級中級藩士と家老達の派閥組織を1つにまとめるために、仏教を抑圧し、神道を重視する政策を推し進めました。
ちょっと急激にやり過ぎて反発を喰らってはいますが、、。
偕楽園の設立
3000本の梅の木が公園内に植えられている、日本三大名園の一つです。
大きさは都市公園としては、ニューヨークセントラルパークに次ぐ広さを持ちます。
藩校弘道館で学ぶ藩士が休養するために作られた公園で、斉昭は学ぶことと、休養することのバランスの重要さをよく分かっていたのでしょう。
さらに3と8の付く日には領民にも解放していたとのこと。おお民思いの斉昭。
更に別邸の食堂に配膳用のエレベーターがあるのですが、これは日本で初めて採用されたエレベーターだそうです。
やはり、ココでも先見の明ありです!
といった感じでガンガン仕事していますね!バリバリできる政治家さんです。
素晴らしい業績を残した斉昭ですが、倹約家の側面も強く持っていました。
次に倹約家としての一面を覗いてみることにしましょう。
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倹約家としての斉昭
側室に激怒?!
寵愛していた側室の地位をあげたことがありました。
その側室は喜び、「さらに地位に合うように服装を整えたいのでお金を欲しい」とねだりました。
「今まで通りで良い」と斉昭が言っても側室納得いかず「それでは体面が保てません」と食い下がります。
これには倹約家、斉昭完全に激怒します。
その側室が斉昭に目通りを叶うことはありませんでした。
側室さん、斉昭のこと分かってあげてください。
1万両の援助金を返納する
幕府より、35万石という領地以外に1万両の援助金を水戸藩は毎年貰っていました。
しかし、倹約家の斉昭は、それは祖先が拝領した35万石で生計を立てていくのが筋だといい、1万両を返金しました。
これは斉昭、男ですね。
素晴らしいです。
藩主になっても食事は質素
藩主ともなれば、食事も豪華であるのが当時の習わし。
当然斉昭が藩主になってから食事は豪華なもので引き継がれました。
が、そこは倹約家の斉昭。
「徳川御三卿の水戸藩は、表向きは質素にするわけにはいかないが、内向きは倹約することができる。よって、食事は質素にする。」といって、部屋住み時代の食事に戻してしまったという話です。
改革を唱えるものは、まず自ずから率先垂範。
素晴らしいです。
ちなみに好物は牛乳で毎日900ミリリットルのんでいたとか?!
大奥に対しても容赦なく倹約を求める
江戸城の大奥という場所は、とにかく豪華絢爛な場所でした。
なので、お金がかかって仕方ありませんでした。
そこにお金を使うな、国を動かすにはお金がいるんだってことで、倹約家の斉昭は口うるさく言っていました。
まあ、大奥の方たちは良くは思いませんよね。実際嫌われていました、、、。
倹約家の一面をみてみました。
節約を心がければ生活も引き締まるし、良い点が多いと思うのです。
まあ、嫌われてしまっては元も子もないかもですが、、、。
そしてもう一つの側面。
それは、女関係が烈しすぎる点です。
これは烈しいですよ。
見てみましょう。
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斉昭の女関係
子供が多い!
とにかく産ませた子供の数が多い多い。
なんとその数37人!!
学校人クラス分じゃないですか。
(ちなみに徳川慶喜は7男です)
徳川将軍で飛び抜けている家斉の55人には及びませんが、それにしても多い。
毎年子供が産まれ続けたようで、精力がありあまっていたのでしょうね。
その精力さを13代将軍家定に分けてあげれれば、井伊直弼とここまでもめなかったかもしれませんね。
将軍の娘の女中に手を出す
11代将軍家斉の娘、峰姫(55人中の一人ですね)が、斉昭の兄斉脩に嫁いで来た時のことです。
峰姫に付き添いできた大奥の大奥上臈年寄(上級女中)唐橋という絶世の美女がいました。
唐橋は、公家の出で、生涯奉公し、終身不犯(男女の関係を持たない)を誓っていました。
しかし、斉昭は事もあろうに、この操を守ってきた唐橋(将軍家慶も身を引いたという)と密会を重ね、そして妊娠させてしまいます。
斉昭的には、目の前にいる美女を放おっておけないのでしょう。そして、不犯を誓っている女の誓いを曲げさせる程の何かを持っているのでしょう。
それはエネルギッシュさか?質素な生活から来るハングリーか?はたまたフェロモンか?
いずれにせよ、絶倫といえるでしょう!
しかし、これは斉昭やり過ぎでしょう。女性のことも考えてー
そんな斉昭も子で一橋家に養子に出した慶喜には厳しくしたと言います。
そして確実な教育を施していました。
ちょっと見てみましょう。
斉昭流、一橋慶喜(徳川慶喜)への教育
弘道館と偕楽園で鍛える
とにかく藩校である弘道館で徹底的に学ばせました。
そして偕楽園で馬術を身につけさせ、
他にも水術、弓術、砲術を会得させていました。
その期間9年間です。
とにかく四書五経は覚えさせられたようです。
江戸ではなく水戸で学ばせた
当時江戸は教育するのに適した場所ではなくなっていました。
どういうことかといいますと、贅沢がはびこり、風紀は乱れ、賄賂が横行する状態だったのです。
そして、武士は泰平に慣れ柔弱し、商人の財力の前に頭を下げるような有様だったので、斉昭は慶喜をそんな江戸ではなく、質素剛健な風土が根付いている水戸で学ばせたのです。
慶喜の寝相を治す荒療治
ここで、斉昭の厳しい教育方法の1つをあげておきます。
慶喜は幼いころ、かなり寝相が悪かったようです。
礼儀作法にも厳しい斉昭はそれを矯正するために、慶喜の枕の両横に剃刀を置き、強制的に半ば命がけの状態で寝相を矯正したと言われています。
何事も本気。そうでなければ物事など達成することなど出来ない。
そんな斉昭の考えが見えるようなエピソードですね。
慶喜はその後英邁と呼ばれ、徳川最後の将軍をつとめあげることになるのです。
最後に
列公と呼ばれた烈しすぎる大名、徳川斉昭の象徴するエピソードをみてきました。
中央政治的には、井伊直弼との将軍継承問題に敗れたり、老中首座阿部正弘には、名誉職を与えられ上手くかわされたり、
過激すぎる改革が幕府に毛嫌いされたり、大奥に嫌われたりと、なかなか上手くは行きませんでしたが、地元ではしっかりと結果を出し、思想は全国を駆け巡ることになるのですから、斉昭が幕末に存在した意義は、とてつもなく大きいものがあったんだと思います。
そして、何よりも、個性過ぎるエピソードが最高でしたね。
時代を牽引できる人ってこのくらいエネルギッシュでパワフルでなければならないって事を教えてくれました。
斉昭、ありがとう!