二人の偉大な父を持つ稀代の名将登場!
「立花宗茂」は天下人も絶賛する戦国武将です!
引用:Wikipedia
「武士の中の武士」
「西国一の猛将、比類なき武芸の達人」
「忠義も武勇も九州随一」
と評され、天下人豊臣秀吉や徳川家康からも絶賛される程、
優れた人格と器量を併せ持った人物です!
特に、わずか2000人程で、島津軍6万の九州制覇の野望を挫かせ、退却させることに成功した凄い男なのです!
こんな、パーフェクトヒューマンが戦国の時代にいたのです。
今回は、戦も強く、文化にも明るく、義理堅い「立花宗茂」について
紐解いてみたいと思います。
[ad#co-1]
立花宗茂年表
まずは、宗茂の一生を年表で見てみましょう
年号 | 出来事 |
---|---|
1567年 | 大友氏の重臣高橋紹運の長男として生まれる |
1571年 | 道雪、功績により立花城城主になる |
1575年 | 道雪が家督を誾千代に譲る |
1578年 | 初陣 |
1581年 | 道雪に請われ娘婿になり戸次家の家督を相続 |
1582年 | 名字を戸次から立花に改める |
1585年 | 道雪陣中で病死。その後誾千代と別居。 大友氏と島津氏激突 |
1586年 | 高橋紹運岩屋城で戦死。豊臣秀吉、九州征伐開始。 |
1587年 | 秀吉より島津攻め先鋒を命じられる。秀吉より筑後柳河を拝領する。 |
1592年~98年 | 朝鮮出兵(文禄・慶長の役)参陣 |
1600年 | 関ヶ原の戦いで敗退し改易(解任) |
1606年 | 奥州南郷に知行(土地)を得る |
1619年 | 筑後柳川へ再封。初代柳河藩主に |
1642年 | 逝去 |
二人の猛将を父に持つ名将
立花宗茂は、大友氏の重臣であり、猛将としてられる高橋紹運の長男です。
凄い子供時代
かなりの肝っ玉が座った子どもだったようで、8歳の時、見世物があって見物していると観客同士で争いが起こり殺される者がでてしまいました。
慌てふためく観客の中、宗茂は落ち着き払って、最後まで見世物を見終わって帰ったといいますから大したものです!
初陣
初陣で父とは別に150人の軍を率いて奇襲に成功しています。そして相手の有力武将を弓で負傷させ、最後は相撲で圧倒し、家臣に討ち取らせています。
華々しい限りです!
立花宗茂へ
引用:Wikipedia 立花道雪
この勇猛果敢な戦いぶりに惚れ込んだのが、高橋紹運と並ぶ猛将、戸次鑑連(べっきあきつら)(後の立花道雪)でした。
跡取りの男子が鑑連はおらず一人娘誾千代の婿養子に宗茂を熱望し、宗茂は戸次家の家督を継ぐこととなります。(その後立花へ改名)
この養子に行った時、エリートでお坊ちゃま育ちの宗茂は道雪に厳しく教育されています。
一例には、道雪達と散歩中、トゲの付いた栗を踏んでしまった宗茂は、近くの者に、抜いてくれるように頼むのです。
すると、抜いてくれるかと思いきや、逆に栗を足に押し付けるではないですか!
これは道雪の指導方法でしょう。
叫び声をあげようにも、養父の道雪が睨み付けているので、叫ぶことも出来ず、どうにも困ったという逸話があります。
スパルタというか、今ではありえないやり方で鍛えられていました。これが宗茂を強くさせました。
島津軍との最終決戦!
そして戦争に明け暮れます。まずは筑前の支配を進め、
次に九州制覇を目指し侵攻してくる島津氏との攻防を繰り返していきます。
6万の島津軍は、実父高橋紹運がいる岩屋城を攻め、高橋軍700名は10日間は持ち越えますが、力尽き玉砕します。
それでも3000人の島津兵を倒すという強さを見せてくれます。
次に宗茂の弟がいる宝満山城を落とされ、最後は宗茂のいる立花山城ただ一つとなります。
あとがない宗茂。
しかし、ここで奇跡が!
と豊海関白になった豊臣秀吉の九州征伐軍を後ろ盾に、一気に逆転、宝満山、岩屋城を奪還して行きます。これは執念でしょう!
この奪還の戦でその名は天下にとどろきました。
豊臣秀吉から、九州征伐では、抜群な武功により、筑後国(福岡)柳河を拝領しました。なんと13万石!
これは豊臣秀吉の褒美で、大友氏から独立し、直臣大名として扱ってくれるようになった事の証拠です。凄い!一国一城の主です!まあ実力的に当然でしょうけどね。
肥後一揆を鎮圧した際には、豊臣秀吉からさらに領地を増やしてあげようと、言われますが、「もう充分頂いている」とことわり、「代わりに戦のときには先鋒として使って欲しい」と願い出ます。
そして、朝鮮の役の際、宗茂は先鋒を勤め、敵方2万2千の軍勢に、わずか800名の手勢で夜襲と火計を用いて撃破し、700の首を取るという戦功を挙げるのです!
また、加藤清正が明、朝鮮連合軍約3万の軍に囲まれて窮地に陥ると、その対策に対し、評定ばかり繰り返す日本軍にしびれを切らし、自らの策を進言します。策が用いられると早速わずか500の兵を率いて夜襲をかけ成功し、明の先陣5000の兵を鉄砲隊500人で撃退し、偽情報を捕虜を解放し流させ明軍を分断包囲して撃破。加藤清正を救済に成功するという並外れた戦果をもぎ取ります。もはや神業です。
関ヶ原
関ヶ原の戦いでは豊臣秀吉の義を重んじ東軍につくなら命を断つとまでいい、西軍に味方します。大津城を攻め、二の丸まで攻め込むも、関ヶ原で西軍壊滅の報を聞き、大阪城へ引き返します。大阪城で、西軍総大将毛利輝元に徹底抗戦を進言するも聞き入れられず、仕方なく自領の柳河に帰陣します。ここで戦ってたらどうだったでしょうかね?
柳河への帰り道、同行したのは実父高橋紹運の仇、島津義弘でありましたが、兵をほとんど失っていた島津義弘に対し、それを討つのは武家の誉れにあらず、と敵討を主張する家臣たちの進言を退け、逆に護衛しながら無事に九州までたどり着きました。
本当に義に厚く、筋が通っている武将ですね!
柳河では東軍の武将たちから攻め込まれ、最終的に説得され、降伏開城する運びになりました。
皆を戦乱に巻き込みたくない、分かって欲しい!と、降伏開城を止めようとする領民たちに対して宗茂は答えました。冷静に物事を考えることが出来る、上司として素晴らしい判断が出来る人ですね!
[ad#co-1]
フリーターとして
その後、西軍についたということで、宗茂は改易され、
領地没収されてしまいます。
一気にフリーター、ニートになっちゃいました。
元々お殿様ですから、雑炊を知らなかったり(米の量が少ない場合の料理など未知の世界でしょう)
江戸で食べ物にも困る日があるくらい貧しい生活を送っていたようです。
まあ、ある程度は加藤清正はじめ、様々な方から支援があり、生活には困らないレベルは確保出来ていたでしょうが。
宗茂いい経験をできました。
復帰
その後、大名として復帰が叶うと、徳川秀忠や、その子家光の御伽衆として仕えるなど、徳川将軍家から重宝されていました。
こんな実力者をニートにさせておくのはのはもったいないですもの!
大阪の陣で秀忠をサポートしたり、島原の乱で松平信綱を補佐したり、またその補佐も抜群で、敵の動静を予測してそれを見事的中させ、勝利に大いに貢献しました。
観察眼が優れているとした言いようがありませんな!
76歳で江戸の柳原の藩邸で死去しました。
死んだ後の戒名に生前の名前「宗茂」が使われているのは、普通は使われないが、
あまりにも宗茂が有名で使わざるをえなかったというエピソードが残っています。
死んでもなお凄いです。
最後に
武将としてのすべてを兼ね備えた人でしたね!
ただ一つ、実の子がいなかったことが悔やまれますかね。
やはりすべてはうまくいかないものです!
関連記事
立花宗茂のような強い武将をランキングした記事を書いております。
興味がある方はご覧になってください