戦国をこよなく愛する激務ファミレス店長南昌幸がお届けする
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映画「関ケ原」に出てくる武将達が、戦い後どのような人生を歩んでいくのか!
きっと、映画を見られたあなたは気になって来るのではなかろうか?
「関ヶ原」についての簡単な解説は、『関ケ原の戦い!合戦に至る経緯を分かりやすく5分でまとめました!映画「関ケ原」を10倍楽しめます!』をご覧ください。
と思い、ではそれをまとめてみましょう!
ということで、今回記事を書いてみました!
東軍と西軍、勝った方と負けた方、そこは白黒はっきりしています。
まずは東軍から
東軍有力武将のその後
福島正則
小山評定や岐阜城の戦い等前哨戦でも大いなる影響を東軍に及ぼしたキーマンでした。
関ケ原本戦では、先陣をつとめ、宇喜多秀家と激戦を繰り広げ、苦戦しながらも最後は大勝利します。
この功績で安芸の国(現在の広島・山口県) 49 万石の大名となります。大大出世ですね!
しかしながらもともとは 豊臣派 の武将であるため、徳川幕府から警戒される存在となってしまうのです。
もっと、上手く立ち回れるブレーンがいれば違ったのに!
「大阪の陣」 では危険人物として江戸から出ることを許されませんでした。秀頼は敵には回せませんよね!
また、居城の広島城の石垣を無断で修理したという理由で領地を没収されてしまいます、、、。
いちいち気の毒です。命令を聞かなければどうなるのか位分かると思うのですが、、、。
そして結果、川中島 4万5千石 に移転させられてしまい、正則亡き後、福島家 は取り潰されてしまいました。
なんとも、もったいない流れです。
もっと、きちんと戦略を考えられる人が身内に欲しかったですね!
安芸の領地を没収された後年、こんな言葉を残されています。
「俺は弓。 戦国の時代では重宝されるが、太平の時代では袋に入れられ、土蔵に入れられてしまう。 戦国の時代が終われば用無し」この言葉に全てが要約されていると思います!
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井伊直政
関ケ原では、軍監として参加していました。
後半、西軍が敗走を始める中、戦中突破を仕掛ける島津軍を追っている最中に
柏木源藤の銃弾により負傷してしまいます。
武田家山県昌景を受け継いだ赤備えの井伊直政もこの時ばかりは相手の必死の逃亡劇に
とばっちりを受けてしまいました!
その傷も癒えぬ間に、戦後、西軍大将の毛利輝元との講和交渉を担当します。
この交渉も上手でした!家康も納得、輝元も納得です!
そして石田三成が治めていた領地を引き継ぎ、18万石の大名になります。
(これが彦根藩の始まりです。幕末に桜田門外の変で有名な、井伊直弼を
輩出します)
その場所は相当重要で、家康の信頼はかなり厚かったと想像出来ます。
しかし、戦後の多忙な業務と、傷が原因で、42歳の生涯を終えます!
長生きしていれば、もっと良い仕事を増やせたのに!と思うと
その先の仕事っぷりも見てみたいものです!
黒田長政
関ケ原の戦いにおける東軍一番の功労者だと思います!
本戦前は、様々な武将へ東軍への寝返り工作を行い、
本戦では、西軍本隊と大いに戦い西軍島左近公も討ち取るなど、
硬軟織り交ぜたマルチの活躍を魅せました!
その後は、戦いの功績を充分に考慮され、筑前52万石が与えられました!
その後は、土地の開発を進め、福岡城を築城、福岡藩初代藩主となります。
今の福岡市は、九州ではずば抜けた都市となっていますが、
黒田長政公がいなければ、今の福岡の発展は無かったでしょう。
彼の戦後は成功!といって良いのだと思います!
まとめ
◯福島正則→川中島4万5千石に移転させられ、正則亡き後、福島家は取り潰されてしまいます、、、。
◯井伊直政→石田三成が治めていた領地を引き継ぎ、18万石の大名になります。
しかし、関ケ原の戦い後の多忙な業務と、その時受けた傷が原因で42歳の生涯を終えることに、、、、。
◯黒田長政→52万石を与えられ、福岡城を築城し福岡藩の藩祖となります。
成功した人も、とほほな方もいらっしゃいます。
関ケ原に出ていた人たちがどのように生きたかを追っていくのも面白いものですね!