下分け目の大いくさ!関ケ原の戦いに至る経緯を分かりやすく、

5分間で読めるようにまとめましたのでお読み下さい!

 

映画「関ケ原」を観る上で抑えなければならないポイントを

私の考えを交えながらお伝えしてまいります!

関ケ原年表

慶長3年8月18日豊臣秀吉公伏見城で死去
慶長4年3月3日前田利家公、大阪で死去
慶長4年3月4日福島正則公達7人、石田三成公を襲撃計画
慶長4年3月10日石田三成公佐和山城にて謹慎
慶長4年10月1日徳川家康公、大阪城西の丸に移る
慶長5年6月18日徳川連合軍、上杉(会津)征伐へ出発
慶長5年7月17日毛利輝元公、大阪城に入り、西軍総大将となる(西軍の結成
慶長5年7月17日石田三成公、弾劾状「内府ちがひの条々」発給(東軍への宣戦布告
慶長5年7月19日石田三成公、東軍伏見城を攻撃、落城
慶長5年7月25日徳川家康公、小山評定を開く(東軍の結成
慶長5年8月11日石田三成公、大垣城を西軍本拠地とする
慶長5年8月23日東軍福島正則公、西軍岐阜城を攻撃、落城
慶長5年9月1日徳川家康公、江戸城を出立
慶長5年9月3日西軍大谷吉継公、関ケ原西側に布陣
慶長5年9月3日西軍宇喜多秀家公、大垣城に入城
慶長5年9月7日西軍毛利秀元公、関ケ原南東側の南宮山に布陣
慶長5年9月14日徳川家康公、関ケ原東側の美濃赤坂に布陣
慶長5年9月14日西軍小早川秀秋公、関ケ原南西側の松尾山に布陣
慶長5年9月14日西軍島左近公、抗瀬川にて東軍の先陣を破る
慶長5年9月15日関ケ原で東西の主力が激突する

 

豊臣秀吉公の死!

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天下統一を成し遂げた豊臣秀吉公は、朝鮮と戦争を行っている最中、慶長3年

8月18日伏見城で亡くなります!

ここが全ての出発点!第一のポイントとなります。

 

豊臣秀吉公がいることでなんとかバランスが取れていた日本が揺らぎ始めます。

本来ならば、嫡男が後を継ぐべきところですが、嫡男豊臣秀頼公はまだ6歳でした。

とても、日本を政治でまとめ上げることなど出来ません!

 

豊臣秀頼公がこの時点で成人し、政治を回していたならばどうなっていたか!

関ケ原の戦いはそもそも無かったかもしれませんね!)

 

秀吉公に後を託されたは5人の大老(徳川家康前田利家宇喜多秀家毛利輝元上杉景勝

と五奉行(浅野長政前田玄以石田三成長束正家増田長盛)でした。

 

 

大老筆頭の徳川家康公は、秀吉公後の天下を治めるのは俺だ!と言わんばかりに

秀吉公の遺命である大名間の縁組の取り決めを破り勢力を拡大して行きます。

 

(秀吉公の遺命などそっちのけで事をすすめる家康公ではありますが、

平和な日本を作るという目的は石田三成公に通じます。

 

ただ、それはあくまで徳川家の支配によるものでした!

ここは家康公にとって譲れないところでしょう!徳川家支配に向けて突き進みます!)

 

石田三成公襲撃計画!

大老の中で、秀頼公傅役の立場だった前田利家公が慶長4年亡くなります。

 

すると、石田三成公に恨みを持つ武将たち(福島正則公加藤清正公を筆頭に)

石田三成公襲撃計画を立てます。

 

(相当石田三成公敵が多かったのです。何故か要らぬところで人の不興を買う発言を繰り返します、、。

それは秀吉公の遺命をきちんと守り通さねばならぬ!という想いからきているのですが、、。

 

もっと上手く立ち回れなかったのか!惜しいですね!自己主張も良いけれど、相手のことも考えなければ、

自分が最も成し遂げたい目的実現から遠ざかってしまう事を受け入れるべきでした、、)

 

それを仲裁した徳川家康公は、他の大老を自国に帰らせ、大阪城で政務と豊臣秀頼公傅役

を牛耳、石田三成公佐和山城に謹慎処分とします。

(この時石田三成公は、豊臣家康公の屋敷に逃げ込みます!敵の屋敷にですよッ!

家康公はライバルとして選んだ三成公を完膚なきまでに叩きたかったので、今は殺さないだろうと

三成公は踏んだのでした!すごい肝っ玉ですね!!!)

 

佐和山城に謹慎中に、来る大合戦に向けて訓練を積んでいきます!

石田家の結束が強められていきます!

 

(着々と物事をすすめる徳川家康公は、1.人の意見を聴き、2.相手の考えを読み3.我慢ができる人。

私はそのように評します。この3つの点において三成公は不足していました。

 

対して石田三成公は、1.純粋で、2.頭が回転が早く、3.一度もった信念を貫き通す人

そのように評します。簡単に言えば、家康公は相手ありき。三成公は自分ありき

ったのでしょう!)

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石田三成公、挙兵す!関ケ原の戦いの序章始まり!

 

その後、慶長5年6月16日、大老の一人、上杉景勝公に不穏な動きあり、ということで、

徳川家康公は会津へ向け大阪を出発します。

 

石田三成公は、徳川家康公がいなくなった大阪城に西軍大将として毛利輝元公を迎え入れ、

徳川家康公の罪状を列記した弾劾状「内府ちがひの条々」を各地大名に発し、

ここに東軍徳川家康公に宣戦布告をすることになるのです。

 

(遂に世紀の大博打に石田三成公は出ました!上杉景勝公と挟み撃ちをする作戦です。

しなしながら家康公には全てお見通しで、とにかく戦いのきっかけを探っていて

そこに上手く石田三成公がかかってくれた!という印象です。

ともかく日本中を巻き込んだ大いくさは始まったのです!)

 

小山評定

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会津進軍中に石田三成公の挙兵を知った徳川家康公は、下野(現在の栃木県)の小山で

軍議を開きました。簡単に言えば、家康公につくか?三成公につくか?

2者択一です。

 

結果、一人(美濃岩村城主田村公)を除く他全員が

(豊臣家恩顧の大名福島正則公なども多くいました)家康公側につくことを決断したのです。

これが世にいう 小山評定  です。

 

(とにかく徳川家康公は物事の運び方が上手いと思います。会津討伐の時点では、

連合軍という意味合いですが、石田三成公挙兵、小山評定で完全に徳川家康公を頭目とした

私軍に変わりました。

 

さらにまだまだ豊臣恩顧の大名を信じ切っていない家康公は

先陣の福島正則公池田輝政公が西軍側の岐阜城を攻め落とすのを見届け

やっと進軍するのです。

念には念を入れる家康公のやり方が最後には勝つことになります。)

 

 

西軍関ケ原へ

家康公の進軍を待つ西軍は有力大名が各地に配置されました。

 

大垣城を西軍の本拠地とし、大谷吉継公は関ケ原に、毛利秀元公は南宮山に、

布陣していきました。

 

その後、東軍が大阪城へ進軍するという情報の元、関ケ原へ集結するのです。

 

(開戦前の布陣ではどう見ても西軍が有利に見えます。さらに、

西軍を鼓舞する理由で東軍を攻め、西軍島左近公が勝利しています。

 

このまま夜襲をする選択肢を選ぶことを出来ればまた戦局は

変わっていたのだろうと思います。

 

石田三成公はそれをせず、結果的に野戦を得意とする家康公により

関ケ原に引っ張り出されることになるのです。家康公一枚上手です!)

 

東軍関ケ原へ!

 

西軍を関ケ原に引っ張り出すことに成功した東軍は

関ケ原の東に布陣して行きます。

これで全ての役者は揃い9月15日(新暦10月21日)を待つのみとなりました。

 

最後に

 

関ケ原に至るまでを見てきましたが、とにかく東軍西軍どちらにつくのか

駆け引き合戦が凄まじかったと思います。

 

布陣的には西軍が有利なのですが、裏切りや中立を保ってしまうものなどいて、

完全に西軍に味方するものは本当に少なかったです。

 

まともに戦えば私は、西軍が確実に勝ったと思います。

 

関ケ原に至るまでの人の心の持って行き方

差が出てしまったと言わざるを得ません。

 

やはり豊臣家への「恩」「愛」よりも

自分自身の「利」「野望」を重視する人間の姿がここにはありました。

 

それが故に、「恩」「愛」を貫き通す人の姿は人に感動を与えるものです。

 

この経緯を知った上で映画「関ケ原」を見てみて下さい!

感動せざるを得ません!