赤山靱負(あかやまゆきえ)って方知っていますか?
なかなか名前も現代使わない漢字を使っていて、はじめなんて読むのかわかりませんでした。
「ゆきえ」と言います。漢字を調べてみると「靭」の意味は「丈夫で滑らか」という意味があるようです。
実際の靱負さんはどうだったのでしょうか?
大河ドラマ「西郷どん」を見ていますが、西郷隆盛の子供時代の先生です。
演者は沢村一樹さん。ぴったりだと思います。
(ちなみに過去の大河ドラマでは、「翔ぶが如く」で西岡徳馬さんが演じていました。)
物腰柔らかそうで、その実しっかりと言うことは言い、締めるときは締める。
本当の赤山靱負もそうだったんだろうと想像出来ますね。
そして、弟の桂久武(かつらひさたけ)は、大河ドラマ「西郷どん」では井戸田潤さんが演じています。
西郷隆盛とは奄美大島で親交を深め、様々な重要な役職を経て、最後西南戦争で西郷隆盛と一緒に戦場で散っています。
(過去の大河ドラマでは「田原坂」で竜雷太さんが演じています。)
なかなか重厚なイメージですが、井戸田さんはまた新しい桂久武像を演じてくれるでしょう。
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さて、二人の人生が何故西郷隆盛に無くてはならない存在なのか?
エピソードを絡めながらご紹介していきますね。
二人の生い立ち
まず疑問に思うのが、二人の名字が違う所。
実際二人の父親も母親も同じです。
父親は島津久風(ひさかぜ)といって本家島津家の分家、戦国時代の島津四兄弟うちの三男歳久の子孫で、日置島津家の当主でした。そして長男に久徴(ひさなが)がいました。
靱負は二男、久武は5男なので、日置島津家を継げる立場にはありませんでした。
(島津家では久武は島津歳貞という名前でした。)
必然的に二人は養子に出ました。日置島津家の勢力を強めるためもあったでしょう。
靱負は赤山家に。久武は桂家に。
二人はそれぞれの道を歩んでいくのでした。
赤山靱負と西郷隆盛
前述したとおり、二人の関係は師弟関係。
赤山が5歳上。あまり年の差はありませんが、身分は天と地でした。
西郷隆盛が下加治屋町の二才頭(郷中のリーダー、20歳位の時)で、
赤山は薩摩藩の槍奉行を任されていました。
そんな二人の接点は家同士の接点にありました。
赤山家と西郷家は西郷の父吉兵衛が赤山家のご用人として、録を貰っていたこともあるころからの付き合いだったのです。
なので引き続き息子の西郷隆盛とも赤山家、赤山靱負とも付き合いがありました。
どんなことを学んでいたか?
世界地図のことを西郷隆盛に教えたのは赤山です。
鹿児島が世界のなかで、本当に小さい、点のような存在だということ。
逆に言えば、世界はこんなに大きいんだ!ということをまざまざと見せつけられます。
でも鹿児島の名が記されているということは、世界から注目をされているんだということをしっかりと伝えます!
西郷隆盛も責任感を感じ、身が引き締まる思いをしたのでしょうか?それともワクワクした気持ちを持ったでしょうか?いずれにしても、良い影響を受け取る事が出来たでしょう。
素晴らしい教育だと思います。
そして赤山は薩摩の軍隊の監督を任されていたので、西郷たちに軍隊として必要な心がけなども教えていたのでしょう。
西郷の戦略家、戦の天才という元はこのあたりにもあったのかもしれません。
赤山は、すべての教え子たちを平等に接していたようです。
斉彬のように、子供は宝だという考えで、それぞれの個性を活かして志を果たすように教えていたようです。
否定はせず、個性を生かす。現代の教育にも使える考えかたですね。
この時期、西郷隆盛をはじめ、大久保利通、東郷平八郎など日本の重要人物が次から次へと輩出されたのは、赤山のような指導者がいたことと無関係ではなかったはずです。
ここで、郷中教育の基本方針を記しておきましょう。
郷中教育基本精神
●武士道の義を実践せよ
●心身を鍛錬せよ
●嘘を言うな
●負けるな
●弱い者いじめをするな
●質実剛健たれ
です。
人間として大事なこと。基本が大事ということですね!
赤山は、西郷たちの活躍を見ること無く、お由羅騒動の余波を受け、切腹します。
今は天国から見守ってくれていることでしょう
では、弟の桂久武と西郷隆盛との関わりはどうだったのでしょう?
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桂久武と西郷隆盛
西郷隆盛は桂久武よりも2歳上。
二人の接点はどうだったのでしょう。
西郷隆盛が安政の大獄後、身を隠すために奄美大島に潜伏している頃のことです。
桂久武は、薩摩藩の藩校、造士館の演武責任者をしていましたが、長兄日置島津家の当主久徴が罷免されたことの煽りを受け、奄美大島に左遷されます。(大島の警備や鉱山管理の役人)
そして偶然にも、西郷隆盛と、奄美大島で出会うのです。
これを運命の出会いと言わずなんという。
大島で二人は親交を深めていきます。
きっと、いも焼酎を飲みながら、さつま揚げをつまみに、幕府をどう倒すかを海風に吹かれながら話されていたら面白いですね。(そこまで自由じゃないかな?)
西郷隆盛にしても良い話仲間が出来てよかったのでは?
その後、桂が鹿児島に帰藩すると、薩摩藩の幹部である大見付、そして家老として小松帯刀と共に薩摩藩を牽引していきます。
さらに薩長同盟の際には同盟成立のため長州側の木戸孝允を厚遇したりし、献身的に動き、西郷隆盛を援護射撃しています。
そして、幕府を武力で倒す!という西郷隆盛の考えを支持していくのです。
戊辰戦争の時も軍事物資などを後方から支援する役を担い、西郷隆盛を盛り立てます。
最後は共に
このように桂久武の援護射撃もあり西郷隆盛の活躍で明治維新を迎えます。
その後桂は鹿児島のトップを勤めたり、需要な役職を歴任しますが、病を理由に辞職。霧島で鉱山開発などの仕事をしながらゆるりと暮らしていました。
この時、鉱山開発に必要なものを桂は無償で提供しています。
余談ですが、薩摩人ってお金や地位にあまりこだわらない人が多いなって思います。大久保利通もあんなに偉い人なのに、寄付しまくって借金だらけだったというし、西郷隆盛の弟も、総理大臣のオファーが何度もあったのに、兄の隆盛が賊扱いだったため、最後まで固辞したし。みんなお金より地位より大切なものを一番に大事にしていたんだろうなって思います!寄り道しました、、、。
戻りましょう。
そんな頃、西郷隆盛が西南戦争を起こします。
桂久武は西南戦争に対し、完全に反対していました。
2月に西郷たちの軍を見送りに出るまでは反対でした。
しかし、西郷達を見送りに行って、その軍隊を見て、いてもたってもいられなくなったのでしょう。
西郷たちと一緒に戦場へいくことを決意します。
長年の交わりのせいか?軍隊が貧弱で助けなければと思い立ったか?
とにかくその場で刀を妻に持ってこさせ、その場で西郷隆盛の軍に合流します。
なんという潔さ!
妻はどんな気持ちで見送ったのでしょうか?
すごすぎる決断です。
桂は死場所を探していたのかもしれません。
勝ち目のない戦ということは桂は分かっていたわけですから、自分の命を西郷隆盛という親友のため、
捧げる!という必死の決意だったのでしょうね。
かくして西郷隆盛率いる薩摩軍は鹿児島の城山まで追い詰められます。
桂久武はその城山の地で流れ弾にあたり戦死。
西郷隆盛は同じく城山で自害します。
せめて最期を一緒の地で迎えられたことは幸いだったでしょう!
最後に
赤山靱負、桂久武の兄弟は、西郷隆盛にとって無くてはならない存在だということが、垣間見れましたでしょうか?
人格形成の段階で赤山が関わり、西郷隆盛の志を達成するために桂が補佐しました。
この二人がいなければ、今の西郷隆盛の活躍がなかったと考えると、二人の日本に於ける功績は多大なものがあったんだと思います!