フロックコートって何でしょう?
現在はあまり、聞きなれない言葉ですね。
コートって言うくらいだから、コートの一種何でしょうけれども、、。
なぜ疑問に思ったかといいますと、実は今、林真理子の西郷どんという本を読んでいるですね。
その本の登場人物に大久保利通たち明治維新の立役者たちが出てくるのですが、彼らがこのフロックコートを着ているっていう下りがたくさんでてくるわけです。
そしてそれは新しい時代の象徴、西洋の象徴として登場してくるわけです。
新しい時代の象徴、フロックコートとはどんなものか?と気になったわけですね。
ということで、調べてみました!
フロックコートとは?
直訳すると「ゆったりとした洋服の上着」ですね。着心地は、背広よりゆるやかです。
用途としては、「昼間の男性用の礼装」として使われていました。
(礼装とは、社会生活において威儀を正し、あるいは敬意を表する場合に着用する衣服(礼服)を着用している状態のことを言います。)
ダブルブレスト(前合わせのボタンが縦二列になっている)で色は黒、腰の切り返しやダーツがあり、そして長い丈のものことをいいます。
19世紀中頃から、第2次世界大戦のころまで着用されていました。
画像を見てみましょう。
アルバート公。アメリカではフロックコートは「プリンス・アルバート・コート」とも呼ばれている。アルバート・チェーンと呼ばれる懐中時計の鎖も見える。
引用:ウイキペディア
カッコイイですね!これは引き締まります。
ここで、もう少しフロックコートについて調べてみましょう!
起源はどのようだったのでしょうか?
フロックコートの歴史
18世紀のポーランドの軍服が起源です。
乗馬の際風を防ぐために、前合わせがダブルになり、襟が高くなっていきました。
必要に応じて変化していったのですね。
そして、19世紀初頭には、プロイセンの軍服となり、イギリスにも飛び火し広まっていったといいます。
襟は軍服のものは立襟でしたがその他は背広襟になり、昼間の礼装として定着していったのです。
かつての男たちが愛した服装。今見ても魅力的です。
では、日本人の大久保利通たちが着るとどのようになりますでしょうか?
大久保利通たちがフロックコートを着ると?
以下の画像は、明治新政府の首脳がヨーロッパへ視察に行った時の装いです。
真ん中の岩倉具視以外は皆フロックコートを身にまとっています。
引用:ウイキペディア
どうですか?
日本人が着てもさまになってはいますね。大久保利通なんか外国人?オバマさん?と間違えるようです。
でも、背の低い日本人はやっぱり岩倉のように袴が似合うかなっても思ったりしますけどね笑。
更に大久保利通はかなりよれよれになるまで着回していたという逸話もありますね。
現在の「紺ブレ」の起源とも?!
その後、民間の昼間の礼装はモーニングコートに変わっていきますが、軍服としては現在も使用されている国もあります。
また、海軍では背広襟のフロックコートが略装として採用されて、それが紺色ダブルのブレザー(紺ブレ)となったと言われています。
やはり、良いものは形をかえて残っていくのですね。
日本でも、結婚式で新郎がよりフォーマルな装いとしてフロックコートを着ることはあるようですね。
まとめ
フロックコートとは、軍服から始まり、それが転じて昼間の礼服になったものだったのですね。
丈が長く、ゆったりとしているので、背が低い日本人には着こなすのが難しかったかもしれませが、大久保利通など大きな人にはとても良く似合っていましたね。
今では、日本人向けに背丈を調節しているものや、シルエットも色々とあるようなので、ご興味のある方は、結婚式などやパーティーなどで着られてみてはいかがでしょうか?
大久保利通や木戸孝允たちの気持ちになれるかもしれませんよ。