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ジョン万次郎って知ってますか?

ジョン万次郎

引用:Wikipedia

大河ドラマ「西郷どん」で、薩摩藩支配下の琉球にたどり着いた日本人がアメリカからやって来たという話が出てきます。(どうやら配役は劇団ひとりさんです!)

その日本人とはジョン万次郎というのですが、彼は日本にアメリカを紹介していくとても重要な役割を果たしていくのですが。

 

実際、ジョン万次郎とはどんな人だったのでしょうか?

 

 

今回はジョン万次郎について紐解いていきたいと思います。

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ジョン万次郎とは?

それでは、ジョン万次郎の経歴について見てみましょう。

幼少時代

 

1827年に土佐の中浜の貧しい漁師の次男として産まれます。

貧しかったため、寺子屋で読み書きを学ぶこともできなかったそうです。

(一番基礎を学ぶ時なのに、、厳しい環境ですね)

 

そんな中、一家の大黒柱の父親が9歳で亡くなります。

(さらなる悲劇、、、。環境はますます厳しくなっていきます)

ジョン万次郎は幼くして家族のために働かざるを得なくなります。

庄屋の今津太平さんの家で、下働きをして家計を支えます。

(頑張れジョン万次郎)

漂浪時代

14歳になったジョン万次郎は、お正月明けに、宇佐というところで仲間と共にアジや鯖の漁に出ます。

そこで大嵐に遭遇し、たちまち遭難してしまいます。(正月早々なんだああああ)

その後嵐をくぐり抜け、奇跡的に九死に一生を得たジョン万次郎たちは、鳥島とういう無人島に漂着します。

その島は草も木も生えておらず、先ず食べ物に困りました。

唯一あるのが岩などにたまった雨水と、アホウドリでした。

ジョン万次郎たちは、アホウドリが雛にあげるために獲ってきた魚を、ひなの声を真似て奪う作戦で、飢えを凌いだといいます。(なかなか頭いい)

また、アホウドリそのものを食したといいます。

(生き残るためならばなんでもする!人間の知恵ですね)

そうして143日が経った頃、ウミガメの卵を採取しに来たアメリカの捕鯨船、ホイットフィールド船長が乗る

ジョン・ハウランド号に発見され保護されます。(良かったあ)

ジョン万次郎の名前の由来

ジョン・ハウランド号という名前の船が出てきたところで、ちょっとジョン万次郎の名前の話を少ししたいと思います。

なぜジョン万次郎というのか?です。

それは次のようなことだったのです。

万次郎というのは本名ですが、ジョンというのは当然ですが、後から付けられた名前です。

そのジョンとは?

もうお分かりかもしれませんが、万次郎が助けられた船「ジョン・ハウランド号」からジョンを取り、「ジョン万次郎」と呼びます。

⚠このジョン万次郎という名前は、「ジョン萬次郎漂流記」という小説の中で使われた名前です。

なので、ジョン万次郎という名前は、本当の名前では無く、小説の作者、井伏鱒二が創作したものでした。

小説が直木賞を受賞した故に、一番知名度が高いというわけです。(納得)

 

ちなみに、航海の中でアメリカ人には「ジョン・マン」と愛称で呼ばれていました。

後に、江戸幕府から苗字「中濱」を与えられ、「中濱万次郎」が正式名となりますが、

この記事ではジョン万次郎で統一していきたいと思います。

船長の養子に?!

では話を戻しまして、

ホイットフィールド船長に保護されたジョン万次郎は頭の良さや、勤勉だったこともあり大変船長に気に入られ、

他の乗組員はハワイで降ろされたのに、ジョン万次郎だけは、船長と一緒に、アメリカ本土、東海岸フェアヘーブンへ行きそして養子になります。

(すごい、いきなり養子?!きっとこれも日本人で初でしょう)

そしてオックスフォード校(初級)バーレット専門学校(上級)で英語、数学、測量、航海、造船の教育を3年間受けます。寝る間も惜しんで勉強したジョン万次郎は、成績は常に首席だったといいます。

そして学習態度は静かで慎み深く丁寧だったといいます。

幼いころ、貧しくて読み書きも学べなかった万次郎はとにかく必死に勉強していったのでした。

まさにフロンティア。大リーグに挑んでいく開拓者、野茂英雄のようです!

 

その中で、民主主義、男女平等など新しい概念などを学びながら、時には人種差別も受けながら、、、。

白人至上主義のアメリカで、黄色人種の日本人は黒人と同じ扱い。教会へも自由に通うことも叶いませんでした。

(結果的に船長が通える教会を見つけ出してくれます!どれだけいい人なのでしょう)

これらはジョン万次郎の貴重な財産になります。

船の乗組員になる

学校を卒業したジョン万次郎は、19歳の頃、船の乗組員になります。

20歳の頃にはハワイへ寄港し、別れた仲間と再会しています。

そしてその後、1等航海士になり、副船長に選ばれるほど、ココでも頑張っていたのです。

どんな海を航海していたのか?

大西洋、インド洋を周り、琉球、小笠原諸島などの日本近海でも捕鯨していたようです。

世界一周です。凄い。こんな日本人今までいませんでした。世界に通じる航海士。

ジョン、最高です!

 

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日本へ帰る決意

そんな世界を股に掛ける活躍をしていた万次郎ですが、日本に残してきた母親の事が頭を離れません。

鎖国中の日本へ帰り、母親にどうしても会いたくなります。

 

そこで、ハワイにいる仲間たちと一緒に日本に帰る決意をします。

その資金を集めるため、ジョン万次郎は、ゴールドラッシュに湧くサンフランシスコの金山に出稼ぎに行きます。

身を守るために、ピストル2丁持って。

70日間働いて、700ドル稼ぎます。700ドルは今の感覚ですと、100ドルは200万円くらいですので、

700ドルは1400万円。凄いあら稼ぎ。さすがゴールドラッシュです。

一気に稼ぎ、上陸用ボート「アドベンチャー号」を購入し、船長の紹介で出会った、ハワイのデーモン牧師によって身分証明書などの援助を受けながら、仲間たちと日本へと旅立ちます。

日本到着

中国行きの船に乗り琉球で降ろしてもらいました。

さあ、いよいよ日本上陸です。

鎖国中の日本ですし、一旦外国へ出ているっていうことは、逃散ということになりますでしょうから、死罪に値することになるはずですが、ジョン万次郎がラッキーだったのが、琉球を支配していた薩摩国の藩主斉彬がとても聡明なお人だった事です。

斉彬は西洋のことを国にドンドン取り入れていったことで有名な方だったので、ジョン万次郎たちを厚遇し、自ら質問をしたほどです。(当時アメリカの情報は鎖国中の日本にとってかなり貴重でしょう。)

もちろんジョン万次郎もアメリカで得た知識を惜しみなく伝えていきます。

この時の情報だけで薩摩藩は船を日本初の蒸気船を作っています。

情報だけで作っちゃう薩摩の人達も凄いですけどね!

 

母との再会

その後、故郷である土佐へ移り、様々な取り調べを受けます。

しかし、日本語を結構忘れちゃっているので、なかなかはかどりません。

そこで、蘭学に詳しい絵師、河田小龍の家に泊まりながら取り調べを続けます。

この時、ジョン万次郎の話を4冊の本にまとめることに成功します。この本は、「漂巽紀略」と呼ばれ、鎖国中の日本の大名、志士たちに海外へ目を向けさせるという多大な効果を与えることになります。(ナイス!)

その後、やっと最愛の母と対面を果たすことが出来ます。

(生きて再会できてよかったですね!母ももう半ばあきらめていたことでしょう。すでに10年以上の歳月が経っていました)

大忙しのジョン万次郎

そのご、アメリカ留学、航海士としての経験を持つジョン万次郎は引っ張りだこ。

土佐藩の士分となり高知城下の藩校、教授館の先生になり教えたり、軍艦教授所の先生になったり、翻訳、通訳、と大忙しでした。

正に、大・活・躍!

(ただ、ジョン万次郎をアメリカのスパイかと訝る者や、ジョン万次郎の活躍を妬む者も幕府老中などにいて、なるべく目立たぬよう、気を使いながら自分のできることをしていたようです。ある時ジョン万次郎は、軍艦教授所責任者の勝海舟に嘆きます。「アメリカでは高い身分に就いた者は、ますます深く考え、振る舞いは高尚になります。ここが日本と大きく異なるところです」と。この言葉で幕府の無能さを嘆いていた勝と意気投合したりしています。明治維新に変わらなければならない理由がこのあたりにもありますね)

更に27歳で、幕府剣道指南・団野源之進の娘・鉄と結婚。

この頃ジョン万次郎の絶頂期でしょうね。

その後も日米修好通商条約批准書交換のための海外使節団の一員となり貢献したり、英会話書を作成したり、小笠原諸島の図面作りをしたり、薩摩藩の藩校教授を勤めたり、長崎で薩摩藩の船を購入したり、結構歴史に絡むいい仕事してますね。

(最終的には開成学校(東京大学の前身)の英語の教授になっています。貧しい漁師がここまで来るとは!しかし波乱万丈の人生であったことには疑いもありませんけどもね)

教えた人が錚々たる人でびっくりです。

みてみましょう

ジョン万次郎が教えた著名な人達

新島襄/同志社大創始者

岩崎弥太郎/三菱財閥創始者

福沢諭吉/慶応大創始者

坂本龍馬/海援隊

後藤象二郎/大臣、実業家

錚々たるメンバーですね。

万次郎を通じて、英語や文化、最先端の技術を学び、日本を引っ張っていく人達の意識、知識に確実に良い影響を与えていきました。

ジョン万次郎、最高です。

晩年

43歳の頃、普仏戦争使節団としてヨーロッパへ行く中で、ホイットフィールド船長と再会を果たします。この時、身につけていた日本刀をプレゼントしたといいます。日本を象徴するものですね。

この時、どれほど嬉しかったでしょうね。ジョン万次郎は逢いたい人に確実に会えていますが、とても幸運の持ち主だと思います。自分もあやかりたいものです。

その後、帰国後脳溢血に罹り、

71歳でこの世を去っています。

日本の近代化に陰ながらかなりの影響を及ぼした人物だということがよくわかりました。

 

ジョン万次郎の影響の中で、特に英語は、通訳、翻訳、先生と様々な仕事をこなせるほどでしたね。

ではどうやってその英語力を身に着けたのか?

これは英語を学ぶ人にとって気になる点ですよね。

そのポイントをちょっと挙げてみたいと思います。

ジョン万次郎の英語力が身についたポイント

1,とにかく勉強した

アメリカの学校で首席をとるくらいです。日本ではろくに読み書きを学べなかった人です。

基本、勉強しなければ何も生まれないのでしょう。

正に寝る間も惜しみ勉強に励む。

当たり前かもしれませんが、積極的に自ら勉強をしていったことが英語力を身につける1つのポイントでしょう。

2,発音で身につけた

聞こえた発音を発音とする手法で、現在も取り入れている英会話教室もあるくらいなのですが、これが身体で身につけた手法と言えるでしょう。

例えば下のような感じです。⬇

例「こーる」=「cool」・「わら」=「water」・「さんれぃ」=「Sunday」・「にゅうよぅ」=「New York」

などですね。

実際私もこの教え方をする教材を買って学んだことがあります。

学ぶ意欲が希薄で3日坊主で終わってしまいましたが、リスニング的には、とても効果的だと感じた覚えがあります。

3,生きた英語を学ぶ

やはり生活の中で学んだ事が一番大きいでしょう。

航海士として船長や仲間たちとの会話、使節団として、アメリカの恋人との会話、翻訳などなど。

実際に現場で聞き話すことで意識の中に入れ込んでいく。

これがとても重要なんだと改めて思いました。

 

英語にしても、航海技術にしても、アメリカの文化にしても、ジョン万次郎が日本に伝えなければ、明治維新もまた違ったものになっていたかも知れません。

そういう意味では、影の維新三傑のひとりと言えるでしょう。

 

次にジョン万次郎には日本で初めてという事柄が数多くあります。

開拓者ならではな勲章です。

それをご紹介しましょう!

日本で初の万次郎

1,初めてABCの歌を日本に紹介!

2,日本人で初めてネクタイを締めた

3,日本人で初めて鉄道に乗った

4,日本で初めてゴールドラッシュといわれる金の採掘に携わった

5,初めて新アメリカ航海術を訳す

開拓者ゆえんですね!

 

最後に大河ドラマでのジョン万次郎の活躍をご紹介しておきましょう。

大河ドラマ「西郷どん」で万次郎、西郷隆盛にLOVEを伝える

大河ドラマ「西郷どん」の第6話にジョン万次郎が登場します。

2018年の大河ドラマ「西郷どん」ではジョン万次郎を誰が演じるか決まっていませんが

私は、「成田凌」さんだったりしたら面白いかも?

理由は、年齢的にあっているのと、(万次郎が23歳くらいに日本に戻ってきた)

恋多き俳優だからです。(なんて行っても広瀬すずや戸田恵梨香などと熱愛報道されている実績があるから!)

つい先程、劇団ひとりさんが役を演じると発表がありました。

声大きく、ジョン万次郎になりきり演技を見せてくれるのではないでしょうか?

楽しみです!

他の未定キャストの予想はこちら⬇

大河ドラマ「西郷どん」キャスト大胆予想!坂本龍馬は!

 

ちなみ過去の大河ドラマでは、

龍馬伝「トータス松本」

篤姫「勝地涼」

翔ぶが如く「中西良太」

が演じています。

ジョン万次郎が西郷隆盛と会うまでおさらい

ジョン万次郎は、日本の土佐(高知県)に産まれ、漁師として貧しい家庭を支えながら生きてきましたね。

ところが14歳の時漁の最中、嵐に巻き込まれ漂流し、アメリカ人に助けられ、そのままアメリカ本土に渡ります。これが運命のいたずら。

そこから10年間、アメリカで様々な経験を積んで行くわけです。

アメリカは恋愛結婚の国。日本と違って、政略結婚とか、好きでもない人と結婚するって事はないお国でした。

そんなお国の風土、文化を肌で感じます。

 

そうこうしているうちに、土佐に残した母親にどうしても会いたくなり、死罪を覚悟して(当時日本は鎖国だったため、無断で国外にでたものは死罪)戻ってきたのでした。(これも母への愛)

戻ってきた先が海洋国家薩摩で、なぜアメリカから日本に来たのかを取り調べられている時、西郷隆盛はジョン万次郎と会うわけです。

なかなかおもしろいですね。

二人が会った場所とは?

ジョン万次郎は、西郷隆盛の家でじっくりと話しました。

ジョン万次郎が母親にどうしても会いたくて、死を覚悟して日本にやってきたということに対して、西郷たちが感心しているとジョン万次郎はこういいました。

ジョン万次郎ジョン万次郎

死をも恐れぬ、これはお母へのLOVEぜよ!


ジョン万次郎ジョン万次郎

アメリカではLOVEが一番大事ぜよ。好いたもん同士が結ばれるがぜ。


ジョン万次郎ジョン万次郎

縁談だって、親も家も関わらん。好いたもん同士で(縁談を)決めるんがLOVEじゃき

熱く語ります。

西郷隆盛に伝わったかなあ。

西郷はその後、父に紹介された薩摩藩士伊集院兼善の娘、須賀とあっさり結婚します。

(岩山糸に好かれていることは全く気づかずに、、、)

万次郎と比べ、西郷隆盛は、当時、斉彬という殿様や、赤山という師匠や、郷中と呼ばれる自治体の仲間たちには、尊敬の念や、愛情に近い友情などを感じることはありましたが、女の人への愛情の意味はこれっぽっちも持ち合わせていませんでした。(糸からの愛情も気づかない鈍感さもありました)

この頃の西郷隆盛は、目の前の仕事や、尊敬する殿様、斉彬様の下に仕えたいという想いが強く、

LOVEを感じる下地はなかったようです。ははは汗

仕事、斉彬>LOVE

こんな公式が成り立っていたようです。

この公式が少し変化するには、島津のお姫様、「篤姫」との出会いを待つ必要があるようです。

アメリカでの愛の逸話

ジョン万次郎には母への愛以外に愛する人がおりました。

キャサリンという美しい女性とお付き合いがあったようです。

キャサリンへの詩も残っています。

Tis in the chilly night,
A basket you’ve got hung.
Get up, strike a light!
See me run.
But no take chase.

「とても寒い夜のこと
あなたのバスケットをつるしたよ。
目を覚まして、明かりをつけて!
逃げて行く僕を見つけておくれ。
でも、追いかけたりはしないでね。」

なにやら、意味はわかりませんが、二人だけにしかわからないような雰囲気が伝わってきます。

とても甘酸っぱいです。

 

キャサリンとその後結婚したかは定かではないですが、

家柄とか、国籍とか、そんなの関係なく、自分が好きな人と一緒になる権利。

これこそ自由の国アメリカ!

その精神、届け薩摩隼人へ

最後に

ジョン万次郎が漂流しアメリカで勉学、恋愛に励み、日本に帰国したことは必然だったのかな?とも思います。

万次郎を通じ、アメリカの文化が実力者たちの意識にどんどん入っていったことで、日本もだいぶ変わっていくことになります。

もちろん、西郷隆盛の意識にも深いところには刷り込まれたんだと思います。

明治維新の影の立役者、

ジョン万次郎、ありがとう!