伊集院須賀って方はご存しでしょうか?
(過去の大河ドラマでは
篤姫「森脇由紀さん」
翔ぶが如く「南果歩さん」
西郷どんはまだ決まっていませんが、予想は筧美和子さん。)
西郷どんでは「橋本愛さん」に決定しました!
西郷隆盛が28歳の時に初めて結婚した相手です。
そして、2年ほどで離婚してしまうのです。
なんか悲しいですね。
なぜ離婚してしまったのでしょうか?
今回は、その悲しい理由を見てみたいと思います。
その前に隆盛とはどんな人生を歩んでいったか?
こちらをご覧くださいね⬇
そして伊集院須賀とはどんな経歴があるのでしょうか?
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伊集院須賀が西郷隆盛と結婚する経歴
1832年に薩摩藩士伊集院兼善の娘として生を受けます。
西郷隆盛よりも5年ほど後に産まれています。
伊集院家は薩摩藩の有力な豪族、伊集院家の分家だと言われています。
家柄は、そこそこの家格のお嬢様だったようです。
将来的には須賀の弟は貴族院の議員になったり、父は高知県の知事を勤めたりといったお偉いさんになる家系。
しかしながら西郷家も将来的には息子が京都市長になったり、弟が大臣になったりと優秀ですので、遜色はありませんね。
須賀が二十代前半頃、西郷隆盛との縁談が持ち上がり、結婚に至ります。
親に勧められたとも、西郷隆盛が惚れ込んでお願いしたとも言われていますが、私は西郷はこのときはまだ女に目覚めてはいなかったのでは無いかと思います。
いずれにしても、めっちゃ美人だったようで、羨ましい限りです笑
しかし、とにかく西郷家が貧しく、婚儀も質素で、新婚生活も甘いものではなく、大家族が一つ屋根の下で暮らすものですから(完全な同居)、同居人って感覚が強かったのではないでしょうか?
こうして結婚生活が始まるわけですが、2年でその結婚生活にピリオドがうたれます。
しかもそれは、須賀の父親からボクシングでいうタオルが投げ込まれる感じで、離縁の相談を持ち込まれるにいたり、それを西郷が受け入れて成立してしまうのです。
ああ。
では離婚の理由。見てみたいと思います。
離婚の理由3つ
悲しい理由一つ目
貧しすぎる西郷家
とにかく貧しい西郷家。伊集院家から嫁いだ須賀は愕然としたことでしょう。
ただひとつの嫁入り道具の夫婦布団。これも相次いで亡くなった、西郷の祖父、父、母の葬式費用で消えていきました。
そして残された家族を養うのは長男隆盛と二男吉二郎の禄のみでした。
嫁に行った長女のぞき、祖母、弟3人、妹2人、須賀、隆盛、使用人2人。10人の大家族。
食べていくだけで精一杯です。
それだけでお金が飛んじゃいますね。
当然正月などにも晴れ着も着れず。
さらに、江戸行きが決まった西郷の支度金が30両。借金200両は全く返す目処もなく。
30両のうち10両は伊集院家から用意したといいます。
ああ、貧しさ、、、。その重圧はとんでもないものだったのでしょう。
これが一つ目の理由。
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過酷過ぎる環境
その西郷家の厳しすぎる環境とは。
嫁ぐと同時に西郷の祖父、父、母の病人の看病が始まるのです。
そして祖母、甥,姪っこたちのお世話。
フル活動ですよね。
西郷が江戸に斉彬の元、就いて行っている間、大したものを食べれず、遂に身体を壊してしまいます。
そりゃ当然ですよね。一番栄養がないところを食べるのが、妻である須賀なんですから、栄養不足で体調を崩すのに時間はかかりません。
貧しい環境。
これが二つ目の理由。
そして最後の理由が切ないです。
夫婦の関係
正直これが実は真の理由だったのではないでしょうか?
須賀は我慢しましたし、口には出さなかったですが、、、。
夫の西郷隆盛は仕事に打ち込み、薩摩藩の島津斉彬の元に仕えたいことで頭はいっぱい。
夫婦の間は他人行儀のまま。一緒に寝るけど体も心も通わぬまま。。
この環境が一番厳しかったのではないでしょうか?
西郷にしても、須賀に対してこんな環境の中嫁がせて申し訳ない気持ちはあるが、かといって、それをごまかすかのように夫婦の契りを結べないという気持ちが強いのです。
このような気持ちのすれ違いが妻の心も身体も蝕んでいった根本的な原因にあったのかもしれません。
お互いの心にお互いの存在が薄い。
そんな状態では、やはり貧しく、過酷な環境は乗り越えられません。
これが3つめの理由です。
最後に
最終的には、衰弱し、体調崩し、貧困にまみれた娘の姿を見ていられなくなった、須賀の父親から離縁の相談があり、それを西郷が受け入れます。
西郷は、泣きに泣いたと言います。
愛情のようなものはなかったかもしれませんが、自分自身が一番身近なものですら、幸せにすることが出来ない不甲斐なさを痛感したことによる涙だったのでしょう。
西郷隆盛初めての結婚は、こうして幕を閉じるのです。
せごどん!気張れ!