徳川家定ってご存知ですか?
引用:Wikipedia
徳川幕府13代将軍を務めた方です。
大河ドラマ「西郷どん」では、又吉さんが演じています。
そして、その家定に嫁いだのが篤姫でした。
引用:Wikipedia
薩摩藩島津家一門今和泉のお姫様です。
(以前に同じく薩摩から将軍家斉に嫁いだ篤姫とは別です。)
大河ドラマ「西郷どん」では、北川景子さんが演じています。
今回は二人が結婚に至る経緯とその結婚生活、子供はいたのか?
などを見ていきたいと思います。
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徳川家定とは?
生まれは?
12代将軍家慶の27人いる子供(多いですね!)のうちの4男として、1824年に側室本寿院から産まれます。
27人いるうち家慶の子供の内、成人したのは家定だけなのですが、そんなに皆早死にしてしまうなんて、
父の家慶に問題があったのか?食事に問題があったのか?
成人した家定も健康ではなく、病弱だったようです、、、。
性格的にも内気で、乳母にしか心を開かなかったといいますから、重症でした。
家定は病弱?
幼少の時、天然痘(感染症。皮膚に膿を含んだ水疱ができる。治ってもアバタが残る)にかかっていました。
跡が顔に残り、それがコンプレックスで人前に出るのを嫌がりました。(かわいそうに、、)
また脳性麻痺にもかかっていたようです。
外国の使者との会談の際にも、その症状(足を踏み鳴らしたり、喋る前に頭を後ろにのけ反らしたり)が出たりしていました。
また、身体も小さく150センチないくらいしかなかったようです。
病気と友達な人生を送られたのですね。(同情いたします)
13代将軍となる
どんなに病弱であっても、周りから、他の将軍候補者を推されても、現将軍の子という事実はかわりません。
家慶が亡くなると跡を継ぎ、家定は13代将軍となります。
黒船がやってきて鎖国中の日本に開国を迫るような大変な時代での交代でした。
しかし、将軍となっても病気により、あまり仕事ができる状態ではありませんので、実際は、老中の阿部正弘が全ての政治を取り仕切っているような感じになります。致し方ないですね。世襲制も大変です。
趣味は?
お菓子作りや料理が得意で、自分で食べるだけではなく、家臣にもよく振る舞っていたようです。
お優しい心を持っていたとうかがい知れます。
カステラや、まんじゅう、ふかし芋なんかいろいろレパートリーがあったようですね。
趣味として料理をしていたのですが、これは実は意味があって、毒を盛られて暗殺を避ける意味もあったと言われています。猜疑心が強かったといえるでしょうが、身を守るための知恵ということも出来ましょう。
評判
酷評をしたのは福井藩主松平春嶽でした。「凡庸の中でも最も下等」とこき下ろし、趣味の料理に対しては「イモ公方」と呼ばれてしまいました。そこまでいうかって感じですけどね。
一方擁護する意見もありました。朝比奈という幕臣は「凡庸だ暗愚だと言われているが、それは越前(松平慶永)や薩摩(島津斉彬)らと比較するからであり、300諸侯の中には家定公より劣る大名も多くいたはず」と弁護する意見もありました。
最期
病弱で子供のいない家定の次の将軍をどうする?あとを継ぐのは一橋慶喜か?徳川慶福か?っていう問題が起きて、周りは騒がしくなりましたが、家定はほぼ表舞台には出ず、名前ばかりの将軍としてひっそり生きていました。
しかし、1958年6月、家定は大名を集めて、「次期将軍は徳川慶福とする!」とビシっと宣言し、その10日後「一橋慶喜を担いだ者を処分する」とバシッと発表します。
家定は一橋慶喜のほうが自分よりイケメンだということで嫌っていたことも関係あるとかないとか?、、、。
一世一代の仕事を最後に見せてくれました!やったね!
一橋派の処分発表の翌日、家定は亡くなります。
享年35歳の病気と共に江戸城の中で過ごした短い人生でした。
一方篤姫はどんな人だったのでしょうか?
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篤姫とは?
生まれは?
1836年生まれです。家定より12歳年下ですね。
薩摩藩島津家一門(本家ではない)、今和泉領主、島津忠剛の娘として産まれます。
当時は於一(おいち)という名前で呼ばれていました。
その後成長し、家定に輿入れする頃(23歳)には、
当時としてはかなり大柄な160センチ(5尺3寸)あったようです。
(当時の女性の平均身長143センチ位)
家定は完全に見下されますね。
性格はどんな?
家定を酷評した松平春嶽によれば、
「聡明にして温和、人との応接も機知に冨み、学問深し、かくなる姫を御台所(正室)に迎えるのは徳川にとりても幸福というべき他」と言っています。
良く出来たお人だったと言えますね!
薩摩時代の乳母である菊本の教育が実を結んだことになるのでしょう。
菊本と言えば、武士のような考えを持っている乳母でした。
だって、自分の出身が高貴でないことで、篤姫の名前を汚してはいけないと、自害して果てるのですよ!
そんな陰から支える人もいて篤姫(於一)は創り上げられます。
そんなちょっと対照的なお二人が結婚に至った経緯を少し見ていきましょう。
家定と篤姫の結婚の経緯
篤姫の前の奥様2人
家定には、篤姫(於一)と結婚する前に、正室が2人いました。
一人目、関白の娘であった鷹司任子(たかつかさあつこ)は家定と結婚して6年後に26歳で天然痘で亡くなります。
二人目、やはり関白の子であった一条秀子(いちじょうひでこ)は任子が死去してすぐに輿入れしましたが、半年で火傷の後遺症により26歳で亡くなります。(彼女は首がふすまの取っ手くらいというので、なにか問題があったのかもしれません)
二人の奥様に早々に先立たれてしまいます。
子供も設ける時間はあったとは思いますが、何分家定が病弱なため、上手く事が進まなかったのでしょうか?
二人の奥様の間には子供は産まれませんでした。
次の正室をどうする?
これは困ったことになった!
これ以上2人失敗しているので他のところから探さなければならない。
と幕府の幹部は考えます。
そこで、家定の祖父の家斉が、薩摩藩から当時の薩摩藩主、島津重豪の娘を嫁「広大院篤姫」に迎えたという過去の事実に着目しました。
彼女は将軍の正室としては2代将軍秀忠のお江以来の男子を産んだのです。
「これは行ける!」
このご縁にあやかりたいという話が持ち上がりました。
そうして幕府から打診が、現薩摩藩主の島津斉彬のところに来ました。
斉彬はなんとかしようと考えます。
そこで、島津家の一門である今和泉島津家の娘、於一(後の篤姫)を斉彬の養子にし、さらに地方の大名からそのままでは輿入れできないため、公家の近衛家の養子にした上で家定に嫁がせる作戦を決行します。
色々考えますねっていいますか、家柄とか大変ですね!
まあ、こうして紆余曲折ありますが、家定の子どもを産むべく、於一(後の篤姫)は将軍の御台所(正室)になります。
そして於一は前述の「広大院篤姫」にあやかり、「天璋院篤姫」(以後篤姫)と名付けられます。
これで次期将軍を産むお膳立てはできました。
二人の結婚生活はどうだったでしょうか?
武家から来た篤姫は、病弱で引きこもりの家定とどのように暮らしていたのでしょうか?
家定は33歳、篤姫は21歳でちょうど一回りの年の差カップルです。
ちょうど篤姫が嫁いだ頃は、将軍としての大きな仕事(日米和親条約調印)を終え、夫婦の時間も多く取れる頃でした。
二人の仲は、良かったといいます。
篤姫の地元から送られた黒砂糖でカステラを作って篤姫に食べさせたり、仲睦まじい雰囲気は感じられます。
しかし夜の生活は?
月に2,3回は篤姫のもとに通っていたようです。
月に2.3回って少ないですね。
実は、当時の側室志賀が嫉妬深く、なかなか篤姫の元へ行きにくかかったようです。
また、一橋派の水戸藩主徳川斉昭嫌いの家定の母親が、篤姫の所属する一橋派薩摩藩を嫌っていたので、なにかしら妨害があったのかもしれません。
子どもは授かりましたか?
家定と篤姫の夫婦生活は家定が亡くなるまでの約2年弱でした。
結果的に子どもは産まれませんでした。
病弱だったり、志賀の嫉妬に悩まされたり、いろいろあったとは思います。
「篤姫」という名前効果も発することはありませんでした。
ちなみに、志賀にも子どもが産まれず、家定の血筋は断絶します。
ああっ!
最後に
家定と篤姫を紐解きながら見てまいりました。
病弱な家定に、武家の娘篤姫がゲンを担いで嫁入りし、嫡男誕生に期待がかかりましたが、
その望み届かず子どもが出来ぬまま、家定は亡くなります。
仲睦まじかったのでもう少し長生きしてさらに志賀がいなければ産まれていたかもしれませんが?
祖父のように27人の子どもがいることもある歴史とはなかなか上手くいかないものですね。
篤姫は、家定の死後も江戸大奥に残り、幕末に明治維新まで徳川家が存続できるよう、尽力していくのですが、それはまた違うお話。