岩倉具視(いわくらともみ)って知ってます?
引用:Wikipedia
「ともみ」って女の人の名前みたいですねえ。
ともみという名前にしては、見た目はちょっといかついですが凛々しい感じもします。
その凛々しい顔の血筋のおかげか、子孫には加山雄三さんや、喜多嶋舞さんなどがいます。
また、かつての500円札の肖像画にも採用されていました。
引用:Wikipedia
お札の肖像がになるほどですから余程の事をされたのでしょう!
大河ドラマ「西郷どん」では、なんと笑福亭鶴瓶さんが演じます。
これまた面白いキャスティング。鶴瓶さんのように、ガンガン喋べれる人だったのでしょうか。
それでは、実際の岩倉具視はどうだったのでしょう?
今回はあだ名で「妖怪」とか「山賊の親分」とか「岩吉」などと恐ろしい言われ方をされたりする、岩倉具視について見てみましょう。
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岩倉具視は何をした人?
本当に一言で言いますと、「明治政府を樹立に関わった超重要な政治家」と言えます。
江戸時代の幕府から、明治新政府への統治が変わるタイミングで相当重要な役割を担った人です。
岩倉具視がいなければ明治新政府は成り立たなかったと言えるでしょう。
それくらい重要な人物です。
では、どの位重要な人物だったのでしょう?
岩倉具視とは
岩倉具視はこんな人生を送ってきました
生まれは?
岩倉具視は1825年京都で下級の公家堀河康親の次男として産まれます。
当時から公家らしからぬ容姿と言動で異彩をはなっていたため、幼名は周丸(かねまる)でしたが、「岩吉」と呼ばれていました。(岩のような顔と岩のような強めの言葉を使っていたのでしょう)
その後、堂上家(上級公家)の岩倉家に養子に出て「岩倉具視」の名前になります。(しかし、貧乏ではありました)
出世のために
野心家で出世欲が強かったのですが、公家の中では身分が低かった岩倉具視は、当時の公家のトップである関白・鷹司政通(男気ある公家でした)のもとに歌道入門し、気に入られ、そこにパイプを得て天皇の近くで働くことに成功します。
出世の近道は、偉い人に気に入られることっていうのを実証しました。頭いい!
発言力を高める方法
幕府の老中堀田正睦が日米修好通商条約の許可を得に、孝明天皇のところへ訪れた時の話です。
岩倉具視は、その条約に反対だったため、反対の公家88人たちと連携をとり、条約の許可を天皇から降ろさないことに成功します。
公家たちをまとめ上げ、政治的に物事も持っていく方法も持ち合わせていました。
頭だけでなく、リーダーとしての素質もあったのです。
これにより、一気に岩倉具視の名前は売れ、発言力を高めることに成功します。
確実に出世の道を歩んでいくわけです。
作戦の失敗
その後、日米修好通商条約の天皇許可なく幕府独断の調印、
幕府大老井伊直弼による尊王攘夷派(反幕府派)を徹底的に排除した安政の大獄、
井伊直弼が暗殺される桜田門外の変、
などを経て、幕府側から、朝廷側(天皇側)と手を結ぼうとする提案(朝廷側の公家の娘と幕府側の将軍との婚姻)が出されます。
そこで、岩倉具視は、幕府側からの提案、公家の娘和宮を将軍に嫁がせることに賛成し、その後江戸にて、将軍から攘夷(外国を排除する)決行を条件として取り付けることに成功します。
が公家の娘を将軍に嫁がせたことが逆に仇となり、幕府側の人間とみられ、孝明天皇に疑われ、辞官し、岩倉具視は表舞台を去ります。せっかくトップまであと少しの所まで来ていたのに!おしい。
5年間は岩倉村に引きこもる
この引きこもりの間、収入がないので、賭博を家で開き、そのテラ銭を取って生活費に当てていたと言います。
今で言う場所貸し、不動産稼業を行っていたわけです。
どんなところでも生きていけますね。
山賊の親分と言われてもそりゃ納得です。
そんな隠居引きこもり生活でも、後の明治新政府の中心メンバーとはしっかり会っていて、話をすすめていました。出世の道をあくまで諦めていませんでした。
徳川幕府の終焉と完全復活!
引きこもりのなか、孝明天皇が死亡、明治天皇が即位します。その間も岩倉具視は水面下で動いていました。
そして、江戸幕府の終焉を意味する大政奉還を経て、その後の新政府人事を決める王政復古の大号令で岩倉具視は完全復活します!
長かったあ。
新政府の参与(政府のNo.3)に参画します。
粘り勝ちです。
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そして日本のトップへ明治政府の確立
政権は交代しましたが、まだ徳川慶喜率いる徳川幕府の生き残りがいました。
岩倉具視は新政府による徳川軍征伐に賛成し、「帰国したいものは帰れ。徳川につきたいものはつけ。勤王の意志があるものは誓書を出せ!」という内容を大名たちに宣言し、全員が誓書をだし岩倉具視側についたのです。
その時の岩倉具視の迫力はかなり凄みがありました。
だって、公家の一声が、各国を治める大名たちを一喝してしまうのですから。凄っ。
結果、新政府軍は完全に勝利し(戊辰戦争)、岩倉具視はその後の新政府にて実質最高責任者となるのです。
ついにやりましたね。念願の日本の実質的トップ(もちろん明治天皇が日本の元首ですが)になりました。
燃え尽き症候群?からの中央集権国家
トップになった岩倉具視は、京都から江戸に天皇の居場所を定める事を成し遂げるとなんと辞任していまいます。
燃え尽き症候群でしょうか?自分の野望がかなったからもういいやってなったのでしょうか?
でも、物語はまだ終わりません。
やっぱりまだやり残した事があったのでしょう。まだ国の形が定まっていませんでしたしね。
岩倉具視は復活します。そして「建国策」という意見書を記し、中央集権国家として、明治天皇を元首とした近代統一国家を定めることを成し遂げるのです。
ここに、1つの大きな仕事を終えることになります。
岩倉具視がいなければこの仕組みは出来上がっていず、右往左往していたかもしれません。
条約改正へ向けて岩倉使節団
引用:Wikipedia
岩倉具視は、日米修好通商条約の改正交渉が出来るようになる期限が来たため、交渉の責任者となります。そして、条約改正のため、岩倉使節団として総勢107名(留学生も含む)でアメリカとヨーロッパに出かけました。
実際、条約改正は出来ませんでした。
なぜなら、開国したばかりの日本は、法整備が整って無かったためアメリカに拒否されてしまいます。
しかし、それにめげず先進国の比較体験をし、そこで得たものはとてつもなく大きなものでした。
ドイツのビスマルクの鉄血政策(無駄な戦争をせず、強い国を作る)に影響を受けたり、鉄道などの新しい産業に影響を受けたり、議会政治を目の当たりにしたり、近代憲法を知るなど、様々な有益なお土産を持ち帰ることが出来ました。
これが、まだ出来たてほやほやの明治新政府にとって、世界各国の中で生き抜く為の知識、知恵を得ることのなったのです。
これは大きなことですよ。
実際に岩倉具視は、鉄道を日本に導入し、文明開化を引き起こし、征韓論の対応からの日本最後の内戦西南戦争勃発で士族の反乱終結、華族(元大名と公家)の統一に向けた動きからの貴族院設立道筋立て、ドイツの憲法を手本とした大日本帝国憲法設立への道筋をつけるなど、日本の方向性が次から次へと決まっていきました。
これらは、岩倉具視が先頭に立っていかなければ得られなかったことです。
ココでも大いなる役割を果たしていますね!
野望ココに極まれりって感じですね。
鉄道会社設立のエピソード
閑話休題。
鉄道を導入することに反対する人たちに対して言った岩倉具視の言葉がこれまたいいんです。
「天子様のご先祖は京都にある。鉄道が開通すれば、お墓参りが簡単になる、それを邪魔するとは、天子様への考動をさまたげ、国の大本を揺るがすことだ!」とこれまた一喝します。
この一言が言える岩倉具視だからこそ、鉄道会社が設立され、鉄道の開通が進み、今の交通網が発達するに至ったわけです。
これだけみても日本に欠かせない人でした。
咽頭がんで死亡
最後は咽頭がんと診断され、日本初のがん告知され、明治天皇の見舞いを受けながらも59年の生涯を終えます。
その葬式は日本初の国葬(国家の儀式として、国費をもって行われる葬儀)が執り行われました。
現代の日本に欠かすことの出来ない人だったからこその処遇でした。
だって天皇が自ら何度も見舞いに来るって普通の人にはありえない話ですよね。
最後に
岩倉具視が日本においてどれだけ重要な役割を果たしたのか、みてきました。
今の日本の政治の仕組みや、憲法の道筋、今につながる新しい文化、鉄道の交通網の発達など、
岩倉具視が残したものはとてつもなく大きいものがあります。
国葬も500円札の肖像がになることもそりゃ納得ですね。