小松帯刀っていう方をご存知でしょうか?

「帯刀」って名前がなんか強そうですね!

小松帯刀

引用:Wikipedia

眉毛が太く、若干童顔ぽいですが、とても凛々しいお顔つきをされていますね!

顔の色はとてもキレイだったそうです。

この方の名前を「小松帯刀」と言います。

読み方は、「こまつたてわき」です。

小松帯刀は、今大河ドラマ「西郷どん」で話題の西郷隆盛と同じ薩摩藩の人間なのです。西郷とは、どのような関係があるのでしょうか?

ちなみに「西郷どん」ではまだ配役は決まっていません。は町田啓太さんに決定!イケメン俳優さんですね。

「篤姫」の時は瑛太さんが演じていましたね。

 

実際の小松帯刀はどんな人だったのでしょうか?

今回は、小松帯刀の名前の由来や、どんなことをしたのか?西郷隆盛との関係は?を見ていきたいと思います。

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小松帯刀の名前の由来

早速、この強そうな名前の由来を見ていきましょう。

本当の姓名は、「平朝臣小松帯刀清廉」(たいらのあそん こまつ たてわき きよかど)というようです。

ちょっと分解してみましょう。

★「」(たいら)→源平合戦などで活躍した平氏。本性(本来の姓)

★「朝臣」(あそん)→王権との地位関係を示す姓(カバネ)の事。皇族以外では一番上の地位。

★「小松」→苗字。平清盛の嫡男の重盛が住んでいた地域にちなんで小松殿と呼ばれていたことから。

★「帯刀」→百官名(諱(いみな)を呼ぶことを避けるための名前。仮名のこと。)

 

★「清廉」→本名。諱のこと。

ちょっと複雑ですが、このように、色々な意味があり、何よりも名門の名前ということがわかります。

 

それでは、何故「帯刀」という仮名を用いたのか?

帯刀を用いた理由

そもそも帯刀という名前は、家臣の中で、強くて頼りになる人に対して付けられる名前。

小松帯刀が、薩摩藩の殿様の近くで所用を勤める役職を21歳の頃からしており、その働きが認められたことと、小松家が島津家の家老格であることから、24歳で「帯刀」という名前を付けられたのでしょう。いい名前です!

その後、名前負けしない、ふさわしい働きをしていく帯刀なのですが、どのような働きをしていったのか?

見ていきたいと思います。

小松帯刀とは?

まずは小松帯刀の基本情報から

生まれは?

1835年、薩摩国鹿児島城下山下町の喜入屋敷で、肝付兼善の3男として生まれます。

西郷隆盛より8歳後に生まれています。

同期として、坂本龍馬篤姫、土方歳三、松平容保がいます。すごすぎるメンツです!

また同時期の天才に1834年に生まれた橋本左内という越前藩士がいます。

 

実父母は次男の方を寵愛していて、帯刀は、両親の愛情をあまり注がれずに過ごした幼少時代だったようです。この辛い環境が、帯刀の人格形成に大きく影響(良い方に)を及ぼしていくのでありました。

親の愛に飢えていたおかげで人格者、小松帯刀の基礎が出来上がっていきます。

秀才だが病弱

青年帯刀は、学問に対する向上心が旺盛で、昼夜を問わず勉学に励み、どんどん吸収して行きました。

耳知識としても、様々な身分、地域の人の知識、考えを吸収します。

スポンジのようなお人です。

ただ、生まれつき虚弱なのと、勉学のし過ぎで身体を壊し、病に伏せがちの生活を17歳のころにはすでにしていました。

身体は弱かったですが、頭脳と人格(幼少の頃の環境のおかげ)はかなり素晴らしい物を持っていました。それ以上は求めすぎですね。

殿様の身の回り勤め

21歳で前述のように、殿様の小姓(殿様の所用勤め)を勤めるようになり、そこで秀才ぶりを発揮していきます。当然、殿様の目に止まります。

22歳で小松家に養子に入り、小松清猷の娘千賀と結婚し、24歳で「小松帯刀」と正式に名乗るようになります。

その後、当番頭兼奏者番として集成館(産業館)の管理、貨幣鋳造を担当したり、長崎出張で水雷砲術学、軍艦操作を学んだりと、着々とエリートコースを歩んでいきます。

そして、27歳の時、薩摩藩主の父の島津久光の前で、電気伝導の水雷や花火の実験を成功した事がきっかけとなり、側近として抜擢されるのです。

学者として相当優れた才能を持っていたようですし、相当努力なされたのでしょう。

薩摩藩家老に

さらにその後、28歳で、薩摩藩家老にまで上り詰めます。

それでは、ここから、小松帯刀の仕事っぷりをざっと挙げていきます。

彼がいなかったら、薩摩藩が明治維新において、ここまでの地位を得ることは無かったんだと思います。それほどまで、派手ではありませんが、裏方から凄い功績を残したのです。

 

では見てみましょう。

小松帯刀の仕事ぶり

薩英戦争では、水雷を鹿児島湾に設置し、イギリス軍を迎え撃つ体制を取る

集成館にて、蒸気船機械鉄工所の設置に尽力する

●朝廷と有力大名による参預会議に参加

●洋学校「開成所」の設立。(大久保利通、町田久成(初代東京国立博物館長)と共に)

●禁門の変で薩摩軍を率い、長州軍を破る

●第一次長州征伐で、長州藩の謝罪降伏させることに尽力する

●坂本龍馬の亀山社中(日本で初めての商社)の設立を援助

●武器商人グラバーと長州藩伊藤博文、井上馨を引き合わせる

薩長同盟の締結場を提供(お花畑屋敷、小松帯刀の私邸)

●五代友厚(大阪経済界の重鎮)をイギリスに留学させる

●パークス英国公使を鹿児島に招き、島津久光と引き合わせ、薩英戦争以来の友好関係を回復

●大和交易カンパニー設立。貿易の拡大に貢献

●第二次長州征伐に反対し、各藩との交渉に尽力する

●討幕の密勅の請書にサインする

大政奉還では、薩摩藩代表として、徳川慶喜に献策している

●フランスからの借金返済の要求に、イギリスからお金を借り、フランスに返して難を逃れる

●日本初西洋ドッグを備えた小菅修船場を建設

●版籍奉還(藩が所有していた土地と人を朝廷に返す政策)を島津久光に自らが領地を率先して返上することで説得

とまあ、歴史上の大きな出来事から、細々した出来事まで、しっかりと支えていたことがわかりますね!

これら様々な功績を残した秀才小松帯刀ですが、最後は様々な病気に悩まされ、病気に侵されて1870年に35歳の短い生涯を終えるのでした。

 

それでは、そんな小松帯刀の最期、死因について見てきたいと思います。

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小松帯刀の死因

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若い頃から病弱だった帯刀は、様々な病気を患っていました。

主だったものだけでも挙げてみましょう。

●足痛(痛風)

●胸痛(脚気)

●肺病(肺結核)

●糖尿病

●左下腹部腫瘍

と満身創痍状態で晩年を迎えます。

特に、下腹部腫瘍は、切除不可能なくらいに進行してしまっていたようです。

もう、病気のデパートですね。前身に病原菌が回ってしまったのです。

オランダ人医師のボードウインには、ヨーロッパの病院を勧められました。

(しかしインシュリンが製薬化されるのは50年後。まだまだ医学は発展途上ではありました)

がもうすでに時遅し、です。

死因としては、間接的には腫瘍だと思われますが、直接的には家老桂久武が書簡で書いているように、肺結核だったのだと思われます。

王政復古のクーデター(新政府の人事)に参加すること無く大阪で亡くなります。

ああ、35年の若すぎる死でした。

その血を受け継いでいるものは今もいるのでしょうか?

小松帯刀の子孫は?

これだけの実力者なので、そのDNAはやはり脈々と受け継がれていました。

孫に経國銀行の頭取が誕生します。

小松重春です。

 

小松重春は、小松帯刀の側室「琴」から生まれた長男「清直」の次男です。

帯刀から見てお孫さんに当たります。

さらに、重春の養子に西郷従道(西郷隆盛の弟)の7男の従志が入り、帯刀の鉄道敷設建白書の功績から、品川駅で食品販売を手がけられています。

「常盤軒」です。

立ち食いそば屋などを中心に駅で事業を展開されています。

血筋としてはつながっていませんが、西郷家と小松家のハイブリットが、大ターミナル駅の品川で食品事業をされているとなんかワクワクするのは私だけ?

小松帯刀焼酎

小松帯刀の名前を冠した芋焼酎があります。

甘口で、芋にしてはさっぱりした飲み物で、なかなか美味しいです。

小松帯刀らしく、優しい感じがするお酒です。

興味がお有りの方はどうぞ

 

時代を戻して、小松帯刀と西郷従道のお兄さんの西郷隆盛は、同じ薩摩藩の重要人物として幕末から明治維新を駆け抜けました。

明治維新を成し遂げた西郷隆盛との関係はどのようなものだったのでしょうか?

逸話を交えながら見てみましょう

西郷隆盛と小松帯刀

西郷隆盛

引用:wikipedia

二人の初めての出会いは、小松帯刀が西郷隆盛を尋ねたところです。

冷静沈着な小松帯刀

帯刀は西郷より薩摩藩での地位は相当上でしたが、年は西郷よりの8つも下でした。

そこで西郷は、年下の帯刀の度量を試そうと、部屋で横になって待っていたのです。

これは明らかに失礼な態度。

部屋に入って横になっている西郷をみて、帯刀はどういう行動を取ったでしょうか?

怒ってしまえば西郷の思う壺。

しかし、帯刀は実に冷静な対応を取るのです。

なんと、従者に枕を持ってくるように命じたのです。

もちろんその枕は西郷のため。

すごい神対応です!

さすがに西郷も感服し、佇まいを正し、謝罪をしたのでした。

西郷隆盛の後ろ盾

その後も小松帯刀は、西郷隆盛の後ろ盾となりサポートしていきました。

西郷隆盛は、人望もあり、政治力もあったのですが、家格がかなり低く、下級武士でした。

そこで、家老である小松帯刀が担保となり、西郷の信用を高める役割を果たしていました。

相当強力なバックアップです。

加えて、帯刀は、徳川慶喜島津久光坂本龍馬桂小五郎、朝廷や公家の人など、重要人物にかなり信頼されていたことも大きなポイントです。

だって、英国外交官のアーネストサトウは「知ってる日本人の中で一番魅力のある人物で、政治的才能があり、家老という立場だが、態度が優れ、友情厚い傑出した人物」だと評されるくらいです。そりゃ信頼されますね!

かくして、西郷隆盛は、京都での薩摩藩の実質最高責任者、小松帯刀のもと、かなり自由に動くことが出来たのでした!

愛妻家で、日本人初の新婚旅行は小松帯刀?

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さて、最後に、小松帯刀の家族への関わりについて見てみましょう。

結婚して3ヶ月くらいの頃。霧島栄之尾温泉に帯刀の義父と帯刀の妻の千賀は湯治に出かけたことがあります。

この湯治に帯刀もあとから追いかけ、一緒に湯治していたという事実。

4月22日から5月5日まで長い間湯治していたのですが、これを新婚旅行ということが出来るかな?

水入れずでは無いですからちょっと違うかもしれませんが、、、。

もし新婚旅行なら日本初でしょう。10年後に坂本龍馬がお龍と共に同じく霧島の地を温泉旅行していますが、これを日本初の新婚旅行とする説よりももっと早いってことです。

でもさすがに新婚さんなので、泊まる部屋は義父とは別々だったのでしょうね。

春の霧島を花の香りとそよ風を感じながら、病弱な身体を治しながら、千賀とは愛を深めあったのでしょう!

ロマンチックですね。

最後に

今回は、小松帯刀を見てきたわけですが、相当重要な事柄の成立のために陰から尽力されていた事がわかります。

病気がなければ、新政府では西郷隆盛よりも上の地位についていたかもしれません。

そしたら、どのように日本がなっていたでしょうかね?

たらればはNGかもしれませんが、勝手に想像しちゃいますね。