橋本左内(はしもとさない)ってどんな方だったのでしょう?
引用:Wikipedia
明治維新を成し遂げた功労者、西郷隆盛がこのように評しています。
「先輩としては藤田東湖に服し、同輩としては橋本左内を推す。この二人の才学器識は、吾輩の及ぶところでは無い」と。
同世代では、橋本左内は当代一級の人物だと言っているのであります。
そして、西郷隆盛が西南戦争で自害する際に持っていた革文庫の中に、橋本左内からの手紙が入っていたというのです。
西郷さんの人生の最期の戦争に携帯するほどの手紙。
これをみても西郷さんが、相当左内さんに影響を受けられたのがわかりますね。
それほどまでに西郷隆盛を魅了し影響を与えた、橋本左内という人はどんな人だったのか?
今回は、そんな橋本左内について見てみたいと思います!
西郷隆盛の簡単な年表はこちら⬇
橋本左内役はまだ発表されていません。
は風間俊介さんに決定!秀才ぶりを発揮されています!
短い人生の中で特に重要な人達との簡単な関連図はこちら⬇
もうすでに撮影は終わっているようなので、あとは待つのみです。
[ad#co-1]
橋本左内とは?
生まれは?
1834年、医者の橋本長綱の長男として越前国(現在の福井県)に生まれます。
西郷隆盛が産まれた年の7年後ですね。(西郷さんが7歳年上ですね)
薩摩の下級藩士の西郷さんと違って、家柄はかなり良く、室町幕府を立ち上げた足利家の流れをくむ名家です。さらに弟さんも陸軍医務局のトップを勤めたりとなかなか優秀です。
まあ、はじめは医者として育てられていくわけです。
啓発禄を書く
15歳の頃、橋本左内は「啓発録」という志をまとめた本を書き記します。
自己啓発の基本のような内容です。
福井県では、15歳になると立志式という将来の目標を明らかにし、大人になる自覚を深める儀式をするといいます。その始まりがまさに橋本左内の啓発録なのでした。
とてもためになる内容なので、簡単に触れておきましょう。
①「稚心(ちしん)を去る」
稚心とは、子供じみた心のこと。自分の好きな遊びにばかり熱中し、楽なことばかり追いかけ、勉強や稽古事をおろそかにし、いつまでも父や母に甘えていてはならない。
自ら自立し、自分に与えられた役割を自らの足で動き、自らの頭で考えなければならないと言うことでしょう。
②「気を振るう」
気とは、人に負けまいと思う心。努力をしないで負けるということは恥ずかしいことであり、それを知って悔しく思って頑張ろうとする心のこと。
のほほんとしてばかりはいられません。生きていく上で競争は否が応でもあります。
その時に、きちんと自分の頭で考え、心で感じ、努力をすることが必要だと言うことでしょう。
③「志を立つ」
志とは生き方の決意を固めるということである。高い目標を掲げ、いつもそれを眺めて自己を省みて、自分の足らぬところを努力することが大切である。そして、自分が少しずつ前進するのを楽しむこと。
自分が何のために生きていくのか?ココをまずはっきりさせなければならないでしょう。その上で、自分がなし得たいことと今現状とのギャップを明らかにし、そしてその差を埋めるべく努力をしていくっていうことでしょう。
④「学に勉む」
勉学とは、優れた人物の立派な行いを習い、自らもそれを実行し、自己の力を出し尽くして目的を達成するまで続けるということである。本を読んだりして知識を深めることは、学問の手段に過ぎない。
とにかく実践を重んじています。学んだら、実行して目的を達成する事が重要。逆に言えば、目的を達成するために学び、実行をするって言うことでしょう。
⑤「交友を択(えら)ぶ」
交友とは、自分が交際する友人のことであり、友人には益友(えきゆう)と損友(そんゆう)とがあるからその違いを見極めて選ぶことが必要である。益友(えきゆう)には自
分から積極的に交わり、大切にすべきである。損友(そんゆう)がいたら、自分の力でその人の良くない面を正しい方向へ導いてやらねばならない。
仲間との付き合い方で、その人の人生が大きく変わるでしょう。一人では成し得ないことも、仲間達と連携すれば実現することもたくさんあるでしょう。人生で一緒に価値観を分かち合える仲間といかに交際できるかがかなり重要になって来るということを言っているのでしょう。
以上の事をすでに15歳で書き、そして実践していたとは?
これは天才と呼ばずしてなんと呼ぶ?
そしてその後さらに橋本左内は大きく成長していきます。
適塾入塾
引用:Wikipedia
1849年、16歳の頃大阪に出て、当時の最先端の医学、蘭学(オランダ)塾の「適塾」に入塾します。
講師は医者であり蘭学者である緒方浩庵という武士でした。
この緒方洪庵は、この適塾で、大村益次郎(日本陸軍の祖)や福沢諭吉(慶応大学創立者)などを教えたすごい人なんです。さらに、医者としては、天然痘(膿んだ疱瘡が体中に出来る病気。13代将軍家定をはじめ、この病気には、かなりの人が悩まされていました)の治療にかなり貢献し、近代医学の父と呼ばれる人物でした。
そんな先生に教わり、橋本左内の脳みそは、どんどんレベルアップしていきました。
塾以外にも、当時のトップレベルの学者、儒学者と交流を深め、際限なくレベルアップしていきました。
その後、江戸と福井の行ったり来たりをします。
その間に、黒船を目の当たりにして憤慨したり、母親の乳がん摘出手術をしたり、英語やドイツ語を習得したりしています。学びと実行を同時進行。自分の本に書かれた通りに人生を歩んでいっていますね!
福井藩藩校、明道館の学監心得となる
そんなメキメキ成長する橋本左内が、福井藩主、松平春嶽の目に止まり、藩主の書院番(藩主の親衛隊)として働くようになります。
ちょっと医者として歩む人生を嘆いていましたので、この人事に橋本左内はとても喜んだでしょう。
そして、藩校明道館の学監心得(教頭先生)を勤めるまでになってきました。
この頃の年齢、24歳くらいですよ。
その年令で、越前藩の藩士を教育する学校の責任者までやってしまうなんて。
[ad#co-1]
西郷隆盛との出会い
書院番(藩主の親衛隊)になった橋本左内は、江戸で藩主松平春嶽の手足となり奔走します。
この頃西郷隆盛と出会います。
西郷隆盛も薩摩藩主島津斉彬のお庭方(藩主の手足となって動く仕事。書院番と同じような役職。下級藩士だった西郷さんのための特殊な役職ではありましたが)として奔走していました。
西郷さんの年齢は29歳位でしょう。
出会いは江戸、水戸藩士原田八兵衛の屋敷で会いました。
その時の橋本左内の西郷隆盛に対する印象は?といいますと
「時世を憤慨する、血気盛んなだけの若者」という印象だったようです。
未来の大西郷も、橋本左内から見るとそう見えるというのはとても興味深いです。
逆に西郷隆盛も、橋本左内の風貌が、痩せてて虚弱に見え、言語も婦女子の如しだったため、はなから小馬鹿にしていたと言います。
なんでも、西郷は「自分は毎日相撲を取るだけで、他には何もしていない」などとうそぶいて、取り付くしまも無かったようです。まあ、無礼な態度だったということです。
しかし、橋本左内の真摯な態度と、深い学識から来る言論により、西郷隆盛も態度を改め膝を正して耳を傾けるようになります。橋本左内が帰ったあと、西郷は「今日の談論、甚だ敗れり」と語ったといいます。
橋本左内のある意味凄みが垣間見れますね。
その後二人は、共通の目標を持ちます。
それが、「将軍継嗣問題」です。
将軍継嗣問題で手を携える
当時の将軍は、13代家定。正室は元薩摩藩のお姫様「篤姫」です。
しかし、家定は、ちょっと障害を抱えていたこともあり、自ら将軍の仕事をほとんどこなせず、そして子供もいませんでした。
外国から開国の圧力がガンガン来る中、それに対応できる次の14代将軍を誰にする?ってところから将軍継嗣問題ははじまります。
橋本左内属する越前藩と西郷隆盛が属する薩摩藩は、御三卿の一つである一橋家の一橋慶喜を推していました。
一方対するは、大老井伊直弼が推す紀州藩主徳川慶福でした。
橋本左内は朝廷工作、幕閣対策と西郷隆盛と連携をとりながら一橋慶喜擁立を目指し走りました。きっと、凄い目まぐるしく動いていたのでしょう。テキパキと次から次へと仕事をする姿が容易に想像できます。
橋本左内の考えは、幕藩体制は維持した上で、西洋の先進技術を導入し、帝国主義と地政学の観点から日本の安全保障を考えていました。
当時としては先んじていた考えかたでした。ちゃんと日本の海の向こう側のことが見えていたのでしょう。さすがです!
勿論これは、名君松平春嶽の様々な考えや教えが伝わっていたからでしょう。
一方西郷隆盛も、同じく名君島津斉彬から様々な考えや教えが伝わり、左内とはじめあった頃からドンドン成長していました。
そんな二人が駆けずり回って目指した一橋慶喜将軍擁立でしたが、
この将軍継嗣問題に突然ピリオドが打たれます。
安政の大獄
大老井伊直弼が、紀州藩主徳川慶福を14代将軍に独断で決定。
一橋慶喜を担いでいた者をことごとく処罰し始めたのです。
これが安政の大獄です。
当然、一橋慶喜擁立に動いていた橋本左内と西郷隆盛にもその魔の手が忍び寄ります。
西郷隆盛は、藩主斉彬の死もあり、薩摩へ落ち延び、入水自殺(未遂)します。
そして橋本左内。日本の宝と言っても良い人物。これからの活躍が楽しみでならない若者。
江戸北町奉行所で6度取り調べを受け、最終的に死罪の罪に決定します。
1859年11月1日
秋の気配が感じられる江戸伝馬町牢獄(吉田松陰も入獄していた)で、斬首されます。
享年26歳でした。斬られる前の涙はどんな意味を持っていたのか?
悲しすぎる、、、、。
この訃報を西郷隆盛は、自らの身を幕府の目から逃れるためにいた奄美大島で知ります。
西郷隆盛は、同士に送った手紙の中で、以下のように書き記しています。
「橋本まで死刑に遭い、悲憤千万耐え難き時世である、、、」と。
最後に
天才の名を欲しいままにした橋本左内は、江戸で西郷隆盛と出会います。
二人の共同作業は将軍継嗣問題でした。
結局その夢は叶いませんでしたが、二人の友情は、そこで固いものとなりました。
後年、橋本左内は福井県の英雄となります!
関連記事