戦国最強武将」「義の漢」と呼ばれる、越後(新潟)の上杉謙信公ゆかりの地を今回ご紹介していきたいと思います。

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まずは、戦国時代に生き、越後の龍と呼ばれるほどに強かった、上杉謙信公について見てみましょう。

上杉謙信公とは?

生涯70戦ほど戦をして、大きな敗けは一度もなかったという、伝説を持つ戦の天才です。

 

生涯のライバルであった、武田信玄公も、「日本無双之名大将」と評していました。

コラム:上杉謙信公の身長は!?

ゲーム戦国無双などでは、結構大柄な武将として描かれていますが、実際の身長は156センチほどで、それほど大きく無かったのです。甲冑の大きさなどから予測されるのですね。

参照記事:戦国武将の身長低い順ランキング5選!現代人と比較してみた

 

「戦国最強」「越後の龍」と呼ばれた上杉謙信公

上杉謙信

自身の領国は越後(新潟)で、関東管領という関東を管轄する重要な役職を足利幕府から与えられていました。

無類の戦の強さ(70戦して大敗は1回ほど)と形式(役職)や権威(室町幕府)を重んじる考え方による所が、関東管領を任された大きな理由です。

 

野戦の強さ

特に野戦では、神がかり的な強さを見せつけていました。

※柴田勝家公率いる織田軍を撃退した手取川の戦い、武田信玄公と5度相まみれた川中島の戦いでもその手腕は随所に見られます

伝説ですが、武田信玄公が上杉謙信公の太刀を軍配で受けたとされる一騎打ちの場面はまさに絵になるシーンです!

越後の龍

越後の龍
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ちなみに「越後の龍」とは武田信玄公の「甲斐の虎」に対して名付けられた異名です。

多くの武将たちに畏れられた上杉謙信公ならではな名前ですね!

 

 

城攻めも得意

城攻めでも数多くの城を落城させてきました。

※能登(石川県)にある巨大山城の七尾城を陥落させたり、北条勢が包囲する唐沢山城を数十の兵で乗り込み救援成功させたり、枚挙にいとまがありません。

 

 

戦の強さを引っ提げて、関東の乱を片っ端から抑え込んでいく使命に駆られて転戦していました。

とっても責任感が強い方だったと思います。

これが戦国最強武将といわれるゆえんです。

 

「義の漢」上杉謙信公

義の武将

とにかく「義」のためという、他の戦国大名とは一線を画する独自の考え方に基づいた行動を貫いた戦国武将でした。

 

つまりは、救援を要請されるとそれを断るという選択肢を持たず、決して見殺しにすることが出来ず、助けに行けるお人というわけです。

 

なので、活動範囲は関東から信濃(長野)、越中(富山)能登(石川)と広範囲でしたが、救援要請があれば、端から端まで移動し、雪の山を越える強行的な移動も何度か行っているほどでした。

 

また、長年のライバルだとしても、「戦で決着をつけるべし!」といって、塩の販売を今川家に止められて困っていた武田家に対して塩の販売をして助けたりする行動も、「義」を重んじるところからきているものでしょう。

 

 

内政面もピカイチ

経済面の目の付け所も鋭く、金山を開発し、カラムシという植物から取れる繊維を流通させたりして莫大な利益を稼ぎ出していたのです。

 

この資金があったからこそ、しょっちゅう戦を出来たのでしょうね。

 

また、お酒がお好きなことでも有名で、剣豪将軍足利義輝とは一緒にお酒を飲まれる仲だったようです。

 

そんな上杉謙信も、病には勝てず、脳溢血(諸説あり)でぽっくり亡くなってしまいます。

49歳でした。

お酒のつまみには塩分を含むものが多いですからねえ。

 

と、上杉謙信のことを、サラッとご紹介しました。

次に上杉謙信のゆかりの地をご紹介していきたいと思います。

彼が祀られている神社が新潟県にありますのでまずは見てみましょう!

 

上杉謙信公ゆかりの地紹介3選

春日山神社」上杉謙信を祭神に祀った神社

春日山神社

この神社は、山形県米沢市にある上杉神社(上杉謙信が祀られた神社)から分霊されました。

 

なぜ、いきなり山形県が出てくるのか疑問に思われたかと思います。

それはこういうことです。

なぜ山形に上杉神社か?

山形県にある上杉神社

 

 

原因は徳川家康公の命令により国替えをさせられたためでした。

 

上杉謙信公が亡くなった後を継いだのは養子の上杉景勝公でしたが、石田三成公をリーダーとする西軍についた上杉景勝公は徳川家康公をリーダーとする東軍に関ケ原で敗北します。

勝利した東軍リーダー徳川家康公の命令により、山形に国替えさせられてしまった、とそういうわけです。

 

山形に移っても引き続き上杉謙信公は神のごとく崇められたのでした。

納得!!

 

では、神社を作った人は誰だったのでしょう?

春日山神社を創建した人は?

 

創建した方は、日本のアンデルセンこと童謡作家の小川未明さんの父です。

 

また、日本近代郵便創設者の一人、一円切手の肖像、「郵便、切手、葉書」の名称を定めた前島密さんが援助されたといいます。

さすが、著名な方が関わっているのですね。

軍旗は「毘」

 

 

境内の記念館には、「」の軍旗や遺品が展示されています。

因みに「」は「毘沙門天」の略で、毘沙門天とは、仏教における天部の仏神で四天王の一角を成す武神であるといいます。

(中国では、帝釈天の配下にいて、夜叉や羅刹と言った鬼神を部下に持つ武神)

上杉謙信本人は毘沙門天の生まれ変わりだと豪語されていて、周りの人間を束ねるための一つの口実としていたようです。

 

強そうですね!軍神と言われた上杉謙信公にはぴったりです!

地図

 

「林泉寺」上杉謙信公が幼少時代を送った場所

林泉寺惣門

林泉寺惣門(元春日山城搦手門)

 

上杉謙信公がまだ長尾家の跡継ぎ争いに巻き込まれる前、四男であった上杉謙信公はここ「林泉寺」に7才から14才まで預けられました。

 

そこで名僧、天室光育(てんしつこういく)に厳しく育てられました。

戦国武将の中でも、教養が高く、信仰心が厚いのは、この7年間が強く影響していると言えます。

 

少年時代の教養はその人の人生に深く影響をあたえるということを学びます。

私も子供が下が6歳、上が13歳で今本当に大事な時期を過ごしている真っ最中なので、心して関わらなければならないと思う次第です。

 

林泉寺の惣門(正門)は、なんと春日山城からの移設された門(搦手門:有事の際に外へ逃げれるように設けた門)だそうです。

現存する唯一の春日山城の移築物です。浸っちゃいますね!

 

さらに、境内にある宝物殿には上杉謙信が書いた山門に掲げられた扁額(横に長い額)「第一義」と「春日山」の2つが展示されています。

 

第一義と書き記すのはいかにも義を重んじた謙信公ならではだと思います。

裏切りが多い戦国時代の真っ只中、義を貫きつつ戦国時代を生き抜いたその姿勢は本当に尊敬に値します!

地図

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「春日山城」上杉謙信公の居城

春日山城
春日山城跡

 

上杉謙信公の居城です。

山城で、周りは多くの砦が有り、それと連携して防御を固めていました。

天守閣や石垣、瓦などが発掘されていないことから、自然を要害として築かれた難攻不落のお城です。

名前の由来は、春日大社からの分霊を祀っている春日神社があることからその名前がついたとされます。

※春日山神社(上杉謙信を祀った)とは別ですね

 

山を歩き、本丸跡から景色を眺めると、上杉謙信公はここから何を想い何を夢見ていただろうと頭がクラクラしてきます。

春日山城

ここの屋敷で、直江兼続公とお酒を飲み、干物をつまみながら越後の将来でも語り合っていたのでしょう!

(春日山城へ行く前に、春日山城史跡・上越市埋蔵文化財センター寄って行きましょう。知識を得ることで10倍楽しめますよ!)

 

地図

最後に

越後の龍、上杉謙信公にゆかりのある地をご紹介しました。

現在もなお、崇拝されるのは、やはり、「義」を貫いたその生き様にあるのだと私は思います。

何事も一貫性があることは美徳です。

なぜなら、貫くことっていうのは相当難しいことだからです。

もちろん、上杉謙信公も若い頃は相当迷ったことでしょう。

妻を持たず、家出もする、、、。

 

しかし、大人になってからの上杉謙信公は、義の道一本です。

見習うべきところはしっかり見習わせていただきます!

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