国時代をこよなく愛す、ファミレス店長南昌幸です!

歴史好きな歴男、歴女の方へ楽しく情報をお届けします。

 

 

映画「関ケ原」の舞台となった関ケ原の戦い。

武将たちは戦ですが、その時農民はどうしていたのでしょう!?

「関ヶ原」についての簡単な解説は、『関ケ原の戦い!合戦に至る経緯を分かりやすく5分でまとめました!映画「関ケ原」を10倍楽しめます!』をご覧ください。

映画関ケ原公式サイト

 

関ケ原に住んでいる農民は、戦をどのような気持ちでみていたのだろうか?と興味が湧いて来たので調べてみました!

みなさんも興味ありませんか?

 

歴史の舞台に取り上げられるこの戦を農民視点でみることで、また一味違った「関ケ原の戦い」が見えてくると思います。

そのあたりを味わって頂けたらと思います!

 

世界3大古戦場の一つ、関ケ原の戦いは、西軍(石田三成公を中心)東軍(徳川家康公を中心)とした軍が戦った天下分け目の戦いです。

 

20万人もの人間が関ケ原に集結し、慶長5年9月15日、新暦で言うと1600年10月21日に大いくさが行われました。

(因みに私事ですが、私の誕生日は374年後の10月21日です)

 

 

8000人ほどの死者を出したこの決戦は6時間ほどで東軍が勝利することとなり、ここに徳川家康公の全国制覇がなされ3年後江戸幕府が開かれることとなるのです。

 

時期は?

石 運搬 昔 帽子 農民 民 裸足 全力

10月21日といえば、秋ですね。

稲作、麦作が中心だったこの地域ではちょうど稲を刈り取る書き入れ時に重なっていました。

 

農民たちは、この戦いが始まるにあたり、どう考えたのでしょう?

「戦いになれば田畑が踏み荒らされ食い扶持がなくなっちまう!」

「ならば、早めに刈っちまおう」

こんな感じで考えて行動したのではないでしょうか?

関ケ原の戦いの前、9月半ばには石田三成公が関ケ原を通り、大垣城へ向かっています。

 

三成公の思惑通りに行けば、難攻不落の大垣城を中心に戦がおこなれるはずでしたが、そこは家康公、関ケ原に戦場を移すべく三成公を誘導します。

 

この、石田軍の様子をみて、

関ケ原の農民たちは、大急ぎで稲を刈りとっていったのではないでしょうか?

 

10月の半ばには大谷吉継軍が陣に到着をしていますので、

今度は、竹中重門公の元、西軍の陣づくりも手伝わされていたといいます。

しかも無給で。泣けてきますね、、。

直前では徹夜の土木作業が繰り広げられていたようです。

 

心の中では、「早く戦争終わってくれえ。

次は麦をこしらえなければならねえ!」

 

世紀の大決戦の裏側は、こんなことが行われていたのですね!

 

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関ケ原の戦いの時農民はどこへ?

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20万人がこの関ケ原に集結していれば、そこにいる農民たちは、何処かに移動しなければなりません。

 

10月21日の朝、戦が始まる前に農民たちは家を逃げ出し近くの山奥に避難しました。弁当を持って!

 

濃い霧が立ち込めていたといいますから、移動にも避難場所を確保するにも難儀だったでしょう。

 

伊吹山の方ですかね?

山奥から戦の様子を聞いていたのでしょう。

石田軍の大砲の音など聞こえていたかもしれません。

 

農民から見ると、一日で戦いが終わって良かったと思います。

関ケ原の戦いの後は?

 

戦いが終わると今度は戦場処理です!

 

まずは農民たちが戦後の混乱を恐れて村になかなか出てきませんでした。

そこで、家康公に禁制を出してもらうことにしました。

 

関ヶ原の村人たちは70km離れた大津城まで家康公を追いかけ禁制を要求しました。

家康公は村人の頼みを聞き禁制を出しました。

その禁制は現在も残っています。

 

内容は、

「関ヶ原に残っていた兵に対し、村人への乱暴・狼藉、家屋や畑への放火、木や竹を勝手に切ることなどをあらためて家康公の名で禁止した」

家康公から直々に禁制が出されたので関ケ原の村人たちは安心し、逃げていた村人も戻り村を立て直すことができたのです。

 

戦後、8000人以上もの死体が関ケ原の大地にあったのですが、当然この処理を農民たちもやることになります。

 

当時、関ケ原を治めていた武将は竹中重門公(秀吉公の軍師竹中半兵衛公の嫡男)ですが、家康公は重門氏に遺体の収容と、首塚の建造を命じています。

 

その作業に当然農民も駆り出されます。(辛い立場)

 

さらに、家康公から竹中公へ自領が戦場になったお見舞いとして米1000石をあてがったといいます。それはどこへ行ったのか?

 

とにかく農民たちは、自分たちの田畑を元通りにしなければならないので、必死に遺体の収容、戦いで荒れ果てた農地の復旧に力を注がなければなりませんでした。

「おら達の田畑がひどく荒らされてしまった!」

 

実際に元通りになるまで結構な時期を有したと言われています。

その間どのようにして食いつないだのでしょう?

 

家康公からあてがわれた1000石が少しでも農民の足しになっていれば良いですがそんなことはないでしょう。

 

あとは、死体から甲冑や刀、銃を剥がし、これらを売ることで、田畑の収入の足しとしていたのでは?と思われます。

 

(ちなみにこのあたりの農民は、年貢を納めた後残った米とさらに麦を栽培してやっと生きていける収穫があったというギリギリの生活を余儀なくされていたようです。)

 

戦いが終わった後、道中奉行間宮彦次郎氏が「関ケ原の百姓が山奥に隠れているので、安心して出てきて麦作をすすめた」とされています。

 

死体の処理をとにかく終わらせ、その後荒れ果て畑を修復させ、早く麦をこさえなければ食べることも出来なくなるのです。

 

世紀の大決戦の裏側では、こんな必死なドラマが繰り広げられていたのです。

あとがき

天下分け目の大決戦。

これも農民側から見れば結構迷惑なお話です。

こういう農民側からみる関ケ原を少しでも感じて頂けたら

より深く関ケ原を知ることが出来ると思い記事を書かせていただきました。