戦国武将をこよなく愛する激務ファミレス店長南昌幸がお届けするブログに

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映画「関ケ原」絶好調ですね!

観客動員数150万人突破し、興行収入19億円突破です!

「関ヶ原」についての簡単な解説は、『関ケ原の戦い!合戦に至る経緯を分かりやすく5分でまとめました!映画「関ケ原」を10倍楽しめます!』をご覧ください。

その天下分け目の決戦が行われた関ケ原の合戦の舞台、関ケ原に参戦した戦国武将たちの

陣跡をめぐってみませんか?

 

関ケ原に集結した英雄達のロマンを肌で感じながら、夢の跡を一日満喫すること

が出来ます!

 

兵どもが夢の跡」をみんなで一緒に歩きながら味わうのもまた一興ですね!

 

どんなルートで陣跡を歩くの?エピソード紹介!

3つのコースが用意されています。

1.全制覇コース

(距離:16キロ。所要時間約6時間)

関ケ原陣跡をほぼ全て歩くおすすめのコースです!

簡単なご説明をしながらコース紹介していきますね!

スタート:ふれあい広場

1:細川忠興公陣跡

(西軍の武将です。関ケ原の直前に大阪城内の屋敷にいた妻ガラシャは西軍の

襲撃を受けて自害を余儀なくされています。最愛の妻の死を沈痛な想いを抱え

関ケ原に臨んたことでしょう!!

 

関ケ原本戦では、石田三成公本隊と激闘!首級を136あげたと言われています!

怒りと悲しみをひしひしと感じます!!!)

 

2:丸山/黒田長政公竹中重門公陣跡

(黒田長政公は関ケ原東軍勝利に於ける役割はめちゃくちゃ重要でした!

西軍敗退の決定的事件の小早川秀秋公、吉川広家公の裏切りの交渉なども

担っていました。本戦でも西軍石田三成公の家臣島左近公を討ち取る等

活躍は凄まじかったのです。黒田長政公なくして東軍関ケ原は語れないでしょう!)

 

(竹中重門公は関ケ原を領地とし、初めは西軍で大谷吉継軍などの陣案内等していましたが、

井伊直政公などの仲介により、東軍に寝返ります。

 

居城菩提山城を家康公に提供したり、関ケ原決戦後、西軍有力武将小西行長公を捕獲するなど、

東軍に貢献をしています。黒田長政公とは幼馴染でした。)

 

3:陣場野/徳川家康公最後陣跡

(東軍の大将の徳川家康公は初めは桃配山に陣を張っていましたが、西軍の善戦に対し、

最前線の近くであるこの場所に陣を進め、東軍の士気を高めたといいます。

 

合戦後、この場所で西軍武将たちの首実検を行われました。

 

実際、人間のおびただしい首が家康公の前に届けられてどの武将なのかを

検証していくわけです。想像しただけでゾッとしますねえ!

 

その後、家康公の命で地元領主竹中重門公より供養され土壇が築かれました。)

 

4:田中吉政公陣跡

(関ケ原本戦では、黒田長政公とともに東軍として石田三成公と激突しています。

その時、西軍の武将明石全登公を逃したと言います。(親戚だったため)

血の繋がりというのはやはり強いですね!

 

合戦後石田三成公居城の佐和山城を落とし、三成公自身も捕獲するという大功をあげています。

近江八幡の田中吉政公は三成公とも同郷でした。

 

三成公を捕獲時、三成公は腹痛で病んでいましが、薬を受け付けない三成公に対して、

ニラ粥を勧めそれを三成公は食したと言います。

 

そして、「他のものよりは、お前に捕らえられたほうがいい」と発言をしたそうです。

田中吉政公の人柄がにじみ出るエピソードですね!敵同志でも、元は味方、豊臣家の為に生きた者同志でした。

感動で泣けてきます、、、、!!!

 

5:東首塚

6:松平忠吉公井伊直政公陣跡

(松平忠吉公は家康公の4男で、井伊直政公の娘婿です。

直政公は後見としてサポートして行きます。

 

井伊直政公は、関ケ原の合戦の口火を切ったとされています。

これに関しては、先陣が決まっていた福島正則公にさきがけて戦闘を開始し、

抜け駆けではないかと言われていますが、霧が濃かったため起きた偶発的な遭遇戦と

みるのが普通ではないでしょうか?

 

東軍の島津豊久公を討ち取りますが、島津軍が撃った銃弾が当たり、大怪我を負います。

島津の退け口の最大の被害者です!!)

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7:本多忠勝公陣跡

(本多忠勝公は、東軍における豊臣恩顧の武将達の監視役でした。

関ケ原本戦では90をも及ぶ首級をあげます。生涯無傷と言われた猛将です。

関ケ原では最強ではないでしょうか!!!)

 

8:藤堂高虎公・京極高知公陣跡

(藤堂高虎公・京極高知公は、西軍の武将大谷吉継公と死闘を繰り広げます!)

9:福島正則公陣跡

(朝鮮出兵を境に急速に石田三成公との仲が悪化。会津出兵も6000人の軍を率い出陣。

小山評定では、いち早く家康公へ味方につくことを表明し、反転して西上する方針が決定します。

福島正則公がいなければ関ケ原の戦いは遅れていたかもしれません。

それくらい三成公への憎悪は強く、実際の三成公打倒の行動力は力強いものでした!

人はそれほど憎めるものなのだな!と感じずにはいられませんでした。

返せば、どれだけの事をすれば、言えば、人から憎まれるのだろう?

三成公の稀なる人間性に驚くばかりです!

本戦では、西軍の精鋭宇喜多秀家公と激闘を繰り広げます。緒戦は退却を余儀なくされますが、

小早川秀秋公の裏切りを境に盛り返し宇喜多勢を壊滅に追い込みます。

裏切りがなければ、どうなっていただろう?本当に思います!)

10:松尾山/小早川秀秋公陣跡

(この関ケ原最大のキーマンです!

小早川秀秋公の動きが天下分け目の戦いの勝敗を決定づけたといえます!

このお人の場合も、三成公にはだいぶ恨みつらみがありました。

この恨みつらみというのは本当に怖いものですね!

織田信長公の本能寺の変も、元はといえば恨みつらみから来たものでしたし。

日頃からのコミュニケーションが本当に重要だと思いますし、自分の首を締めないように

気配り心配りが本当に大事だなと学びます!

12:常盤御前の墓

(源義朝公の側室で、源義経公の母親です。絶世の美女だったようです!)

13:大谷吉継公陣跡(眺望地)

(常に大人の対応をしていた三成公の良き仲間です。

軍事的才能も豊臣秀吉公から高い評価を得ていましたし、

冷静に場をコントロール出来る武将でした。

三成公に対しては、さんざん挙兵することの無謀さを説いていましたが、

最後は三成公の熱意に負けて敗戦を予想しながらも西軍として戦うことを決意します。

地獄へと落ちる道を敢えて選ぶ。三成公の熱意というのはここでもすごいパワーを発揮している

のです!)

 

14:大谷吉継公の墓

15:平塚為広公の碑

(薙刀の名手。関ケ原本戦では、裏切りの傾向があった小早川秀秋公の暗殺を大谷吉継公から

密命を受けていたが、察知されてしまいます。

もし、これが成功していたら!また歴史が変わっていたかもしれません!

実際に小早川秀秋公が裏切った後は、大谷吉継公に属して奮戦しましたが、続々と裏切りが増える

勢力に耐えられずに壊滅します。)

16:宇喜多秀家公陣跡

(関ケ原本戦では、西軍最大17000人の兵力を持って、東軍福島正則軍と激突。

緒戦は優勢を保っていたが、東軍への寝返りが相次ぐと形勢は逆転。

壊滅してしまいます。その後落ちに落ち延びて薩摩の島津家に匿われました

 

父の宇喜多秀家公の時代に下克上で大名に成り上がり、岡山の発展の礎を築いた功績が

西軍の有力武将で最後まで生き残ることが出来たことと、関係があるのかもしれません!)

17:小西行長公陣跡

(肥後の国を治めていたキリシタン大名です。本戦では田中吉政隊などと奮戦するが、

小早川秀秋公の裏切りに拠る形勢逆転で敗走。捕獲後は市中引き回し。

六条河原で斬首。首を三条大橋に晒されます。

その後教会でカトリック式に改めて葬られました。

 

こうして調べてみると、とても酷いことを戦国時代の人々は行っていたのが想像出来ます!

どういう気持で町の人々は小西行長達の引き回される姿を眺めていたのでしょう?

 

教会に葬られてよかったです!!

18:開戦地

19:島津義弘公陣跡

(薩摩からはるばる上京し、1000人ほどの手勢で関ケ原に参加します。

もともとは東軍の伏見城に徳川方の援軍として参るのですが、話の食い違いがあり?

西軍の中にぽつんと残された島津軍はやむなく西軍に味方します。

 

しかし、三成公に意見をしては却下されたり、出陣要請で使者が無礼を働いたのを見て

さらに不信感を持ったり、と心はとことん三成公から離れていきます。

本戦が始まっても、防戦一方で責めなかったり、、、。

 

最後、西軍の負けが確定すると、徳川本陣方向へ敵中突破を図ります!

これぞ、島津の退口、と呼ばれるものです。

部下たちがとにかく殿様を守ろうと次から次へ打たれながら守っていきます。

その姿は、儚く散る桜のよう、、。最後は80人に減ったものの、義弘公は無事に

落ち延びることが出来ました!)

20: 決戦地

21: 笹尾山/石田三成公陣跡

(愛と義に生きた武将は、最後は味方の裏切りをさらにどんでん返しすることが出来ずに

圧倒的な兵力の差を前に、西軍石田三成公は完全に壊滅します。

 

人として欠点もとても多いが、好かれる面もとても多く持っていた武将だと思います!

 

一番好きなエピソードは、親友大谷刑部公の顔から落ちた膿がはいったお茶を、

「早く貸せ!」と言って、微塵も動揺せずに飲み干してしまったことです!

潔い!このような所が魅力的な部分!自分よりも親友をおもんばかる生き方に

私は感動しました!

 

最後は、村人に匿われますが、最後は村人をかばい捕獲され→市中引き回し→斬首→

さらし首、、、。最後まで義の人でした。ここに、豊臣家の天下は完全に消え失せるのです。)

 

 

最後に!

実際に関ケ原の地を歩いてみて、武将達の動き、考え、ドラマ、を

感じてみましょう!

新たな発見があるかもしれませんね!!