今も家紋という、身分や家のルーツなどを表してくれる紋章が、家によって色々と種類がありますが、そのうち
戦国武将・島左近が使用していた家紋「丸に三つ柏」を調査してみました。
なぜに調べたくなったかといいますと、家紋には、その家のルーツが込められていて、意味があるということを知り、それでは、好きな武将の家紋の意味や由来などを知りたいなって思ったからです。
今回、私の好きな戦国武将・島左近と、島家が使っていた家紋「丸に三つ柏」がどのように関連・意味があったのか?
そんな疑問を解消すべく記事を書いてみましたので、是非お付き合いください。
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戦国武将・島左近とは?
引用:Wikipedia
それではまず、島左近について簡単に見ておきましょう。
生まれは戦国時代の天文9年(1540年)5月5日。大和の国(今の奈良県)に生まれました。
まだ戦国時代の初期の頃ですね。
豊臣秀長(豊臣秀吉の弟)もこの歳に生まれています。
様々な領主に仕える
はじめは、大和の国(奈良)の守護・畠山高政、それから大和の国(奈良)を治める筒井順慶に仕えて戦に内政に活躍を果たしています。
この頃(20代くらい)からかなり実力を持っていたのですね!
そして40代くらいまで、筒井家の元で働いています。結構長い間ですよね。
しかし、筒井順慶が36歳で亡くなると、筒井家を継いだ嫡男の定次とは上手くいかず、筒井家での仕官を辞めます。
現在風に言えば転職です。
その後、同い年の豊臣秀長(豊臣秀吉の弟)、豊臣秀保(秀長の養子)と主君を変えますが、相次いで死に別れにあいます。
天下の豊臣秀吉の親族に仕えるところ、目の付け所が良いですねえ!
その後、一旦浪人(今で言うニート)になった後、石田三成の家臣になるのですが、その際に採用される時の話をしましょう。
石田三成の家臣になる
引用:Wikipedia
豊臣秀保が亡くなってから島左近は浪人になりました。いわゆるニートですね。
島左近、45歳の頃です。まだまだ働き盛りなのにねえ。
自分の能力をいかにこの世に活かしていくのか?ってことを常に念頭に置いていたのでしょう。
実際に就職のお誘いは結構あったのに断っていたのは、自分のイメージと合致しなかったのですね。
そんな時、豊臣秀吉の作り上げようとした世界を引き継ごうと志した石田三成からアプローチがかかります。
このアプローチは強力でした。
もちろん、はじめは「ok」しなかったのですが、三成の本気の想いが左近に伝わったのでしょう。
三成の半分の禄(給料)を与えるから来て欲しい!と破格の待遇を示されます。これはすごいですよ。
主君となる相手と同じ禄を与えようと言うのですから、そりゃあ本気度マックスですよね。
そもそも三成が左近にアプローチをしたのには背景がありました。
石田三成が島左近にアプローチした背景
豊臣政権では、石田三成は五奉行(現在の官僚のトップのようなもの)の一人として、政治手腕を発揮していました。
刀狩りやら、太閤検地やら、歴史的な様々な重要な政策を実行していたのでした。
しかし徳川家康が徐々に天下を狙って来るようになりました。
それを許せない石田三成。
徳川家康に比べ、石田三成は近江(滋賀県)の東を治めていた小さな大名でした。
さらに、政治能力はあっても軍事的な能力が不足していることを、石田三成自身が把握していました。
とってお頭が良い人でしたからねえ。
そこで、軍事能力に長けていて、今誰の元にも仕えていない浪人の島左近は、三成の不足部分を満たす相手としてぴったりだったのでアプローチをはじめたってわけです。
そんなわけで、石田三成の家臣となった島左近は、関ヶ原の戦いのプランを立てるに至るのです。
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関ヶ原の戦い
やがて豊臣秀吉が亡くなり、世の中はもともと自分で天下を狙っていた徳川家康と、豊臣秀吉時代の政治の跡をつごうとする石田三成の2つの勢力に分かれるようになっていきました。
その2つの勢力ががっぷり四つで戦ったのが、世に聞こえる「関ヶ原の戦い」です。
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島左近は、様々な献策を石田三成にしますが、採用されないものがあったりとすべての効果があったかはわかりません。(島津義久とともに献策した夜襲が採用されていたら、もしかしたら、6時間で決着がつかず、もう少し長引いたかも知れませんね)
関ヶ原の前哨戦である、杭瀬川の戦いでは、島左近が500の兵で出撃し、東軍の勢いを若干削ぐことに成功しています。戦の上手ぶりを見せ付けてくれました。
本戦でも、激闘を続けます。
しかしながら最善を尽くすも、戦闘の最中、島左近は銃で打たれ亡くなります。御年61歳です。
(生存説など諸説あり)
と、ざっとまとめますと、前半は筒井家の元良い働きをし、後半は石田三成のもと、関ヶ原の戦いという、日本中が参加した戦いのキャスティングボードを描いた人生だったって言うことが言えるでしょう。
家紋「丸に三つ柏」とは?
一方、家紋の「丸に三つ柏」ってどういう由来と意味を持つのでしょう?
丸に三つ柏の由来は?
柏(かしわ)というのはブナ科の木の名前です。
神様にお供え物をする時、柏の葉に食材を盛ったり、食材を炊くのに使用していたことから神事に繋がります。
また神社の参拝の際、柏手(かしわで)といって、手と手をたたく儀式がありますが、この柏から来ています。
要するに、神様に関わる家がこの家紋を使っていたのです。
柏の木の特性
柏の木というのは、翌年に新芽が出るまで古い葉っぱが落ちないようにできています。
ということは、それを人間に例えると、次の代まで切れない!というように捉えることもできます。
これは縁起がよい!
ということで縁起物として、家紋が使用された経緯があるってことです。。
うんうん!
それでは最後、島左近と家紋との関係性を見てみましょう!
島左近と「丸に三つ柏」との関係性は?
島家を遡ると、藤原氏にたどり着くようです。
藤原氏といえば、平安時代、天皇をとりまく朝廷の中枢を抑えていたかなりの実力者たちです。
様々な公家を生み出しました。
そして江戸時代までその影響力が続きます。
ということは必然的に神様や天皇のことを補佐する一グループ!このあたりの血を島左近はひきついでおるようです。
また、本家ではなく分家だったといえます。
なぜかといいますと、家紋が丸で囲まれていますが、この丸で囲まれているのが分家を意味するものです。
途中、藤原氏の子孫が分れ、大和の国に流れ着き、そこから戦国時代まで受け継がれてきたのでしょう。
軍事能力に長けた島左近は、縁起物の柏の家紋の元、出来上がっていったのでした!
※三つ柏の紋章が施された拵。(島左近とは関係ありません。)
まとめ
島左近の家紋「丸に三つ柏」について意味や由来を見てまいりました。
神事を扱う藤原氏からの流れで、どこかで分家し、それが大和の国に住みついた島家に繋がっていったって言うことになるのですね。
公家から武将になる。時代の流れは面白い!
さらに島左近の娘は剣豪で有名な柳生家に嫁ぎ、柳生家最強とも言われる「柳生連也斎」を産むのですが、武士から剣豪へと流れていく様子もワクワクします!
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