※少しネタバレになるかも?
※予想の部分もあるので、興味のある方はご覧ください。
篤姫と西郷隆盛が掛け落ち!?
それってどういうことなのでしょう?
身分が違いすぎる二人が?ありえないでしょう?ロミオとジュリエット?!
史実にも原作にも全くもってない物語です。
実はこれ、大河ドラマ「西郷どん」で出てくるシーンの一つ、十三代将軍家定(又吉)に嫁ぐ前の篤姫(北川景子)の揺れる心を描いたオリジナルシーンのなのです。
脚本の中園ミホさんの意志が感じられます。
もう少し詳しく見てみましょう。
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駆け落ちの真相
西郷が薩摩藩島津斉彬のお世話役として江戸の薩摩藩邸に勤めることになった頃の話です。
そこには徳川将軍に嫁ぐ前で色々と悩める島津のお姫様、篤姫がいました。
この若い二人はぐんぐんと親交を深めていくのです。恋に発展しちゃいそう?!
そんな折、安政の地震がおこり、西郷は篤姫の安否を確認のため駆けつけます。
余震の最中、西郷は篤姫の無事を確認することが出来ます。ほっとするもつかの間、大きな余震が二人を襲います。
咄嗟の判断で、西郷が篤姫を瓦礫から守るために覆いかぶさります。
一気に距離を縮まりましたね!
そしてその至近距離お互いがはなった言葉、
篤姫は
西郷一緒に逃げよう!
このまま私を連れ去って欲しい!
その言葉に対して、男西郷は
わかいもした!
引用:NHK
と返します。
くーーー!
しびれますね!
ドキドキしてしまいます!
実際はドラマの中でも駆け落ちは実現しないようなのですが、身分の違う二人が、
イレギュラーな状況の中、二人だけの世界の中本音が出て、一気に距離が縮まる。
さすが中園ミホさんの脚本。
胸キュンの場面です。
鈴木亮平さんと北川景子さんの演技にも期待したいです!
これは楽しみですね!
そんな篤姫と西郷隆盛ですが、実際はどんな関係があったのでしょうか?
そもそも篤姫って誰?っていう人のために、ザックリご紹介しますね。
篤姫って?
引用:Wikipedia
篤姫は、幕末から明治初期の激動の時代を生き抜いた女性です。
薩摩島津家の一門の娘として生を受け、島津本家斉彬の養女となり、更に五摂家筆頭近衛家の養女となります(19歳の頃)
これは徳川将軍と婚姻を結ぶための作戦です。身分をアゲアゲ作戦ですね。
そして22歳の頃、徳川13代将軍家定の御台所(正室)になります。
しかし、24歳の頃、夫の将軍家定、養父斉彬が相次いで亡くなります。
大奥にいる必要性が無くなった篤姫ですが、薩摩には帰らず、江戸で生きることを選択します。
とても美しい御方で、さらに元武家の娘らしく大奥の中を生き抜き、
後年は徳川家の一員として、江戸城の無血開城に尽力し、徳川家存亡の危機を乗り越えた強き人物です。
徳川幕府が滅び、明治維新になった折には、大奥で働く多くの人の就職、縁組の斡旋を行ったといい、
49歳で波乱の生涯を閉じます。
ザックリ篤姫の事は知っていただけましたでしょうか?
それでは西郷との関係性を見てみましょう
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西郷隆盛との関係は?
実際の所、西郷隆盛と接点があったのは
大きく二つありました。
篤姫が家定と結婚をした時と、
もう一つは戊辰戦争の中、江戸城無血開城を実現した時です。
見てみましょう。
篤姫と第13代将軍家定の婚儀
これは、篤姫が家定との結婚のため、江戸に入った頃の話です。
渋谷の薩摩藩邸から江戸城までの輿入れは、先頭が江戸城内に到着しても最後尾は依然と薩摩藩邸にいたというくらいの大行列だったといいます。相当お金をかけた薩摩の威信にかけた大婚儀だったのです。
しかしこの裏にはドラマがありました。
婚礼の一年前、安政の地震が起き、婚礼家具がことごとく破壊されてしまいます。
そこで、婚儀の準備担当を任されたのが西郷隆盛だったようです。
3年かけて準備したものを1年で準備しなければならないという難題に西郷隆盛は何とかやってのけます。
ここで無理難題をやり遂げたのも、もちろん仕事として責任もってやったのもあるでしょうが、篤姫へのあこがれみたいなものも少なからずあったのだと思います。
ドラマでは、この地震の際に冒頭で述べた「駆け落ち未遂事件」が起こっていますし、原作でも、西郷隆盛が
初めて女の人を女の人として意識したのが篤姫だったと描いています。
目が大きく、八重歯が特徴的な大柄な美人だったといいますが、西郷隆盛に女の人の魅力を目覚めさせたということからいくと、篤姫の西郷隆盛への影響は大きいですね!
江戸城無血開城
西郷隆盛に女の人への憧れを目覚めさせた篤姫でしたが、次の西郷との接点は江戸城無血開城前夜でしょう。
江戸城無血開城とは、文字通り徳川幕府の本拠地である江戸城を戦火に巻き込むこと無く、交渉により、幕府が新政府軍に江戸城を引き渡した歴史上の出来事のことです。
その頃の二人の立場を見てみましょう。
当時、篤姫は徳川家の大奥にいて徳川家を存続させようとする立場にいました。
一方西郷は、新政府軍の中でも、徳川幕府許せん!徳川家を断絶する!との強硬論の立場にいました。
徳川幕府は滅亡しても、徳川家はなんとしてでも救おうとした篤姫は、
敵方にいる西郷に対して使者を送り徳川家存続の嘆願書を渡すのです。
西郷頼む
おいのようなもんに手紙をすいもはん
そしてその嘆願書の内容はザックリこのようだったのです。
「当人(慶喜)はどのような天罰を受けてもそれは仕方のないことですが、徳川家そのものはとても大切な家柄であり、とにかく徳川家安堵のことを朝廷に頼んでもらいたいと思います。私は徳川家に嫁いだ以上、当家(徳川家)の士となるのは勿論のことでありますが、温恭院(徳川家定)がすでに他界されているので、いまは亡き夫に替わって当家の安全をただ祈るばかりです。しかし、自分の存命中に当家にもしものことがあれば、あの世で全く面目が立たず、そのことを思うと
不安で日夜寝食も充分に取れず悲しんでおります」
というような篤姫の徳川家への想いが詰まった内容でした。
その嘆願書を読んだ西郷はその内容を甘んじて受け入れます。
おおっ!凄い。相当意志が硬そうだったのに!
篤姫の影響力は最強ですね!
西郷としても、かつての憧れのお姫様がこうまでもお願いしているのを無下に断れなかったのでしょう。
しかも薩摩藩は武士の国。身分の上下は厳しいお国でもありました。
あれだけ徳川家を生かしていては災いの元になるといっていた西郷が、受け入れるのも自然の流れなのかも?。
自分の意見を貫き通すことで生きてきた男でしたが、信頼する人物からのお願いを断れない篤い人情派です。
結果、江戸は戦火に巻き込まれること無く、首都機能を江戸時代からそのまま引き継ぐことが出来たのは明治維新としては、とても重要なことでした。篤姫と西郷のこのやりとりがなければ、明治維新スタートも復興から始まることになり、大幅に世界から遅れを取ってしまったことでしょう。
そう考えると歴史的にとてもナイスな交渉だったといえるでしょう!!
篤姫&西郷、グッジョブ!!
その後の篤姫
江戸城が開城の前に大奥から解放された篤姫は、その後は自由気ままに過ごしたようです。(良かったですね)
そして、大奥で働いていた人達の就職や縁談の斡旋を積極的に行っていきました。(人のために生きれる人です』
最期は脳溢血で、徳川宗家邸で亡くなります。
葬儀には一万人の人が集まったということです。相当慕われていたのですね!
死亡したときには所持金は3円(現在の6万円)程しかなかったといいます。
やはり薩摩出身のお人は、お金より、地位より、大事なものを持っちょ!(薩摩ことば風で)
最後に
二人の身分の違う者同士、で薩摩に生きるものと徳川に生きるものと、相違点は結構ありました。
西郷隆盛は篤姫に憧れが強かったのでしょう。なんせ初めて女の人を意識した人ですから。
初恋といっても良いのではないでしょうか?
そんな人にお願いされたら、そりゃ断れませんね。
篤姫の影響力によって、江戸が、ひいては日本が救われたといっても過言では無いでしょう!
ありがとうございます。篤姫様!