「薩長同盟」とはいったいどのような同盟なのでしょうか?
一言でいえば文字通り、「薩摩藩」と「長州藩」との「同盟」で、
目的は、「薩摩と長州が手を組み、幕府を倒し、新しい日本を創るため」です。
この同盟がなければ、明治維新もまた変わったものになっていたかもしれません。
教科書にも出てくるので、同盟を結んだ、「薩摩藩代表西郷隆盛」と「長州藩代表木戸孝允」
をご存知の方は多いと思いますし、
「坂本龍馬」がその成立に関わっていたということも知っている方も多いと思います。
しかし、その同盟が成立するまでに様々な困難、ドラマがあったことを知っておられる方は少ないのではないでしょうか?
様々なプライド、思惑、希望、そんな人間臭い物語がいっぱい詰まったこの一大ドラマ「薩長同盟」。
これを西郷隆盛側の視点から、私なりに、分りやすく、面白く解説していきますので、是非楽しみながら読んでもらえればと思います。
まずは重要な事柄を記載した年表をご覧ください。
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薩長同盟までの流れ年表(主語は西郷隆盛)
年号 | 出来事 | 薩摩と長州の仲 |
1863年 | 八月十八日の政変 | ✗✗ |
1864年 | 沖永良部島から鹿児島に戻る | ✗ |
薩摩藩の軍賦役兼諸藩応接係に任命される | △ | |
池田屋事件 | ✗ | |
禁門の変 | ✗✗✗✗ | |
第一次長州征伐令 | ✗✗✗✗ | |
勝海舟と会談。 | ✗ | |
長州藩の三家老の切腹を申し入れる | ✗✗ | |
中岡慎太郎、高杉晋作と会談 | ✗△ | |
征長軍を解散する | △ | |
1865年 | 坂本龍馬、小松帯刀とともに鹿児島へ向けて京都を出発 | △ |
鹿児島に到着 | △ | |
中岡慎太郎と会い、下関で木戸孝允(桂小五郎)と会談することを約束する | △ | |
木戸孝允(桂小五郎)との会談をスルーする | ✗✗ | |
坂本龍馬と会い、薩摩藩の名義で、長州藩の武器を購入することを許諾する | △◯ | |
1866年 | 薩長同盟成立 | ◯ |
この頃の日本の政治はとにかく複雑です。
ここでは、薩摩と長州との関係を軸に、
順を追って年表に沿いながら一つ一つ出来事を簡単に説明して行きます。
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八月十八日の政変
一言で言うと、「尊王攘夷派長州藩の没落の始まり」、「公武合体派薩摩藩の影響力の向上」が結果起きた出来事です。
(西郷隆盛は、まだこの頃島にいますが、背景を説明するのに必要なので解説させていただきます。)
尊王攘夷派
この頃の日本の中心京都では尊王攘夷派が権力を握り、活動を繰り広げていました。
(尊皇攘夷とは、天皇中心で外国勢力を排除する政治の考え方)
中心メンバーは、
公卿チーム | 三条実美、三条西季知など7人プラス中山忠光 |
長州藩チーム | 久坂玄瑞 |
久留米藩チーム | 真木和泉 |
天誅組チーム | 吉村寅太郎、藤本鉄石、松本奎堂たち |
活動の目的は?
孝明天皇による攘夷親征(外国勢力を排除し、天皇による支配) |
倒幕も視野に入れる |
その性格は?
急進的で過激 |
そのあまりにも急ぎすぎ、過激な活動だったため、まつりあげられた孝明天皇自身が否定的でした。
それよりも、もっと現実的なもう一方の考え方(公武合体派)の方を天皇は支持しました。
公武合体派
尊王攘夷派に対する公武合体派は尊王攘夷派を追い払うクーデターを計画します。
(公武合体とは天皇(公)と幕府(武)が一緒になって政治を行っていく考え方)
中心メンバーは?
藩チーム | 会津藩、薩摩藩 |
公卿チーム | 中川宮朝彦親王など |
クーデターの目的は?
尊王攘夷派を追い払う |
尊皇攘夷公卿の外出禁止 |
天皇による攘夷親征の中止 |
長州藩の堺町御門の警備解任 |
公武合体派は孝明天皇を説得し承諾を得、上記の目的が決定します。
結果は?
天誅組は討伐される |
7人の公卿は長州へ落ちのびる |
長州藩兵は京都から追放される |
こうして薩摩藩は長州藩を京都から排除します。関係は最悪です。
薩摩藩はもっと中央の政治に影響力を持ちたいと考えます。
その為、中央に太いパイプを持ち信頼関係がある西郷隆盛を必要と考え、
島流しの刑にあった西郷を呼び戻します。
沖永良部島から鹿児島に戻る
薩摩藩主忠義の父久光により、島流しにあっていた西郷隆盛。
薩摩藩士たちの熱いラブコールにより、遂に久光の承諾を得、忠義により罪が解かれ、
鹿児島に戻ることが出来ました。
薩長同盟の一方の主役が表舞台に戻ってきました!
薩摩藩の軍賦役兼諸藩応接係に任命される
一言で言えば、京都での薩摩藩の実質的な責任者になったということです。
目的は?
薩摩藩の政治への干渉を控える |
薩摩藩の世論を回復させる |
長州藩との関係を回復 |
長州藩とも上手くやっていきたい思いはありました。
池田屋事件
薩摩藩としては長州と上手くやりたいのですが、尊王攘夷派長州藩と薩摩藩も属する公武合体派会津藩の間に争いが起こります。
薩摩藩は直接関わっていないので、簡単に触れておきます。
一言で言うと、公武合体派の会津藩と尊王攘夷派の長州藩の戦いで、この戦いは公武合体派会津藩が勝利します。
もう少し詳しく言いますと、
尊王攘夷派の
「京都御所に放火して、
中川宮(公武合体派公卿)や、会津藩藩主松平容保(公武合体派)を襲撃し、
孝明天皇を長州へ連れ去る」計画
が、京都を警備していた会津藩預の新撰組にバレ、
その新撰組により、
旅館池田屋で謀議していた
多数の尊皇攘夷派志士が
殺害、捕縛
された事件のことです。
その後の顛末を説明すると、
多数の藩士を殺された長州藩の尊王攘夷派が激昂し藩論を支配。京都へ挙兵します。
薩摩藩も出兵の命が下ったけれど、あくまで会津藩と長州藩との戦いと考えて断っています。
禁門の変
禁門の変とは?
一言で言うと、
「長州藩と公武合体派(孝明天皇、朝廷、幕府、会津藩、薩摩藩)が天皇や公卿がいる京都御所ではじめた戦いで、公武合体派が完全に勝利」した戦いのことです。
薩摩藩は、蛤御門と堺町御門の戦いで参戦。長州軍を蹴散らします。
その戦闘の際、西郷隆盛は足を銃弾で負傷するほどの奮戦ぶりをみせます。
これにより薩摩と長州の仲は本当に最悪の状態になります。
長州では「薩賊会奸」と四字熟語が出来、それを靴に書き、憎しみ込めて踏んでいたといいます、、、、。
第一次長州征伐令
長州は京都御所で戦争を起こしたので完全に朝廷の敵となります。
幕府より長州征伐(征長令)が発令され、西郷隆盛はその参謀に任命されます。
当時の西郷隆盛の心境をご紹介します。
長州藩は何を企むかわからないので、早く征伐すべし |
外国から軍艦を借りて征伐に使ってはどうか? |
長州藩を東国の小領土に国替えさせて勢力を削ごう! |
このように長州藩征伐に対してかなり積極的でした。
長州と上手くやりたい気持ちはどこかにいってしまったようです。
勝海舟と会談。
西郷の長州征伐の積極性は、なかなか征伐のGOを出さない幕府への不信感により
しぼんでいきます。
そんな折、西郷隆盛は勝海舟に会い、幕府の腐敗ぶりを知ることにより長州征伐への考えを変えていくことになるのです。
当時の西郷隆盛の心境をご紹介します。
なかなか征伐に動かない幕府に失望 |
幕府内部の勢力争いについて聴き、腐敗した現状を知る |
雄藩と将軍が力を合わせて新しい国家を創るべきではないか? |
長州征伐に積極的な考えになってから2ヶ月ほど。一転して消極的になりました。
そして西郷隆盛は、長州からの幕府軍の撤退を考えます。
戦争回避。禁門の変の責任者長州藩家老3名処罰
ここにきて西郷の考えとは裏腹に、
幕府軍はようやく長州への攻撃を決定します。
しかし幕府軍の撤退を考える西郷は、
幕府責任者徳川慶勝に長州藩の恭順策を進言し
そして承諾を得ることに成功します。
そして長州藩3家老達の処罰を条件に
攻撃を猶予すると長州藩に伝え、
それが受け入れられ、戦いは回避されるのです。
幕府と長州藩との交渉
幕府総責任者 | 徳川慶勝 |
幕府側参謀 | 西郷隆盛 |
幕府交渉目的 | 長州藩への攻撃の猶予 |
幕府交渉条件 | 長州藩3家老の処刑 |
結果 | 長州征伐の一時中止 |
ここで多くの無駄な死者を出さずに済んだのは、西郷の大きな成果でした。
幕府軍撤兵の条件
さらに、西郷隆盛が参謀を務める幕府軍が長州から撤兵する条件として長州に3つ伝えます。
1,毛利親子の自筆謝罪状の提出 |
2,山口城の破却 |
3,五卿の引き渡し |
1と2はスムーズにすすみました。
しかし、3は反対勢力が多く交渉が難航しました。
その為西郷隆盛は交渉に動きます。
中岡慎太郎、高杉晋作と会談
まずは小倉で土佐脱藩藩士中岡慎太郎と会談
結果?
中岡ははじめ西郷を殺害するつもりだった |
西郷の思想に共感し、反対勢力への説得を約束する |
その後、長州藩士高杉晋作と下関で会談
結果は?
五卿を下関から筑前に移すという妥協案で同意 |
3つの条件を満たし、征長軍は完全解散となるのです。
人の維持とかプライドとか、上手く話し合えばまとまるもんですね!
坂本龍馬、小松帯刀とともに鹿児島へ向けて京都を出発
長州征伐軍は解散しました。
西郷隆盛の考えは、この頃、幕府を中心とする社会という考えは完全になさそうです。
それに基づき、
西郷、坂本、小松の三人が鹿児島にいった理由は、一言で言えば、「長州征伐の反対、拒否」の考えに薩摩藩として方針をまとめることでした。
そして成功します。
西郷隆盛は、大番頭という役職に任命されることとなります。
ここで、少し坂本龍馬と西郷隆盛、小松帯刀の関係について話しておきたいと思います。
坂本龍馬と西郷隆盛との出会い
1864年8月に勝海舟が西郷隆盛と坂本龍馬を引き合わせたと言われています。
その時の坂本龍馬が西郷隆盛をこのように評していますのでご紹介します。
「西郷というのは分からぬやつだ。釣り鐘に例えると、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きなバカで、利口なら大きな利口だろう。その鐘を突く撞木(龍馬自身)が小さかったのが残念だ」と。 |
西郷隆盛が坂本龍馬を持ってしても相当懐の深い、得体の知れない人物に見えたことがよくわかります。
神戸海軍操練所閉鎖後の薩摩藩の受け入れ
(神戸海軍操練所とは、幕府の海軍士養成機関のこと)
(勝海舟は幕府の軍艦奉行で、神戸海軍操練所の頭取)
(閉鎖の理由は過激な尊王攘夷派の長州側について行動をしたものが塾生に多くいたため)
(小松帯刀は薩摩藩の家老)
神戸海軍操練所の塾頭坂本龍馬と塾生たちは閉鎖に伴い路頭に迷うことになります。
勝海舟は、小松帯刀に塾生の保護を頼み込み、成功します。
その受け入れ先は?
坂本龍馬 | 薩摩藩の大阪屋敷 |
その他塾生三〇名 | 薩摩海軍 |
と薩摩藩との結びつきが強くなっていくのです。
西郷夫妻と坂本龍馬
西郷宅に泊まった坂本龍馬は、雨漏りで寝付けなかった。
西郷の妻糸は、「お客様に申し訳ないので屋根を修理しましょう。」という。
西郷は、「今は国中の家が雨漏りをしているのだから、うちだけ直すわけにはいかない」という。
坂本はその志に感激したと言います。
素晴らしい!
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中岡慎太郎と会い、下関で木戸孝允(桂小五郎)と会談することを約束する
西郷隆盛はこの頃になると、すでに「幕府の滅亡は近い」と思うようになってきていました。
雄藩の力を結集し、倒幕することを考えていた土佐脱藩士中岡慎太郎のススメで、
遂に西郷隆盛は、長州藩木戸孝允と会談をすることを約束します。
(木戸孝允の方は、木戸と同門、神道無念流の渡辺をつてに、坂本龍馬が説得しました)
長州と薩摩の関係は、かなり近い所まで来ています。
木戸孝允との会談をスルーする
しかしながら歴史はやすやすと動いてはくれません。
直前まで木戸孝允との会談場所、下関へ胡蝶丸で中岡と共に向かっていましたが、
なんということか、下関をやり過ごし、中岡を船から降ろし、京都へ向かってしまうのです。
なんてことでしょうか?
理由はこうです。
会談をスルーした理由
1,京にいた薩摩藩士、大久保利通から急を知らせる書簡を受け取った。 |
2,内容は、幕府が朝廷に対して、長州征伐を容認するように働きかけているという |
3,なんとしても長州征伐の容認は阻止しなければならない。 |
4,結果的に、木戸との約束よりも、長州征伐の中止させることを優先させた。 |
事情はどうあれ、木戸孝允は会談の約束を反故にされたことには代わりありません。
これには木戸孝允も怒り爆発!
それはそうですよね。許せませんよね。
薩長は和解し、同盟を結ぶことなど出来るのでしょうか?
坂本龍馬と会い、薩摩藩の名義で、長州藩の武器を購入することを許諾する
坂本龍馬と中岡慎太郎は必死に怒り狂う木戸孝允をなだめました。
そのかいあって、ようやく怒りはおさめました。
次に、再度会談をするにあたって、木戸は条件を薩摩に対して出します。
木戸孝允(桂小五郎)が出した薩長和解の条件
内容 | 目的 |
1,薩摩藩側から使者を出して和解を申し込む形を取る。 | 八月十八日の政変以来、薩摩にはたびたび煮え湯を飲まされており、長州から和解を持ちかけてはメンツが立たない。 |
2,薩摩の名義で外国商人と武器の取引を出来るようにする | 長州は朝敵となっており、外国の商人と取引することが出来ず、武器の調達方法に困っていた。 |
この条件をもって坂本龍馬は西郷隆盛と会います。
ここで、2の条件について、坂本龍馬が率いる商社「亀山社中」が活躍します。
どのように活躍したのでしょう?
亀山社中の役割
1,亀山社中が薩摩藩の名義でイギリスのグラバー商会と取引を行う |
2,そこで、銃や、軍艦などの武器を購入する。 |
3,これらを密かに踏襲に納入する |
薩摩藩と長州藩の間に亀山社中が入ることで、取引がうまれ、徐々に長州の薩摩に対する感情は和らいでいきます。
良かったですね。
亀山社中が長州に流した取引実績
ミニエー銃 | 4300挺 |
ゲベール銃 | 3000挺 |
軍艦ユニオン号 | 1隻 |
西郷隆盛使者を送る
そして、頃合いを見て、1番目の条件、薩摩側から長州に使者を送り、
コレを持って、再び薩長の会談が組まれることとなります。
紆余曲折ですね。
薩長同盟
遂に薩長同盟実現です。
まとめてみましょう。
場所 | 京都二本松薩摩藩邸→最終日小松帯刀邸 |
日時 | 1月8日~22日 |
薩摩側参加者 | 西郷隆盛、小松帯刀、大久保利通、桂久武、吉井友美、奈良原繁 |
長州側参加者 | 木戸孝允(桂小五郎)、品川弥二郎、三好重臣 |
会談流れ | |
8日~19日 | 薩摩藩は連日酒宴を開き、長州側を丁重にもてなした。しかし、メンツが邪魔し、どちらからも和解案を切り出さなかった。 木戸に至っては嫌気が差し、帰国を考えるほどだった。 |
20日 | 坂本龍馬到着。 進展していない状況を目の当たりにする。 坂本龍馬は、木戸に対して「私情を挟まず待って欲しい」といい、 西郷に対して「薩摩側から和解を持ちかける」よう頼んだ。 ※この部分かなり重要!それぞれの武士としての誇り、日本を考えるおおきな志、などを本当にひしひしと感じる事が出来ます。 表の下にそのやりとりを載せておりますので見てみてくださいね |
22日 | 場所を小松帯刀邸に移す。 坂本龍馬を立会人として、西郷隆盛、小松帯刀の薩摩と木戸孝允の長州との間に6か条からなる薩長同盟が締結される |
桂、西郷、龍馬のやりとり(超重要)

あっしは、長州藩や薩摩藩のためだけに、こんだけの努力をしたわけじゃないぜよ。まっこと、日本全体のことを考えて、中岡も土方も苦労してきたんじゃ。桂さんはわざわざ京まで来ておきながら、同盟の話を切り出さんとはどういうことぜよ

そうは言うが、現在孤立している長州から薩摩に同盟の話を持ち出せば、それは薩摩に助けを請うようで、到底武士としてそれは出来ん。確かに、この同盟が成らざれば、長州藩は滅亡するじゃろう。しかし、それでも構わん。長州藩が滅亡に追いこまれても、薩摩藩がその後をしっかり継いで、日本のために尽くしてくれるならば、それで本望である
この桂の話を受けて、龍馬は西郷に話します。

西郷さん、桂はあっしにこう言いよりました。長州藩滅亡すれども、薩摩がその後を継いでくれれば本望であると。桂もこれだけ日本のことを考えとるがぜよ。西郷さん、ここは互いの面子を捨てて、薩摩藩から長州藩に同盟を申し込んでくれんか。長州藩や薩摩藩のためだけに頼むのではない、日本の将来を考えてのことです

坂本さん、おいが間違っていもした。薩摩の方から同盟を切り出しもんそ
こんな男たちのプライドをぶち壊して志で語った一幕がありました!
引用:Wikipedia
薩長同盟6か条
薩長同盟の内容を載せておきますね。
1,戦いとなった時は、直ちに薩摩は2000余人の兵を上京させ、大阪にも1000人程度配置して京都大阪を固めること |
1,戦いで長州の勝利が近づいたら、薩摩は朝廷に働きかけて長州の名誉回復のために尽力すること |
1,万一に長州の敗色が濃くなっても一年や半年で壊滅することはないので、その間に薩摩は援護に尽力すること |
1,幕府の兵が引き上げたときには、薩摩は到底に働きかけて長州の冤罪をはらすために尽力すること |
1,一橋、会津、桑名らの兵が朝廷を利用して薩摩の妨害をするようなら、薩摩も決戦に及ぶこと |
1,長州の冤罪が許されたら、薩長両藩は誠意を持って力を合わせ、国家のため天皇の威光回復のために誠心誠意尽力すること |
まとめ
薩長同盟を語るには、本当に一筋縄ではいかないと感じました。
本当にいろんな考え、思想が入り乱れ、人間の醜いところだったり、はたまた理想を掲げるような前向きな姿勢だったり、弱さだったりと、もう本当に様々人間ドラマを魅せつけてくれました。
私達は、この祖先が残してくださった偉大な経験から学び、私達の人生に活かしていければいいなと思います。
長文お付き合い頂きありがとうございました。
なにか、少しでもお役に立てあり、楽しんでいただけたならば幸いです。
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