有馬新七」をご存知でしょうか?

薩摩藩の文武両道の秀才で先生、そして寺田屋で壮絶な死を遂げた幕末に生きた志士です!

 

大河ドラマ「西郷どん」では増田修一郎さんが演じています!

 

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今回は、有馬新七がどれだけ文武両道だったのか?

そして、寺田屋で壮絶な死を迎える瞬間とは?

これらの疑問を紐解いて見たいと思います!

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有馬新七基本情報

1825年12月13日薩摩国日置郡伊集院郷に産まれる
1827年有馬家の養子になり鹿児島城下、加治屋町へ移住(3歳)その後叔父六郎から神影流を伝授される
1838年元服。尊皇攘夷の教科書「靖献遺言」を研究し、崎門学派の学を修める(14歳)
 1843年 江戸にて崎門学を儒学者の門下に入りさらに学ぶ(20歳)
 1857年 薩摩藩邸学問教授に就任(33歳)
1860年伊集院郷石谷村を統治する(36歳)
 1861年 造士館訓導士に昇進(37歳)
 1862年5月21日 寺田屋事件で死亡(38歳)

この年表から文武両道、そして寺田屋での事件が見えます。

まずは「」から見ていきましょう!

剣の達人坂木六郎より剣術を伝授される

坂木六郎は、有馬新七の父坂木四郎兵衛と兄弟。

そんな親戚関係もあって坂木六郎に有馬新七は剣術を伝授されることになったのです。

坂木六郎は19歳の時、江戸の神陰流長沼亮郷の門下に入り、わずか5年で免許皆伝を得て、薩摩藩の学校である造士館の先生に就任しています。

そう、剣の達人で剣の先生ですね。

有馬新七の剣の流派について

 

ここで少し脱線して有馬が学んだ剣術について触れておきましょう。

有馬が最終的に学んだ流派としては「直心影流」です。
「えっ!神陰流じゃないの?」
と思われたかも?
元をたどれば鹿島の神陰流にあるようなのです。
※「影」と「陰」の違いはあまり意味なくどちらとも使うようです。
神から剣術を授かった「松本備前守」が始めたのが「神陰流」。
それを一部引き継いだのが剣聖「上泉信綱」で、彼が始めたのが「新陰流」です。
ここでなぜ「神」が「新」に変わった理由は、上泉が「神」という言葉を使うのが畏れ多く感じたからと言われています。
そのあと弟子の「奥山公重」に奥山流として伝わり、江戸初期には「小笠原長治」に伝わりさらに「山田光徳」に伝わったといいます。
この山田光徳が直心影流の開祖です。
※直→それ、じきに。心→神。を意味するそうです。直訳で「じきに神陰流」?ということで神陰流の流れを組む証だということです。
さらに山田から長沼家に伝わり、その長沼家の子孫の長沼亮郷が江戸で道場を開いていた時の弟子だったのが有馬が師事した叔父の「坂木六郎」です。
坂木六郎の兄弟の四郎兵衛から生まれたのが有馬新七というわけで、剣の筋は坂木の血が脈々と流れていたのでしょう。

有馬新七は、そんな剣の達人、先生から教えを受けていました。

有馬は、自分のものにしてしまい、同じように剣の達人になり、そして先生になるのです。

素直で真面目な性格だったのですね!

 

それでは、「」はどうだったでしょうか?

「靖献遺言(せいけんいげん)」を研究し、朱子学を修める

なにやら難しい言葉がでてきましたね。

靖献遺言とは、簡単に言うと、「尊皇攘夷志士の朱子学の教科書」です。

(三国志で有名な、蜀の国の劉備玄徳にすべてを捧げた諸葛亮孔明も登場します)

※尊皇攘夷とは、君主を尊び、外敵を斥けようとする思想の事

朱子学とは、儒教(徳が支配する世界を一番とする教え)から派生した学問。秩序を重んじる学問です

 

何が書かれていたかというと、ザックリいえば、

自然や万物に上下関係があるように、人間社会にも上下関係はある。礼をわきまえ、主君に仕えるべき。という思想の事」が書かれていました。

 

ここでいう主君とは「天皇」のことですね!

 

とにかくベストセラーになったこの本は、吉田松陰をはじめ、たくさんの日本人に読まれました。

この本を勉強し、どんどん知識をつけていきました。

その学問の吸収力はスポンジのよう。

その後、朱子学者、山口管山に学び、知識を深めていきます。

その知識を薩摩藩の学校にて教師として伝えていく様になります。

自分が身につけるのも上手ですが、教えるのも上手だったようです。

 

また、有馬が詠んだ憂国の詩文は、孝明天皇も「乙夜の覧(いつやのらん)」で読まれていたといいます。

天皇の心も揺さぶる有馬新七の詩文。

文も相当なものでしたね。

尊皇攘夷と尊王攘夷の違いについて

ここで少し紛らわしい「尊皇」と「尊王」の違いについて触れておきましょう。

「王」と「皇」の違いは何だろうというところですね。
中国でいえば君主が「王」ですが、日本でいえば天皇が「王」ですから、その天皇からとって「尊皇」と言っていたのですね。
中国本土では「王」、日本では「皇」、その違いですね。
※尊王攘夷は、中国の春秋時代に「周」という王朝がありその天子=「王」を尊び、外敵である「楚」の国を打ち払ったことが由来です。
その後この考えは「儒教」の一部として江戸時代、「水戸学」に取り入れられました。
水戸学とは、水戸黄門で知られ、徳川御三家の一つである徳川光圀がまとめていったのが水戸学です
光圀は「天皇」を尊びながら「幕府」を敬うという姿勢を用いました。
しかしアメリカなど列強が開国を迫ると「外敵を打ち払うべきだ!」と海防策を強く打ち出したのが当時の水戸徳川家の教育機関「弘道館」です。
ここに尊王の考え方と攘夷(外敵を打ち払う)を組み合わせた思想、日本版の「尊王攘夷」が生まれました。
開国の流れが強まると、今度は同じ儒教でも少し毛並みが違う「陽明学」が台頭してきます。
陽明学は簡単に言えば「志を遂げるためには行動をすべきだ!」という教えです。
これが革命思考を持つ幕末の志士たちの行動に拍車をかけ、一気に「尊王攘夷」という言葉が広まっていったのですね。

それでは最後、文武両道の才能をもった有馬新七が、寺田屋事件にて壮絶な最期を遂げてしまうのですが、、、。

実にもったいない!

もっと他にその類まれなる才能を生かせる道はなかったのだろうか?

と考えてしまいます、、、。

が、もう歴史を変えることは出来ません。

 

それでは秀才有馬新七の最期。ご紹介しましょう!

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寺田屋事件での壮絶な死!

まず寺田屋事件とは?

一言で言えば、「薩摩藩士粛清事件」です。

薩摩藩士が薩摩藩士を粛清するのです。同士討ちですね。

なんということでしょうね!

そんな悲しい出来事があったのですが、その中で有馬新七は巻き込まれ、そして尊い命を失うことになります。

背景

ここでは薩摩藩藩主の父で実質指導者の島津久光と有馬新七との関係を軸にご説明していきます。

1.「島津久光」は兵隊を率いて京都へ上洛。公武合体を促進。

当時、有馬新七が所属した薩摩藩実質指導者島津久光は公武合体朝廷の権威を幕府と結びつけ、幕藩体制を強化させる)を目指していました。

本心は、地方にいる自分が中央の日本の政治に関わり、発言力を強め、中心人物になりたかったんでしょう。

そんな個人的な野望のもと、公武合体は口実だったわけですが。

そして野望を達成するため、威圧も兼ねて軍隊を動員し上洛したわけです。

 

2.久光は尊皇攘夷派の希望の星。しかしかなりの勘違い発生

一方有馬新七はどうだったでしょう?

公武合体と対局に、尊皇攘夷という考え方がありました。

考え方としては「外国を排除し、天皇中心の国を創り上げる」って考えです。

そして基本路線は「倒幕」です。有馬新七は正にこの考え方をもって活動していました。

 

久光が兵を率いて上洛をするって聞いた尊皇攘夷派志士たちは、同じ「尊皇」の考えを持つ久光を希望の星的な感じで見ていました。

 

しかし、久光は「尊皇」では有りましたが、当時は「倒幕」ではなかったのです。(公武合体ですね)

 

ここが、決定的に有馬新七たち尊皇攘夷派と違うところでした。

かなりの致命的な勘違いが発生してしまったわけです。

 

このことは、久光が当時の天皇、孝明天皇から直に尊皇攘夷派志士たちの鎮圧を頼まれたことから決定的になります。(孝明天皇は事を穏便に進めたく、京都にいる過激に事を進めようとする尊王攘夷派志士たちを嫌っていました。)

有馬新七達尊皇攘夷派(精忠組)志士は裏切られた気分になります。

自分たちが奉じる天皇から、久光が自分たちを討つように命令を授かるなんて!

「そりゃないよ!」と。

自分の詩文を詠んでいただいた天皇だったのに、、、。

(ちなみに有馬新七が薩摩で所属していたグループは精忠組といいます。西郷隆盛や大久保利通がリーダーの尊皇攘夷派グループですが、有馬はその中でも過激派でした)

3.久光を説得するための計画

ちょっとやけ気味になった有馬達過激尊皇攘夷派はどうにかして久光に尊皇攘夷の考えになって倒幕へと蜂起してもらえるように考えます。

結果、有馬新七たちは、天皇の補佐役の公家である関白九条尚忠と、幕府の京都を守る役職である京都所司代酒井忠義襲撃し、二人の首を久光に奉じることで、無理やり久光に倒幕へ蜂起してもらうという考えがまとまります。

 

この時、襲撃計画前に、有馬達過激尊王攘夷派が集まったのが、寺田屋です。

 

ここまでが背景になります。

そして、この後悲劇が起こるのですが、更に話を進めていきますね。

 

寺田屋襲撃事件と有馬新七の最期

 

この計画を知った久光は、先ずは有馬たちの説得を試みます。

過激派の説得失敗

久光に有馬たちを説得するように選ばれたのが、同じ精忠組の、奈良原喜左衛門、有村俊齋

急ぎ薩摩藩邸に向かいます。

 

しかし、そこにいたのは有馬新七の上司永田佐一郎の切腹して果てた姿でした。

部下の有馬を説得できなかった責任を取ったのでした。

「ああ、、、、。」

その後、寺田屋に有馬たちが集合していることを知った久光は

さらに親しい精忠組のメンバー(奈良原喜八郎、道島五郎兵衛、大山綱良など8人)を寺田屋に鎮圧、説得、連れ戻しに向かわせます。

この時もし有馬たちが説得に応じない場合は「切り捨てても構わぬ」といい含めて、、、。

寺田屋での悲劇

ここからは、精忠組同志の悲しい切り合いの話になります。

同じ同士がどうしてこのように切合わなければならないのか?

悲しくてなりません。

説得側を「鎮撫使」、有馬達側を「過激派」と称します。

では、有馬新七の壮絶な最期。御覧ください。

 

●寺田屋に到着した奈良原喜八郎(鎮撫使)有馬に面会を申し込みます。

(かなり緊迫した状況です)

●2階から橋口伝蔵(過激派)に「有馬はいない」と居留守を伝えられます。

(そんな訳はない!更に殺気立っていきます)

●森岡と江夏(鎮撫使)が力づくで2階に上がろうとします

(早く計画を止めなければと、焦りです)

柴山愛次郎(過激派)が応対し1階で面談することにします

(とにかく柴山は話をすることに)

●ここで、有馬新七、橋口壮介、田中謙助(過激派)が一階におりてきて議論になる。

有馬が現れ議論が激化。しかし計画実行直前の有馬たちには、どんな説得も無意味。久光への裏切られた感情も高ぶっていました)

奈良原喜八郎(鎮撫使)はとにかく有馬を説得をします

(同士討ちは避けたいと、奈良原は懸命に有馬に説得を続けます)

●「君命に従わぬか!」と道島五郎兵衛(鎮撫使)が「上意!」と叫び、田中謙助(過激派)の頭を斬ります。

(遂に我慢できなくなった道島が剣を抜きます。一太刀必殺の薩摩の剣薬丸自顕流。壮絶な同士討ちが始まってしまいます)

山口(鎮撫使)が柴山愛次郎(過激派)を切り捨てます

(この気持の高ぶりを沈めるすべを、誰も持ち合わせていませんでした!)

有馬は、田中、山口(過激派)が斬られるのを見て、薬丸自顕流道島(鎮撫使)に斬りかかります。

(有馬も仲間が斬られて辛抱できず遂に剣を抜きます。神影流対薬丸自顕流。壮絶な斬り合いになります)

●その後、刀が折れてしまった有馬は、道島に掴みかかり組合、壁に押さえつけます。

(有馬は不利な状況を振り切るため、組み合うことを選択します。絶体絶命。でも仇を討つことを最優先にします)

●有馬は、近くにいた橋口吉之丞(過激派)に「オイごと刺せ!」と促します!

(とにかく最期の決断。仲間の仇と道連れ。とっさの選択肢でした)

●橋口は、言われるがまま、二人を串刺しにします

(両名は絶命したといいます。なんとも嘆かわしい、、。同郷の者同士。くっ。)

その後も同士討ちが続き、最終的には、奈良原喜八郎の体を張った説得が、ようやく通じて場を収めたのでした、、、。

しかしながら、有馬新七は、自分の思想を実現しないまま、しかも同じ考えを持つもの(温度差ややり方に差はあったものの)の手にかかりこの世を去ることになったのでした、、、。

まとめ

幕末に現れた薩摩の尊皇攘夷志士、有馬新七。

文武優れ、自分の理想の国家を追い求めた38年の生涯は、同志の手により葬り去られてしまいます。

しかし、この事件により久光の朝廷からの信頼度はうなぎのぼり。

そして、江戸に向かい幕藩体制の強化、要するに幕府の要職に雄藩の要人を就けることに成功し、久光の野望はある意味叶うことになるのです。

歴史とは皮肉ですね。