男二人が真冬の海の中に抱き合いながら入水自殺する。

そんな事普通じゃ考えられませんよね。

すべてが常識外です。

この背景には余程の事があったとしか思えません。

このあり得ない出来事はなぜ起きたのか?

今回はこの事実を解決したいと思います!

それでは見てみましょう。

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月照と西郷隆盛が真冬の海に入水自殺した理由とは?

結論から。

ズバリ一言

全てに絶望した!」のです!

おおっ。シンプル過ぎる。

そりゃそうだろうけど・・・。

そんな声が聞こえてきそうです。

 

そもそも月照とはどんな人?

西郷隆盛との関係は?

なぜ全てに絶望したのか?

 

など疑問があると思います。

順を追って見ていきましょう。

 

月照とは?

Gesho.jpg

引用:Wikipedia

これが月照(げっしょう)です。

ツキテラスってなかなか風流な名前です。

「眉目清秀、威容端厳にして、風采自ずから人の敬信をい惹く」と評されるように、立派な僧侶さんだったことが伺えます。

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大河ドラマ「西郷どん」では尾上菊之助さんが演じています。⬇

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それでは月照の生い立ちを簡単な年表でご紹介しますね

出来事
文化10(1813)年大阪の町医者の長男として産まれる
文政10(1827)年叔父の蔵海のつてで、京都清水寺成就院に入る(15歳)
天保6(1835)年病死した蔵海を継ぎ住職になる(23歳)
その後尊皇攘夷派、一橋派として行動する
嘉永(1853)年住職の座を弟・信海に譲り自らは勤王活動に専念する(41歳)
1853年~1857年この頃15歳年下の西郷隆盛と出会う
安政5(1858)年

7月

島津斉彬急死。西郷隆盛殉死を阻止する。
8月安政の大獄の影響で西郷隆盛とともに鹿児島に逃れる
12月西郷隆盛(31歳)と入水自殺する(46歳)

町医者の子供として産まれますが、親戚のつてでお寺に入り、住職として生活していきますが、

勤王活動に目覚め活動を移します。そして西郷隆盛と出会っていくわけです。

もう少し詳しく見てみましょう。

 

なぜ勤王活動に目覚めたか?

月照が住職を務めていた清水寺成就院は公家・近衛家の祈願寺であり、天皇家の支配下にありました。

よって必然的に月照は近衛家側の人間となりました。

当時の政治的背景

ここで少しだけ当時の政治的背景を見てみましょう。

当時の政治的問題の一位が家定の後の徳川将軍継承問題でした。

紀州藩主の徳川慶福を推挙する「南紀派」

水戸藩徳川斉昭の息子で一橋家の一橋慶喜を推挙する「一橋派」に分かれていました。

南紀派のリーダーは彦根藩主「井伊直弼」

一橋派リーダーは江戸老中「阿部正弘」

では西郷隆盛と月照はどっち派?

薩摩藩は一橋派でしたので、西郷隆盛も一橋派

月照が住職を務める成就院は近衛家の祈願寺

薩摩藩主斉興の娘が近衛家に嫁いでる関係で、成就院と薩摩藩は近い関係でした。

よって月照も一橋派になります。

西郷隆盛は京都で何をやっていた?月照との出会い

薩摩藩は一橋慶喜を将軍に推していました。

薩摩藩主斉彬の手足として、その工作実行部隊として西郷隆盛は動いていました。

その頃近衛家に出入りしていた15歳年上の月照と出会い、西郷隆盛は、月照の人柄に尊敬を覚え、慕うようになっていったのです。

一橋派リーダー阿部正弘の死去

南紀派と一橋派の争いは一橋派が若干リードしていましたが、リーダーの阿部正弘が死去するとパワーバランスが逆転します。

でもまだ望みはあるかもしれない。

老中堀田正睦の上洛と失脚

阿部の後の老中を引き継いだ堀田正睦は、一橋慶喜の将軍継承を孝明天皇の勅命を得るべく上洛します。

それだけならすんなり通ったかもしれないのですが、ちょうどタイミング悪いことにアメリカが幕府に開国を迫ってきていました。

堀田はその開国の許可も一緒に得ようとしてしまったのです。

孝明天皇は大の外国嫌い。当然開国の許可は得られず、将軍継承の許しも得られず堀田は失脚してしまいます。

完全に形成逆転です。

一橋派の敗北と井伊大老の誕生

これに乗じて井伊直弼は大老に就任し、天皇の勅命を得ないまま開国し、将軍を南紀派徳川慶福(家茂)と定めてしまいます。かなり強引ですが物事は一気にすすみました。

将軍継承問題に勝利した井伊直弼は敗北した一橋派を一気に粛清にかかります。

 

これが「安政の大獄」です。

いわゆる井伊直弼反対派排除運動です。

この事態に手を打つため薩摩藩主斉彬は出兵を計画します。

こうなったら武力で訴えるしかありません!

しかし物事はうまく行きません。斉彬が死去します、、、。

斉彬京都へ挙兵準備中死去

一橋派リーダーが不在の中、薩摩藩は一橋派の有力な大名でした。もう一回形勢逆転を狙った斉彬の挙兵計画は斉彬自身の死去により白紙になります。

最後の望みも絶たれた・・・。

幼いころから斉彬を尊敬し、この将軍継承問題ではその手足となって動いてきた西郷隆盛はあまりの悲しみに自ら生きる望みを失いました。

そしてなんと西郷隆盛は絶望し自害を選択します。

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自害しようとする西郷隆盛を月照が止める

とにかく月照は西郷隆盛が死ぬことを止めさせます。

斉彬の遺志を継ぐのはあなたしか居ない!

斉彬の志を実現させましょう!

と懸命に諭します。

なんとかかんとか自害を思いとどまらせます。

良かったあ。

 

西郷隆盛も熱いゆえに自分の行動が見境なくて危なっかしいっ。

井伊直弼の粛清から逃れ鹿児島へ

しかし遺志を継ぐと言っても完全に世の中の支配は井伊直弼の世界になっていました。

さらに悪いことに幕府の改革を迫る「戊午の密勅」が朝廷から直接一大名の一橋派水戸藩に下されたことで、大名を管轄する立場の幕府の総責任者井伊直弼は激怒!

一橋派への弾圧が強まっていきます。

西郷隆盛と月照も命を狙われる立場になってしまいます。

とりあえず急ぎ、二人は京都を離れ、鹿児島に退避することにしました。

鹿児島入り

鹿児島で二人はまず日高存竜院に身を隠すのですが、寺は自分たちに災難が降りかかることを恐れ、薩摩藩に所在を明かしてしまいます。

同じ僧侶同志じゃないか?売るなよおって言いたいです。

その後月照たちは薩摩藩御用宿である「俵屋」に身を移しますが、筑前藩の捕り方が薩摩に向かっているとの報告を受け、薩摩藩ではかくまえないと判断。

日向国への追放が決まります。

日向国への追放=永送り=斬り捨て

この日向国への追放は、薩摩との国境で斬り捨てる事を意味していました。

二人は自分の人生の終わりをひしひしと感じたことでしょう。

全てに絶望

月 朝月 綺麗 きれい キレイ 半月 背景 明るい月 日中の月 昼間の月 自然 クレーター

冒頭に申し上げた、入水自殺の理由。「全てに絶望した」はまさにこの時感じたことなのです。

舟で出発し、薩摩の国境を越えれば斬り捨てられる。

これは確定。

そう思い込んだ二人は、それならば海の中に身を沈めよう。と考えたのでした。

どんな心境だったでしょうね。

京都で政治闘争の最中、一緒に語り合い、行動し、そして今真冬の海の上にいる。

朝方ですからもしかしたらうっすらと月も出ていたのではないでしょうか?

冬ですから、空気も澄んで、月が照らしていたらなんか因果ですね。

二人抱き合いながら、海の中に沈んでいきます。

固く固く抱き合いながら・・・。

二人が最後に詠んだ和歌

西郷蘇生の家

同乗していた平野国臣によってなんとか引き上げられ、近くの農家で懸命に介抱します。

西郷隆盛は息を吹き返しますが、月照は帰らぬ人となります。

そんな二人が最後に詠んだ和歌が残されていました。

最後にこの和歌をご紹介しましょう。

二人の意志が詰まった和歌です。

そしてココに入水を決意した真の理由があったのかもしれません。

月照

大君の ためにはにか 惜しからむ 薩摩の瀬戸に 身は沈むとも

(天皇のためならこの身が薩摩の海に沈んでも惜しくはない)

西郷隆盛

二つなき 道にこの身を 捨て小舟 波立たばとて 風ふかばとて

(道のためなら波がたとうと風が吹こうとこの身を小舟同様捧げよう)

ふたりとも、自らの志のために入水したのでした。

最後に

二人の入水自殺を試みた理由は、自らの行く手に絶望したからでしたが、

一方で志はしっかりと持ち続けていました。

月照は帰らぬ人となりましたが、天に昇り、空から志が成就することを祈ったはずです。

二人の強い意志はやがて明治維新を成就させます。

さすが、成就院の住職さんですね!