桐野利秋(中村半次郎)をご存知ですか?
引用:Wikipedia
桐野利秋(中村半次郎)は西郷隆盛の最強のボディーガードでした。
※西郷隆盛とは、江戸幕府に終止符を打ち、明治維新を成し遂げた英雄です!
その他の桐野についてまとめるとこんな感じ!
桐野利秋(中村半次郎)とはこんな人!
●生きた時代は幕末から明治維新
●薩摩(鹿児島)に生まれた
●西南戦争で40歳の若さで壮絶な最期を遂げます
●薬丸自顕流という剣術の達人
●おしゃれで礼儀正しい
●女性にもてた
以前の大河ドラマ「翔ぶが如く」では、杉本哲太さんが演じていました。
イメージにぴったりですね。
また、2018年大河ドラマ「西郷どん」では大野拓朗さんが演じています!すごいイキイキとして爽やかな印象です!
決まっていますね!
今回は、桐野利秋のかっこよさ、剣の腕前、おしゃれさ、名言などを実際のエピソードを交えて徹底的に紹介し、魅力をお伝えしちゃいます!
きっとファンになっちゃうこと請け合いです!
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年表(桐野利秋・中村半次郎の生涯)
40年の短い人生を駆け抜けました!
年号 | 出来事 | 年齢 |
1838 | 鹿児島にて誕生(中村家の第3子) | |
1847 | 父親が徳之島に流罪確定。年収0円に。 | 10 |
1855 | 兄の死。中村家を背負って立つ。 | 18 |
1862 | 島津久光の守衛(警備員)を務める。(小松帯刀にも気に入られる) | 25 |
1864 | 薩摩との和解を目指し、長州(山口)へ向かうも入国できず | 27 |
1866 | 寺田屋事件で重症を負った坂本龍馬を毎日お見舞いする | 29 |
1867 | 薩摩藩の陸軍の先生、赤松小三郎を幕府の密偵として暗殺する | 30 |
1868 | 江戸無血開城の会談に同席。鈴木隼人らに襲われる。会津藩城受け渡しに官軍代表として立ち会う。 | 31 |
1869 | 鹿児島常備隊、第一大隊隊長になる。その後陸軍少将になる。 | 32 |
1872 | 熊本鎮台(軍の部隊)の司令長官を務める | 35 |
1873 | 陸軍裁判所所長を兼任するが、西郷隆盛の下野に伴い鹿児島に職を辞し帰郷する。 | 36 |
1874 | 吉野開墾社を指導し、積極的に開墾(土地を切り開き田畑を耕す)する | 37 |
1877 | 西南戦争では、4番大隊指揮長兼総司令を務める。 城山で額を撃ち抜かれ死亡。 | 40 |
次に小さな頃から順に逸話を交えながら紐解いて行きましょう!
鶴丸城下時代
1838年に鹿児島の鶴丸城城下にて城下士5人兄弟の三番目として生まれています。
関連記事:日本100名城「鶴丸城・鹿児島城」跡地のアクセスは?見所はココ!
西郷隆盛の最期を介錯する別府晋助は母方の従兄弟です。
家系をたどると征夷大将軍、坂上田村麿にたどり着くようです。
武士の血が脈々と流れているのです。
苦労の連続、青年時代
大河ドラマ「西郷どん」では、西郷隆盛と中村半次郎(桐野利秋)が男たちと芋をめぐって言い争っている所で出会ったり、中村半次郎の父が流罪になり、小さい妹を連れて一家で夜逃げしようとする所西郷と出会い、夜逃げを回避してもらったり、ちょこちょこ西郷隆盛とは接点があります。この頃から恩を西郷に感じるようになるのです。
(かなり貧しかったようで、父親が流罪前で5石(年収30万位)、流罪で5石も没収され収入0で、夜逃げも致し方なかった状況だったのは明らかです。それでも半次郎は畑仕事をしてなんとか食いつないでいました。ううっ泣けてきます。)
ある時、中村半次郎が西郷隆盛に挨拶に行った時、貧しい中村半次郎は精一杯のお土産として、選りすぐりの薩摩芋を3つ持っていったそうです。西郷の弟従道は笑いますが、それを兄の西郷隆盛は叱りつけます。
関連記事:西郷従道(信吾)は、隆盛の弟!兄と違う道を歩んだその心は?
西郷隆盛が自分の味方をしてくれたんだ!と半次郎はいたく感動しました。
当時から恩を感じ、礼を重んじるところがあったようですね。
それからは西郷隆盛についていくようになります。
中村半次郎の剣の腕前は?
剣術の腕前はかなり達者だったようです。
「斬ると言えば必ず斬る!」と周囲には言われるくらいの気迫がありました。
それもほぼ自分の鍛錬によって達人の域まで達したという、かなりストイックな男でもあります。
剣術のエピソードはこちらをご覧ください⬇
大河ドラマ「西郷どん」では見事な殺陣を見せてくれています!
鉄砲を真っ二つに斬ってしまう見事なワンショットを御覧ください!
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「よかか! 戦場で最後まで生き残っとは、剣の強かもんじゃ!分かったか!」 あでやかな大立ち回り。 剣豪・半次郎は健在じゃ! #NHK #大河ドラマ #西郷どん #せごどん #大野拓朗 #桐野利秋
中村半次郎の愛刀は?
鎌倉時代に活躍した九州の刀鍛冶、西蓮国吉が作った「西蓮」を使用していたのではと言われています。
(伝説の薩摩藩主、島津義弘が使用していたことは知られています)
槍を得意とする奈良原繁属する上之園方限の郷中と親しくしていました。
郷中とは?西郷隆盛ゆかりの地!偉人を輩出した下加治屋町!秘密は郷中教育に有り
(奈良原繁は寺田屋の同士討ちでは鎮撫隊側で最後まで説得し続けた人です)
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幕末時代
討幕を唱えるようになり、小松帯刀、西郷隆盛と薩摩藩の重臣からも重宝されるようになっていきます。
関連記事:小松帯刀の読み方は?死因・子孫はどう?西郷隆盛との関係も!
そして様々な志士たちと出会い交流を深めるようになっていきます。
その中でも特に坂本龍馬にはすごく惹かれていくようになります。
寺田屋で坂本龍馬が襲われると、その見舞いに毎日のように通いましたし、
(剣の達人で人たらしの坂本龍馬の魅力に惹かれたのでしょうね)
その後坂本龍馬が殺された後にはひどく悲しみお墓参りも行っていました。
関連記事:坂本龍馬とは?名言ベスト5選!伝説の言葉たち!年表も
中村半次郎は剣術の腕は素晴らしいものがあったのですが、人を斬る機会がありませんでした。
ただ一度だけ暗殺を実行したことがあります。
その相手が薩摩藩の陸軍教練(先生)していた兵学者赤松小三郎でした。
人斬り半次郎と呼ばれる
赤松小三郎が幕府の密偵との疑いがあるということで、桐野利秋(中村半次郎)は暗殺を決断。
同じく薩摩藩士の田代五郎左衛門と暗殺を実行します!
本当にあっさりと鮮やかに・・・。
中村半次郎には、「人斬り半次郎」という異名があります。
(幕末の有名な人斬りは他に、熊本の河上彦斎、土佐の岡田以蔵、同じく薩摩の田中新兵衛)
実際は暗殺は一人、返り討ちで一人と合計二人しか斬っていないようです。
人斬りというのは小説上の話というのが有力な説です。
関連記事:幕末最強剣士ランキングベスト12!日本一の剣豪は?
しかし、赤松殺しの手際を見ていると、人斬りの仕事を半次郎が本気でしたら、本当に「人斬り半次郎」の名前に
負けない結果を出していたのではなかろうか?と思わずにはいられません。
歴史の面白さでもあります。
実際に刀を抜くことは2度ほどしかなかった半次郎でしたが、剣を上手く使って相手を威嚇してたことはやっていました。
刀を使えない西郷隆盛の代わりに常に近くでボディーガードをしていたようです。
実際に斬ることはないのですが、無言で睨みをきかせ、剣をひねり暗殺を示唆したといいます。
新撰組の近藤勇も中村半次郎と事を起こすことを避けるようにと言っていたフシがあるくらいですから、相当な迫力があったのでしょう。
これだけ剣の強さに定評があり、見た目面長でこざっぱりしていて礼儀正しければ、なかなかモテたのではないでしょうか。
そう、もてていました。
半次郎と恋人さと
鹿児島にヒサという妻がいながら、京都でも村田さとという恋人がいたのです。
引用:Wikipedia
小柄で可愛らしい女性ですね(半次郎の身長は177センチと言われていますから、150センチないくらいですかね?)。一方、半次郎はきっと強かったんだろうってなんとなく思わせるオーラがあります!
さとは半次郎にぞっこんだったようですが、妻がいることをひた隠していたようです。
そして鹿児島まで半次郎にさとが会いに行った時、妻がいることがそこで判明。かなーり驚いたようです。
おんな泣かせの一面も持っていますね。
ヒサはクリスチャンになりその後桐野利秋夫妻の側に葬られています。
※明治維新になると、中村半次郎から桐野利秋と改名しています!
剣に女と青春を駆け抜けていきました。
それだけではなくきちんとした作法、交渉も誰にも教わらずに独学で学びきちんとこなすことが出来る男でした。
作法や礼儀を重んじた男!
新政府軍代表として会津城を受け渡す時の話です。
その時の作法が見事だったといいます。
その作法をなんと、寄席で覚えたといいます。すごっ!
本人は貧しく学問もきちんと学んでおらなかったけれど、その素質は誰よりもあったと思われます。
その会津城明け渡しの交渉の場では男泣きに泣き、会津の城内の兵士たちに対し親身になって接したといいます。
人情に厚い男でもありました!
※その時会津藩の大将、松平容保から宝刀を送られたと言い伝えられています
関連記事:松平容保とは?イケメン京都守護職会津藩主で孝明天皇の信頼高し!
西郷隆盛も「桐野が学んだら、到底私の及ぶところではなくなる」と評しています。
学問以外のすべてのものが揃っていました。
勝海舟も「なかなかの俊才である」といい、大隈重信は「頗る才幹で、容姿態度も立派で」と言っています。
他にも親戚の肝入は「淡白な性格で、暴れ者を調停するのが得意で、巧みに操り不平がないようにしてしまう」と言っています。
人間関係にとても強みを持っていたようです。
いわゆるコミュニケーション力が相当高かったようですね。
桐野利秋の名言
「虚名を得るは実に恥ずかしきこと」
黒毛の兜をかぶった桐野の武功が高まると、さっさとその兜を捨ててこの言葉を言ったといいます。
ちやほやされたりして慢心が出るのを嫌ったのでしょうかね?
桐野利秋の不覚!
指を2本失う
剣の達人で、暗殺も成功させ、西郷隆盛のボディーガード役をこなしていた桐野でしたが、不覚をとった事があります。
時期は前後しますが、戊辰戦争、彰義隊征伐の頃、お風呂屋さんに行った帰り道でした。
一刀流の剣客鈴木隼人達3人の刺客に襲われて左の2本指を切り落とされたのです。
湯上がりの気持ちいい時になんて奴らだ!と桐野はいきり立ったでしょうか?
右手で一人は斬り捨てることに成功しますが、残り2人は逃したようですね。
悔しくも壮絶な現場だったのでしょう。
西南戦争
西南戦争では、西郷隆盛から総司令官を任されていました。(西郷とは若干作戦の考えが合わないところもあったようですが)
指揮官達だけで軍議をし、西郷隆盛はそれには参加しませんでした。
しかし、新政府軍は強く、簡単に落とせると思っていた熊本城を落とせず、敗退を繰り返すようになります。
慢心があったのでしょう。そして西郷は本気で戦おうとはしていなかった節もあります。
桐野に西郷のように戦略を考える能力があれば勝てたかもしれません。唯一そこが不足でした。
シルクハット伝説
桐野の礼儀といえば、こんな逸話が残されています。
西南戦争後半、桐野たちが敗戦続きで鹿児島へ戻った時、ボロボロの戦服を着替えるため、政府軍が残していった物質を手に入れました。
その中にシルクハットがあり桐野は気に入ってかぶっていました。
ある日シルクハットには名前が記されていることに気付きます。
その名前を薩軍にいた政府軍の捕虜に問い合わせると、鹿児島の知事代行している人のものだというのです。
これは失礼な事をした!と手紙を添えて、シルクハットの持ち主の元へ返してやってくれと、捕虜に渡しそして解放しました。
戦の負けはほぼ濃厚。自分がかぶるよりも、持ち主のもとに返すのが筋。そもそも勝手に使用して済まなかった、という内容でした。
なんというか、周りの状況、相手の気持ち、色々考えることが出来る人だなって思いました。
だって、きっと体はボロボロで疲弊しきっている状態だったと思います。そんな中でもこういう冷静な対応ができるなんて、桐野さん最高です。
壮絶な最期
最後の最後まで残り、城山で、額、足、腹、こめかみなど様々な場所に銃弾や刀傷を受け壮絶な最期を迎えます。
大河ドラマ「翔ぶが如く」では、機関銃をぶっ放しながら死んでいった記憶がありますが、西郷どんではどうなるでしょう?
そんな場面出てくるかな?
桐野とおしゃれ
桐野はおしゃれで有名でした。
有名なのは、フランス製の香水をお気に入りでつけていたといいます。
懐中時計や、軍刀も金。身なりにはいつも気を使っていました。
死体からも香水の匂いが漂っていたようです。
桐野利秋と病気
おくびも出しませんでしたが、西郷隆盛と同じ、フィラリアにかかっていたと言われています。
関連記事:西郷隆盛【西郷どん】が温泉に通った理由は象皮症の治療?!
そんな桐野利秋(中村半次郎)ですが、今も御子孫はいらっしゃるのでしょうか?
桐野利秋の子孫
調べますと、芸人さんのソラシドの本坊元児さんは、桐野利秋の兄弟の血が流れているようです。
優しそうなところは引き継がれているのかもしれませんね!
他にも桐野富美子さんなどがおります。
宝塚でも取り上げられた桐野利秋!
星組公演の「桜華に舞え」(2016年)の主人公として桐野利秋が取り上げられています。
桐野を演じたのが、北翔海莉(ほくしょうかいり)さんで、この公演を最後に宝塚を退団されています。
こんな桐野も見てみたい!というイケメンなのでご紹介しておきますね。
ううっ!渋い!
まとめ
色んなものと戦っていた桐野。
うまく人間関係を乗り越えて来た桐野。
強さと優しさを持ち合わせていました。
他にも様々な桐野をみて来ました。
いかがだったでしょうか?
書いている私も、想像しながら是非会いたくなるような人物でした。
この記事を通じて、少しでも桐野の魅力が伝われば幸いです。
桐野利秋を描いたおすすめ本です!
映画のおすすめ!
榎木孝明さんの色気がビシバシ伝わってくる作品です。特に目つきがやばいです!
最期のシーンもかっこよすぎます!
男を学ぶならコレ!