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「剣は人を殺める道具にあらず、人を活かす道なり」

という平和思想を貫いた剣豪が戦国時代におりました。(活人剣)

その名を「塚原卜伝」といいます。

下剋上、裏切り、謀反、暗殺、と生き残るためには手段を選ばない時代、戦国時代に

人を殺す剣ではなく、人を活かす剣を貫いた剣豪が塚原卜伝でした。

塚原卜伝

引用:Wikipedia

塚原卜伝のもとには、多くの著名な弟子がおりました。

特に、後の室町幕府の13代将軍、足利義輝や、武田信玄の軍師、山本勘助や、

戦国大名、北畠具教などがおりました。

 

そして、一子相伝の奥義、「一之太刀」を編み出し、鹿島新当流を創始した、

戦国時代きっての剣聖、塚原卜伝。

 

今回は、塚原卜伝の逸話や生涯、奥義についてや弟子についてなど、紐解いて見たいと思います!

では、お付き合いくださいませ。

塚原卜伝は最強!

戦国時代の剣豪達の中でも、塚原卜伝は最強だったと思います!

その理由はこちらに!→最強剣豪ランキングベスト10!戦国時代日本一は?

 

そうです、奥義もすごい、弟子もすごい、戦績もすごいとほかを寄せ付けない総合的な強さが

あるのです!

 

ではひとつずつその強さを見ていきましょう!

まずは基本的な強さの源から

塚原卜伝の強さの源(鹿島古流と香取神道流)

生まれが「鹿島の太刀」を受け継ぐ、関東茨城、鹿島神宮の神官、卜部氏吉川覚賢の次男として1489年生を受けます。

当時は吉川朝孝(塚原卜伝)という名前でした。

そこで鹿島古流といわれる剣を学び、その後養子に行った先の塚原家で香取神道流を学びます。

塚原家で元服し塚原高幹と名前を変えます。

鹿島古流と香取神道流の2つの神の剣が混じり合い、新たな剣が高幹の中に育ったのでしょう!

まさにハイブリット効果です!これが塚原卜伝の強さの源でしょう!

 

強さに磨きをかけ!(初の武者修行)

その後、17歳で武者修行に出かけます!

京都清水寺ではじめての真剣勝負を行ったのを皮切りにガンガン修行を続けるのです。

この時は主に京都周辺を修行して回りました。

室町幕府の力が弱まり、京都付近も混乱していた頃です。戦場も37回経験しました。

この修業で更に強さに磨きがかかることになりますが、、それは苦悩の修行でもありました。

その苦悩が塚原卜伝の最強の奥義を生み出すきっかけになったとも言えますが、、・

 

それでは次に、その奥義である一之太刀がどのように生まれたかを見て見ましょう。

塚原卜伝の奥義「一之太刀(ひとつのたち)」

日本刀

奥義一之太刀の誕生

若き日の塚原高幹(卜伝)は、17歳から10年以上行った武者修行で多くの闘いを経験し、無敗を誇る戦績をあげてきました。

その時の戦績は?

真剣勝負は19回行い、37度の戦の場に立ち合い、いずれも一度のしくじりもなし。

木刀での立ち合いは数百度に渡り無傷。

傷を負ったのは矢で負った6箇所のみ。

1対1の勝負は212戦無敗。

と、堂々たる結果です。恐ろしく強いです。

病んだ塚原高幹(卜伝)鹿島に帰る

しかし、それは返せば多くの人を殺めたことと同意義でした。

また、戦場で多くの死者を目の前で見る事が多かったは、心をすり減らしていきました。

そんな命のやり取りを10年以上続け、経験した塚原高幹(卜伝)は、精神的に相当病んでいました。

そう、この頃は、「活人剣」ではなく、ただの「殺人剣」でした。

もう、修行を続けることも出来ず、病んだ心のまま、鹿島に帰るのでした。

ただ人を殺めるだけの剣にうんざりしたのでしょう。

武神タケミカヅチへの祈りの修行の末に

強すぎるがゆえか、剣の活かし方の方向性を見失い、病んだ心で修行から帰ってきた塚原高幹(卜伝)を見かねた父親達が、

鹿島城の家老で剣の使い手の松本政信に塚原高幹(卜伝)を託すことにしたのです。

 

すると、松本は高幹(卜伝)に神社に籠もって修行をすることを勧めたのです。

 

その修業とは、鹿島の神、武神タケミカヅチに祈りながら、剣修行を行うことで、なんと、1000日にもおよぶ過酷な修行となったのです。

 

武神タケミカヅチは、最強でありながらその力に頼らず、話し合いで問題を解決するタイプの神でした。

要するに、殺意を持っている相手から、殺意を奪う、ということをやってのける神だったのです。

これは難しいですねえ。

 

その過酷な修行を高幹(卜伝)は耐え抜き、ある日霊夢を介して武神タケミカヅチから「一之太刀」を授かるに至ります。

 

この一之太刀こそ、人を殺めず、人を活かす剣国に平和をもたらす剣人から殺意を奪う剣。だったのです!

 

鹿島新当流の誕生そして卜伝へ

お告げ

そして、奥義を授かるのと同じく、お告げを受けたのでした。

それは、

「気持ちを改めて、新たに再出発せよ」というお告げです。

奥義を得た塚原高幹(卜伝)は、そのお告げにより、「鹿島新当流」を創始し、

さらに、自らの名前を塚原卜伝(卜部の剣を伝えるという意味)に改名します。

ここに、ただの殺人剣の強さではない、「活人剣」の最強剣豪、塚原卜伝が誕生するのです!

活人剣を活かして2回目の武者修行へ

塚原卜伝となった後の武者修行は、西日本から九州へと足を踏み入れました。

ただ剣の強さだけではない。人の心を読めるようにならなければってところです。

人を活かす剣の追求を行ったのでしょう。

2回目武者修行の逸話

その勝ち方には変化が生じていました。

事前に切る部位を告げてから斬ることが出来る長刀の名人、梶原長門との戦いでは

咄嗟に小刀に持ち替え、脇腹を一刀に斬り伏せたり、

片手切りの名手に対して、片手切りを卜伝が恐れていると思わせ、相手を油断させて、斬ったりと内容が熟練してきています。

心理戦、駆け引きなどに磨きをかけていく修行の旅でした。

 

一方、卜伝と戦いたくて仕方ない相手に対して、さらーと島に置き去りにして、戦わずして勝ったケーズもあります。

これを「 無勝手流」と名付けてました。若かりし日には考えられなかった対応です!

 

しかし10年程修行している間に実父が亡くなってしまい、また鹿島に帰ることとなります。

塚原城主として妻を娶る

結婚

帰ると、塚原城の城主となり、妻を娶り、弟子たちを育てるといった

地に足をつけた生活をおくるようになります。

実に45歳ではじめての結婚です。晩婚!しかも奥さんの妙さんは20歳!

二回りも違う、超歳の差結婚でした

 

三度目の修行

しかし10年後の55歳頃、まだ30歳の妻に先立たれてしまいます。

相当悲しまれたことでしょう。その後、卜伝は一生独身で過ごします。

 

思うところがあり、塚原城主の座を養子に譲り、出家し、三度目の修行にでます。

三度目の修業は、著名な方に剣術や奥義を伝えていく修行でした。

自ら武神のお告げにより授けられた新当流そして奥義一之太刀を広めていきたいという

気持ちが最大の修行にでた理由だったと思います。

 

それでは次に三度目の修行で塚原卜伝が剣術を伝えた弟子達について触れてみたいと思います。

塚原卜伝の弟子達

一番は、13代室町幕府将軍になる足利義輝です。

足利義輝

足利義輝

引用:Wikipedia

剣豪将軍として知られた足利13代将軍です。

有名な逸話に、松永久秀や三好三人衆やに二条城にて攻められた時、

義輝は、様々な名刀を畳に突き刺し、その刀達を駆使して最後まで奮闘したと言われています。

塚原卜伝の技術がなければ、もっと早く亡くなっていたでしょう。

なんと言っても一ノ太刀を伝授されている実力派折り紙付き!

そして、義輝の辞世の句、「五月雨や 露か涙か 不如帰 わが名を上げよ 天のうえまで」も

違ったものになっていたのかなと思います。

二番目に伊勢の国司、北畠具教に2年ほど教えます。

北畠具教

伊勢を治める国司の北畠具教に、塚原卜伝

2年間、みっちり、マンツーマンで教えていたのでしょうね。

そして奥義一之太刀を伝授したのです。北畠も相当の力量の持ち主だったのでしょう。

人を殺めずに勝てれば最高!

北畠具教は、剣豪たちとの交流も多く、塚原卜伝以外にも、柳生宗厳や上泉信綱などの一流の剣豪たちとも接点があったのですが、

織田家の刺客により命を落とします。

その織田家の刺客に刺される前、敵兵を19人切り倒し、100人に手傷を負わせたという伝説が残っています。

これも、塚原卜伝の教えが良いのでしょう!

 

山本勘助

そして塚原卜伝は、当時勢い盛んな武田信玄が治める甲斐の国(山梨)に到着します。

戦国最強に成長していく武田家なら新当流が広まるだろう!という考えがあったのでしょうか?

当主の武田信玄に剣を披露し、軍師山本勘助に剣術指南をしたのです。

キツツキ戦法で知られる勘助は、しっかりと技を会得ししたかな?

参照:戦国武将ランキング知略軍師編ベスト10!最強は誰?

雲林院松軒

著名ではないですが、塚原卜伝の一番弟子で、卜伝より皆伝書を受けています。

天下に5人いない卜伝流儀の兵法者です。

織田信長の三男の兵法指南役などをしていた実績も持ちます。

 

他にも著名なところで行くと、今川義元の子今川氏真、細川忠興の父細川幽斎、塚原卜伝と同じく剣豪上泉信綱、居合の祖林崎甚助

などそうそうたるメンバーがいます。

影響与えまくりです。

塚原卜伝の逸話2つ

 

塚原卜伝が、弟子や養子との間にあった逸話をご紹介しましょう。

戦わずして勝つといった卜伝の考えが良く表されています。

先を予想する事が大事

ある時塚原卜伝の弟子が馬の後ろを歩いていました。

すると急に馬がはねて弟子が蹴られそうになります。

咄嗟に反応し、馬に蹴られることを避けると周りの民衆は、その対応を称賛しました。

 

しかし、師匠の卜伝は違った評価を下します。

なんで、最初から、馬から離れて歩かなかったんだ!」と。

先を読んで、危ないことを避けることこそ大事だ」と。

リスクを全く考えていないじゃないか!」と

なるほど、先を読んでリスクを防ぐ行動こそ大事であって、これが戦わずして勝つことにつながると

考えていたのです。

うーん、納得!

トラップを見破れるか?

塚原卜伝には3人の養子がいました。

そして家督を3人のうち誰に継がすか、テストをしてみようとなりました。

襖を開けると木枕が落ちてくるトラップを仕掛けてその反応をしてみることにしたのです。

一番目三男は、落ちてくる木枕を真っ二つに切って入ってきました。

自分の身は自分の剣にて守る!といった感じですね。

二番目次男は、落ちてくる木枕から身を引き、木枕であることを確認してから部屋に入りました。

どんなトラップがあるかわからない戦国時代、有事に慎重た対応することは大事なことです!

三番目長男は、3人の中でも一味違いました。

すでに部屋に入る前からこのトラップを見破っていたのです。

木枕を外して難なく部屋に入ってきたのでした。

落ち着いていますね!すべてお見通しって感じです。

 

塚原卜伝は三人のうち、トラップをはじめに見破った長男に家督を譲ることを決めたのでした。

 

卜伝の剣の真髄は、先を読んで無用な戦いを避けるところにあったんじゃないでしょうか?

故に、生涯無敗の実績を残すことができたんだと思います!

 

現在でも学ぶところが大いにありますね!

 

最後に

生涯無敗を誇った剣聖塚原卜伝の生涯と逸話、弟子たちや奥義について見てきました。

実のところ、奥義「一之太刀」とは、先を読んで無用な戦いを避けながら、常に先手で対応していくことでした。

これは、今も取り入れられる教訓ですよね。

そして、弟子たちも本当に著名でした。

戦国時代に多大な影響を与えたことを考えると、その存在は大きすぎます。

今でも鹿島新当流は鹿島の地で引き継がれているとのことです。