「小次郎負けたり!勝は何ぞその鞘を捨てんと!」

あの有名な巌流島の戦いで宮本武蔵が佐々木小次郎を負かした時に発した言葉と言われています。

無人島の巌流島(舟島)で互いに剣を極めた同士の真剣勝負!

手に汗握ります。(鞘を捨てるとは勝つ気がないのか!というような意味です)

又宮本武蔵は、生涯負け無しと言われるほどの最強とも言える剣豪で、晩年は水墨画や書を書き残すなど、文化的な面も

秀でていた剣士でした。

宮本武蔵

引用:Wikipedia

今回、そんな剣が強く、多才な宮本武蔵に逸話に迫ってみたいと思います!

最強伝説・二天一流の名手

最強剣豪宮本武蔵の流派は何だったのでしょうか?

二天一流とは?

画像にもあるように、刀を二本(大太刀と小太刀)持っているスタイル。

「二天一流」という流派です。

(この二天一流の前は円明流でした。円明流は手裏剣なども扱う武術)

 

元々は、宮本武蔵の父親、新免無二(宮本無二)が開いた当理流という総合剣術の中に、二刀流があり、息子の武蔵が

それを学び、突き詰めて晩年、「二天一流」としてまとめ上げたものです。

(太鼓のバチを見て剣術に応用したのです)

身長180センチの宮本武蔵だからなし得た剣

この二刀流、相当腕力が必要と思われますが、武蔵は180センチを超える身長の持ち主で、刀二本を振り回すことも可能だったのでしょう!

ちなみに刀の重さは1.5キロ。野球の木製バットが1キロ、剣道の竹刀が0.5キロですので、なかなかの重さがあります。

世界のホームラン王、王貞治さんも現役時代刀を素振りして鍛えていたらしいですが、宮本武蔵も相当素振りをして鍛えたのでしょうね!

(武蔵は良く木刀を使いました。理由?刀は壊れやすく、戦中に折れるのを避けたためです!)

 

それでは、剣豪宮本武蔵の有名な戦い2つを見てみましょう!

吉岡一族との戦い(4ラウンド)

吉岡一族というのは、室町幕府の将軍だった、足利家の兵法指南を代々務めた剣術の名家です。

その剣術の名家吉岡家の4代目と宮本武蔵が京都で対決した戦いのことです。

これにはドラマがありますよー。(様々な説はありますし、創作の部分もあります)

何回かの戦いが吉岡家と宮本武蔵にはありますので、それぞれ見てみましょう!

第0ラウンド(宮本無二対吉岡直賢)

実は宮本武蔵の父親、宮本無二も吉岡一族と戦っているのです。

因縁ですね。

この時は、将軍足利義昭の御前試合で宮本武蔵の父宮本無二と吉岡家三代目の吉岡直賢が相まみえています。

ここでは、宮本無二が2対1で総合勝利し、「日下無双」という称号を将軍から貰い受けるほどの活躍をしたようです。

直賢的にはかなり悔しかったんだと思います!

因縁はここから始まります。

第1ラウンド(宮本武蔵対吉岡道場門弟)

時は流れ、剣の修業のため、全国を行脚していた宮本武蔵は、世に名高い、足利将軍の兵法指南役の吉岡道場を訪れます。

まあ、道場破りですね。(父も吉岡家と戦っていたし、これを破らない手はないと考えたのでしょう)

ここで、武蔵は門弟たちをコテンパンにやっつけてしまうのです。

強!

そして、道場主の吉岡家四代目、吉岡清十郎(直綱)に挑戦状を申し込み、五条大橋に決闘の札を立てます。

「これでは将軍家兵法指南役の吉岡家の名がすたる!」と吉岡家当主清十郎はその挑戦を受けて立ちます。

これは、面白くなってきましたよ。

第2ラウンド(宮本武蔵対吉岡清十郎)

蓮台野

引用:https://syasin.biz/page/heianhusoti/

吉岡四代目(吉岡直賢の息子)の吉岡清十郎(直綱)と宮本武蔵は、京都の洛北にある、蓮台野にて決闘を行います。

この蓮台野は、墓石や、千本とも言われる卒塔婆(経文が書かれた木片)が立ち並んでいたと言います。

なんともおどろおどろしい場所で、この二人は相まみえます。

 

約束の時間を遅刻して現れる武蔵。これも作戦の内!

相当な時間待たされた、吉岡清十郎は、精神的にも異常な緊張などで疲労仕切っていたことでしょう。

 

突如現れた武蔵に虚をつかれ、一撃!武蔵の木刀が清十郎の腕を撃ち、骨を粉々に砕きました。

もんどりうつ清十郎を背に、吉岡門弟の気配を感じながら足早にその場を去りました。

(一撃という約束だったため命を奪うことまではしませんでした)

 

見事?なまでの勝利。正々堂々ではありませんが、勝ちにこだわる勝利至上主義!強いです。

 

(ちなみに上記のくだりは、宮本武蔵の養子、伊織が書いた小倉碑文からです)

(一説には、決闘の場所は、京都所司代で、吉岡清十郎が宮本武蔵の眉間を撃ち、出血させたとも?こちらは引き分け、その後の再戦も

なかったといいます。吉岡側の記録から。)

 

負傷した清十郎はその後出家したとも、後に大坂の陣で城に籠城したとも言われています。

その後、兵法家としては断絶しますが、染め物屋吉岡家としては生き残ることに成功します。

今も残る憲法染という染め物は、吉岡家のもの!(吉岡当主は代々憲法を名乗っていたようです)

 

第3ラウンド(宮本武蔵対吉岡伝七郎)

三十三間堂

引用:Wikipedia

吉岡家当主が一撃で破れた事実は、吉岡道場としてはなんとか挽回せねばなりませんでした。

なんせ、天下一の名門。

 

そこで、立ち上がったのが、清十郎の弟、伝七郎でした。

場所は雪が降る京都三十三間堂。

またしても宮本武蔵は約束の時間に現れませんでした。

徹底して遅刻作戦!

 

待つ吉岡伝七郎は奥歯をギリギリさせながら、兄、清十郎と同じく、精神的に疲労して行きます。

 

そんなおり、またもや突如現れた宮本武蔵。

伝七郎は、5尺(1.5メートル)の木刀を振りかざし宮本武蔵に襲いかかります!

 

武蔵は伝七郎の木刀を奪い、逆に伝七郎を撲殺します。

 

雪の上に、褐色の血が飛び散ります!うわっ!

 

宮本武蔵、3連勝です!

 

当主清十郎、弟伝七郎と立て続けにトップクラスが倒された事実に吉岡道場としては、

手段を選んでいる余裕はなくなります。

是が非でも、宮本武蔵を倒さねばなりません!

 

そこで立ち上がったのが、清十郎の従兄弟又七郎でした!

第4ラウンド(宮本武蔵対吉岡又七郎(清十郎の従兄弟)とその他門弟達)

京都一乗寺下り松

引用:Wikipedia

場所は京都一乗寺下り松にてその決闘は行われました。

吉岡一門は相当な人数(数十人から100名?)が決闘に望みました。

宮本武蔵も門弟を連れて行ったと言われていますが手を出させなかったようです。

 

勝負は、宮本武蔵の桶狭間よろしく奇襲攻撃にて決着がつきました。

なんと、手薄な本陣にいた大将の吉岡又七郎の背後を襲い、斬り殺します!

これにより吉岡側は大混乱をきたします。

 

遅刻はありませんでしたが、やはり勝利至上主義。確実に勝つための手段ですね!

 

その後は乱闘になり、宮本武蔵は襲い来る敵を次から次へとなぎ倒していくのです。

 

大将を倒した宮本武蔵の勝利でしょう!

 

宮本武蔵、すべての戦いに完全勝利です!最強っ!

 

そしてもう一つの有名な戦いに、巌流島の戦いがあります!

佐々木小次郎との巌流島の戦い(2パターン)

巌流島

引用:Wikipedia

宮本武蔵は、同じく剣豪の佐々木小次郎と下関の巌流島で決闘を行います。

佐々木小次郎は、富田勢源に中条流を学び、鐘巻自斎という剣豪に学び、その後、自らの流派「岩流」を会得していました。

 

小倉藩(福岡)の細川忠興から剣術指南役として雇われていて、西国一とこれまた名の知れた剣術使いでした。

 

細川忠興も、関ケ原で大暴れした経験を持つ相当の剣術の使い手ですね。

 

そこに宮本武蔵が現れ、吉岡道場と同じく、挑戦を佐々木小次郎に申し込むのです。

(ちなみに佐々木という名前は、後世、歌舞伎の役名から名付けられたようです。本来、岩流と呼ばれていたようです)

 

これには伝説が多くあり、大きく分けて2パターンあるので見ていきましょう。

1パターン

宮本武蔵と佐々木小次郎の門弟たちのいざこざで、師匠同士が決着をつけることに!

ここでは、門弟を連れて行かないという約束がかわされました。

佐々木小次郎は単独で乗り込みましたが、宮本武蔵は約束を破り門弟を4人ほどつれていきました。

 

 

宮本武蔵は長さの違う手作りの木刀2本。

佐々木小次郎は、物干竿と呼ばれる3尺の太刀で戦いました。

 

このときは、武蔵の電光よりも早い木刀の威力により、佐々木小次郎を打倒します。

舟島での決闘は宮本武蔵の勝利です。

 

その後、武蔵の門弟が囲んで小次郎を攻撃し、小次郎は命を落としたようです。

 

多勢に無勢。その酷さと単身乗り込んだ潔さをたたえ、地元の人が佐々木小次郎を供養し、決闘の場所となった舟島の名前を、

佐々木小次郎の剣術の名前(岩(厳流))をとって、巌流島としたと伝わっています。

 

単独でも十分に強かっただろう宮本武蔵でしたが、なんで弟子たちを連れて行ったのでしょう?

 

謎です。

きっと、佐々木小次郎の強さは相当なものがあったのでしょう!

2パターン

巌流島

引用:Wikipedia

宮本武蔵が父親の縁を伝って、小倉藩に雇われていた佐々木小次郎に挑戦を申し込むものです。

 

この試合は、小倉藩公認でいわば公式の戦いでした。

 

藩の役人が立ち合いもしていたようですし。

 

このときは、寝坊により宮本武蔵、遅刻しています。

 

佐々木小次郎、「汝遅い!」とイライラしています。

 

武蔵は手製の木刀を持ち近づくと、佐々木小次郎は刀の鞘を海に捨ててしまいます。

 

ここで冒頭のセリフ「小次郎負けたり!勝は何ぞその鞘を捨てんと!」

(勝とうとすれば大事な鞘を捨てないはず!)

につながるわけです!

 

小次郎は武蔵の眉間を打ち、はちまきが切れますが、反撃の武蔵は小次郎の頭を木刀で打ち、倒れた小次郎の脇下を打ち付け気絶させます!

その後、武蔵は小次郎の口を塞ぎ死亡させています。

 

負けない!負けない剣ですね!

宮本武蔵の刀は?

ちなみに、基本的には武蔵は木刀を使用していましたが、日本刀も持っていました。

室町時代の刀で「大和国住国宗」や、無銘「金重」、「伯耆安綱」などを使用していたと言います。

生涯の戦績は?

 

60歳ほど生き抜いた宮本武蔵ですが、その半生は戦いの人生でした。

その半生を振り返ってみたいと思います。

若かりし頃無敗!

宮本武蔵は、岡山美作の神社の近くにあった大きな構えの中にある、茅葺きの屋根の家に生まれました。

(智頭鉄道宮本武蔵駅から徒歩10分です)

 

13歳で新当流の有馬某と戦い勝って以来、29歳までに60戦以上して無敗としています。

その中で、関ケ原の戦いにも参加しています!

このときは、西軍宇喜多秀家について参戦し、敗残兵となりますが、なんとか生き延びていますね!

(一説には、東軍黒田官兵衛について九州で働いていたとの情報も!)

参照:映画「関ヶ原」全記事一覧掲載!まとめ・まるごと見て!

後半生も大きな戦に参加!

30歳を過ぎても宮本武蔵は大きな戦いに参戦していました。

豊臣家が滅亡した戦い、大坂の陣では、徳川家康側の武将、水野勝成の元で活躍したり、

キリシタンの一揆である、島原の乱では、中津藩の小笠原家のもとで幕府側の一員として活躍しました。

かなりの敵をバッサバッサと斬り倒していったことでしょう!

宮本武蔵の人生を簡単に表にしてみましたので御覧ください。

宮本武蔵年表

年号出来事年齢
1584年宮本武蔵生まれる
1596年新当流有馬との試合に初勝利13歳
1599年強敵兵法者秋山某に勝利16歳
1600年関ヶ原の戦い参戦17歳
1604年吉岡一門との戦い21歳
1612年巌流島の戦い29歳
1615年大坂の陣参戦32歳
1618年姫路城で三木之助を養子に36歳
1626年養子の伊織を小笠原家に出仕43歳
1637年島原の乱出陣55歳
1640年細川家に客分として招待される57歳
1643年五輪書書き始める60歳
1645年千葉城で死亡64歳

 

 

それでは、最後に、宮本武蔵は武力だけではない点をご紹介しましょう!

五輪書と芸術

宮本武蔵

引用:Wikipedia

国の重要文化財に指定された、上記の枯木鳴鵙図など、素人目に見ても、とっても上手く、風情がある中に鋭さがある作品だと感じます。

基本的に57歳で熊本の細川忠利から300石の客分として千葉城跡に居を与えられ、1645年の初夏に没するまで、

画や茶や禅など文化三昧の日々を送りました。

 

戦もなく、すでに平和な世の中になっていて、趣味に没頭することができたことで、武蔵の隠れざる才能が開花したことは、

日本にとって、価値あることでした!

 

著名な「五輪書」もこの頃書かれたものです。(熊本の雲巌禅寺の洞窟でかきあげたもの)

五輪書とは、兵法書で、剣術の奥義をまとめたもので、

五輪(五大)とは、宇宙を構成している地・水・火・風・空のことを指すものです。

 

洞窟の中で、じっくりと集中してかきあげたのでしょう。住む家もあり、禄もあり、充実した老後?が想像出来ます!

羨ましい笑

霊巌洞

引用:Wikipedia

ちなみに、オリンピックを日本語で「五輪」と訳す由来は、宮本武蔵の「五輪」が元になっているようです。

2文字で表せたので、マスコミ的には重宝されたようです。効率化ですね!

 

剣豪宮本武蔵を見てまいりました。

勝ちを手段を選ばず取りに行く勝利至上主義だったことや、剣の道だけでなく、文化的にもとっても才能を持っていた

事が分かりました。

勝つこと!結果を出すことがとにかく大事!

これを宮本武蔵からは学びました!

強いものが勝つ!のではなく、勝ったものが強い!これを地で行く剣豪だったと思います!

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