足利義輝(あしかがよしてる)とは?
足利義輝とは?室町幕府の第13代将軍です。
室町時代の末期なので、すでに戦国時代に突入していました。
時代的にかなり混乱していました。
生きるか死ぬかの時代に日本の統治のトップにいた将軍は、どんな人生を歩んでいたのか???
今回戦国を生きた将軍の人生に迫ってみたいと思います!
足利義輝は、ゲームでは戦国BASARAや信長の野望に登場しています。なぜなら剣豪将軍として名を馳せていたからです。
そして2020年大河ドラマ「麒麟が来る」では、向井理さんが出演しています。イケメン俳優の出演はマジで楽しみです!!!
関連記事→【最新版】2020年大河ドラマ麒麟がくる確定キャストと予想!
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基本情報(プロフィール)
引用:Wikipedia
- 名前・・足利義輝(あしかがよしてる)
- 時代・・室町時代末期
- 出身地・・京都東山南禅寺
- 生誕・・1536年3月10日
- 死没・・1565年6月17日
- 享年○歳・・30歳
- 父・・足利義晴(室町幕府第12代将軍)
- 兄弟・・足利義昭(室町幕府最後の将軍)
- 役職・・足利幕府第13代将軍
- 妻・・近衛稙家(関白)の妻。
- 趣味・・お酒?
- 発明・・キリスト教の布教を許す。
足利義輝の簡単年表
幼少時代「亡命を繰り返す将軍の子」
戦国初期に第12代将軍足利義晴の嫡男として生まれます。(1536年)
幼名は菊童丸といいます。
この頃の室町幕府は将軍で菊童丸の父である足利義晴と家臣で管領の細川氏と争いを繰り返し、そのたびに足利義晴は敗け、近江国(滋賀)の坂本の地に逃れたり京都へ復帰したりを繰り返していました。
また大変なときに生まれたもんですねえ。
私のイメージですと将軍は江戸時代の将軍様ですが、地方に逃げたりっていうことを知るとなおさら大変な時代だなあって思いますね。
そういえば鎌倉時代でも確かに将軍は殺されていましたね・・。
そんな中、菊童丸は11歳で父より幕府の将軍職を譲られます。(1546年)
父の足利義晴がサポートする立場にいたいという戦略でした。
将軍就任式は坂本にある日吉神社(日吉神社の総本山)で行われ、名前を「義藤」と改名します。
亡命先で将軍になるという苦労人の将軍と言えます。
その後、争いを繰り返していた細川家とは和睦が成立します。
少しは明るい未来がありますかね!
青年時代「苦難を乗り越え日本の統治を目指した!」
良いことは続かず、こんどは細川家の家臣三好長慶が謀反を起こし、天下に名乗りを挙げました。
新たな敵にまた対応しなければならなくなった義藤は、中尾城の戦い、長慶を暗殺計画、東山霊山城の戦いなどで三好長慶と戦いますが、結局勝てずに近江朽木(滋賀県高島)に亡命します。
※朽木は近江源氏からの流れをくむ高島氏の有力な家柄。匿うには最適な場所でした。
またもか・・。なかなか将軍になっても中心にいられないですねえ。
さらに悪いことは続き父の義晴は亡くなります。(1550年)
そこで自分の名前を義輝に改名しました。(1554年)
文字通り輝いて欲しい!!
そうこうしている間にやっと三好家との間にある程度の和睦が成立します。
これにて幕府の将軍としての仕事がまともに出来るようになります。
結婚をしたのもこの頃。(1558年)
義輝23歳ですね。
お相手は時の関白近衛稙家の娘です。
朝廷との関係もこれでOK!
ここからガンガン日本の統治を進めていきます。
具体的には各地の戦国大名同士(武田信玄と上杉謙信など)の修好に努めたり、自分の名前を偏き(自分の名前を特別な恩恵として字を与える行為)して屈強な大名たちをなんとか自分の統治下に置こうと試みていました。
そして大名たちを朝廷からの任官を積極的に斡旋(昇進させた)してコントロールしていきました〘関東管領を上杉謙信に任せたり(1561年)、九州の支配を大友氏に任せたり(1559年)〙
とにかく直接将軍が政治に介入して支配していこうと目指していきましたし、その熱意と実力はあったのですね!!
きっとこのときにも剣にも磨きをかけていたでしょうし、鍛錬も欠かせなかったんだと思います。
長年の敵三好長慶が亡くなったことも義輝にとっては有利に働きました。(1564年)
※逆に義輝の外交政策が上手く行き過ぎて新たな敵を作ってしまったことと、長慶が亡くなったことはパワーバランスが崩れてしまうことにつながってしまいます。
壮年時代~晩年「夢半ばにして倒れた剣豪将軍」
しかしながら将軍の直接支配に「NO」を唱える輩がいました。
それが元三好長慶の家臣でもあった松永久秀と三好三人衆(三好家の重臣たち)です。
彼らが清水寺詣でを名目に1万人の軍勢を集め、足利義輝の住む二条御所に乗り込んで来ます。(1566年)
剣の腕も立つ足利義輝は懸命に戦いましたが多勢に無勢で力尽き刺殺、もしくは自害してしまうのでした。
あああ!無念すぎます!!!
そして若すぎます。くううーー。
このくだりが大河ドラマ「麒麟が来る」でどのように描かれていくのか?
畳で四方を囲まれて刺されてしまうのか?
あらゆる名刀を畳に刺してとっかえひっかえ戦うのか?
薙刀でなぎ倒すのか?
足をすくわれて敵に一斉に襲いかかられるのか?
ここはとっても興味あります。
向井理のアクションが見ものであります!
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足利義輝の辞世
義輝が最期に残した句があります。
「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」
(さみだれは つゆかなみだか ほととぎす わがなをあげよ くものうえまで)
意味は、「天?私?の涙か露混じりの五月雨の中を不如帰が空を飛んでいった。足利義輝が名を天まで轟かせておくれ、不如帰よ」
という感じです。
襲撃にあった時、刀で戦うことを決めた時に作ったのでしょう。
義輝の覚悟がここから読み取ることが出来ます!
義輝の無念さと悔しさがめちゃくちゃ伝わってくる句です。
おのれー、三好三人衆めーーー!
足利義輝の逸話
剣豪塚原卜伝から指導を受けた
当時の剣豪として名を馳せていた塚原卜伝から弟子であったと言われています。
その奥義である「一之太刀」すらも伝授されたといいますから相当武術の腕が立ったのでしょうね!
最期に三好三人衆たちと剣で戦ったことが可能だったことから読めますね!
将軍って初代の人はもちろん剣の腕が立つ人がいるけど、途中で剣の腕が立つ人は少ないなあって思います。(徳川吉宗くらい?)
参考記事→塚原卜伝の強さは戦国最強!奥義「一之太刀」とは?弟子に将軍も?
武勇の誉れ高き(名刀を所持していた)
宣教師のルイス・フロイスも「武勇に優れている」と評し、信長の記録を残した「信長公記」にも「敵をなし崩して手負わさせた」と記録され、日本外史にも「足利秘蔵の刀を刃こぼれするたびに取り替えて戦った」と記されてます。
足利家は様々な名刀を保管していたと言われていますので、どの名刀を使ったかも興味ありますねえ!!
参考記事→かっこいい名前の日本刀ランキング10!思わず惚れる名刀は?
性格・趣味は?
きっと豪快な性格だったのでは無いでしょうか?
上杉謙信(30)と妻の兄弟の近衛前嗣(24)とたびたび大酒をのんでいたという逸話もあるようですしね。
勇敢さも兼ね備えた足利義輝!
強すぎたことは逆に回りの戦国大名からすると疎ましく思われたということもあるかもですね。
参考記事→上杉謙信公が京都で飲んだお酒とは?日本最初の銘酒「柳の酒」について!
足利義輝と死
壮絶な死を遂げた足利義輝。
各地に肖像画が残されています。
墓
山口県山口市の俊龍寺にあります。
肖像画
引用:Wikipedia
●国立歴史民俗博物館
●真正極楽寺
●光源院
●益田家
●京都市立芸術大学
木像
等持院(とうじいん)・・京都氏北区にある足利氏の菩提寺。
鑁阿寺(ばんなじ)・・栃木県足利市にある元は足利氏の館があった場所。日本100名城の一つ。本堂は国宝。
足利義輝の子孫は?
●嫡男「輝若丸」がいましたが、生後3ヶ月で亡くなられています・・。
●歌道を本業とする烏丸家の娘との間に生まれた義辰が讃岐国(香川)の尾池氏に匿われ生き延びたとされています。
義輝が亡くなってから生まれた遺児ですがその子孫は熊本にて武士として受け継がれていくことになります。
宮本武蔵と共に招かれていたとか?
その後明治時代まで続いていくことになります。ちなみに名字が「西山」と改称したようです。
家紋
足利家で代々使われている「丸に二引両」です。
足利家の一族である、東北の雄最上家も同じ家紋を使用しています。
※足利二つ引き
引用:Wikipedia
まとめ
足利義輝は本当に悲劇の将軍だったと思いますね。
幼少期も動乱の中なんとか生き延びたって感じですし、将軍になってからも次から次へと強敵が現れ命を狙われていく運命。
一瞬政治の中心に居座ることが出来、次々と統治を矢継ぎ早に行うさまは、義輝の人生の中で一番輝いていて生き生きとしていた時代では無いでしょうか?
その統治をもっと後まで見たかったとも思います。
が時代の流れは戦国大名たちの時代へと確実に変わっていきました。
戦国の時代の始まり故に生まれた稀有な将軍だったんだと思います!!