「金もいらぬ 名誉もいらぬ 命もいらぬ人は始末に困るが、
そのような人でなければ 天下の偉業は為し遂げられない!」
とは、西郷隆盛が山岡鉄舟を評価した名言です。
引用:Wikipedia
いやあ、相当いかついイケメンですね!強そ!
大河ドラマ「西郷どん」では藤本隆宏さんが演じていますね。
関連記事:大河ドラマ・西郷どん全キャスト表!出演者と役柄、独自評価!
明治維新を為し遂げた西郷隆盛をしてこのように言わしめる山岡鉄舟という男はどんな人だったのでしょう?
今回は、名言・逸話などをまとめながら、山岡鉄舟の人となりに迫ってみようと思います!
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山岡鉄舟年表
年号 | 出来事 | 年齢 |
1836 | 江戸本所にて生まれる | |
1845 | 神影流(剣術)学ぶ。 | 9歳 |
1851 | 弘法大師流入木道(書)52世を受け継ぐ。 北辰一刀流(剣術)学ぶ。 鉄舟二十則を自らに課す。 | 15歳 |
1852 | 父が他界 | 16歳 |
1855 | 講武所入所。 千葉周作に剣術、山岡静山に忍心流槍術を学ぶ。 静山の娘、英子と結婚し婿養子に入る。 | 19歳 |
1857 | 清河八郎と虎尾の会を結成 | 21歳 |
1862 | 清河八郎盟主の浪士組の取締役となる | 26歳 |
1863 | 清河八郎、幕府により暗殺される。鉄舟は謹慎処分。 中西一刀流の浅利義明に敗ける | 27歳 |
1868 | 幕府精鋭隊歩兵頭格となる。 3月9日西郷隆盛と駿府で面会 江戸開城の最終会談に立ち会う 若年寄格幹事となる | 32歳 |
1870 | 静岡藩藩政補翼として茶の生産を助言 清水次郎長と意気投合。 | 34歳 |
1871 | 静岡県大参事、茨城県参事などを歴任 | 35歳 |
1872 | 侍従として明治天皇に仕える | 36歳 |
1883 | 臨済宗全生庵を建立する | 47歳 |
1885 | 一刀正伝無刀流を開く | 49歳 |
1888 | 胃がんにより病死 | 52歳 |
山岡鉄舟青少年期(剣・書・槍を極める!)身長高し!
引用:Wikipedia
山岡鉄舟は江戸の武芸を重んじる蔵奉行の家に生まれます。
母が最強剣豪「塚原卜伝」の子孫ということで、鉄舟の血に大いに剣の才能が隠れていたと思われます!
参照:塚原卜伝の強さは戦国最強!奥義「一之太刀」とは?弟子に将軍も?
剣は神陰流、北辰一刀流を学び、書は弘法大師流入木道51世に学び、槍は山岡家に忍心流槍術を学びます。
全て一流のところで学びそれを生まれ持った才能で身につけていった鉄舟!
槍を学んだ山岡家に婿養子に入り、山岡鉄舟と名乗ることと相成りました。
この頃の所属は講武所(幕府の武芸訓練機関)にいました。
基本的に幕府側の人間でその後の人生を生きます。
そんな無敵に見える鉄舟も、中西一刀流の浅利義明には勝てず、弟子入りを果たしています。
とにかく強さを追い求めた青少年時代でした!
ちなみに、身長は188センチ、体重は105キロほどあったと言われています。
かなり凄みがあったのでは?
清河八郎と行動をともにする
基本幕府の人間でしたが、ちょっと横道にそれた時期もありました。
清河八郎との出会いです。
鉄舟は、幕末きっての野望家・清河八郎と北辰一刀流を学んでいたこともあり親しくしていました。
清河八郎が盟主を務める「虎尾の会」という、尊王攘夷を目指す会の取締役を鉄舟は担っていました。
しかし、清河八郎は徳川幕府を欺いて人を集めたため、それがバレて暗殺。
山岡鉄舟も「幕臣なのに、何やっているんだ!」ということで謹慎処分を喰らいました。
浅利義明に敗けたのもこの時期で、苦難の時期と言えます。
その後、謹慎も解け、歩兵隊の頭格として復活します!
ここからが山岡鉄舟の真骨頂です。
江戸城無血開城
山岡鉄舟が歴史の事件に名前が刻まれるのが、戊辰戦争の中で日本の首都「江戸」が戦火に巻き込まれることを防いだ奇跡の出来事「江戸城無血開城」でしょう!
参照1:勝海舟と西郷隆盛との江戸城無血開城会談2日間!作戦は?
参照2:篤姫と西郷隆盛が駆け落ち?!嘆願書(手紙)の内容とは?
基本的には新政府側の西郷隆盛と旧幕府側の勝海舟の会談によって江戸での大規模戦争は防ぐことができたのですが、
二人が会談する前に、山岡鉄舟が駿府(静岡)で西郷隆盛と先立って会っています。
旧幕府(元将軍徳川慶喜)は新政府軍に恭順(逆らわない)の意を示していることを伝えるための使者に山岡鉄舟が選ばれたのです。
西郷隆盛との会談1名言!
この時の山岡鉄舟の発した名言がまたかっこいいのです!
すでに朝敵(天皇の敵)になっていた旧幕府軍側の山岡鉄舟が単身、駿府(静岡)にの陣営にいた西郷の元に訪れた時、「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄舟まかりとおる!」と言って大声で堂々と新政府軍の警備する中を闊歩していったのです。おおお!
不利な状況は分かった上で、自虐的な部分もありつつ、認めていない部分もありつつ、誇りは失わない!という感情を受け取りました!
様々な感情はあったのかも知れませんが、敵に弱みを見せない凛とした姿を相手に魅せつけてやった感じです。男です!
西郷どんでの山岡鉄舟の名言
大河ドラマ「西郷どん」では、山岡鉄舟が自分の命と引き換えに、西郷隆盛に、江戸への進軍を止めるように訴える!そんな演出が施されています。
西郷どんではこうです!
中村半次郎(大野拓朗)が出てきて「貴殿は?」と聞きます。
鉄舟は、こう答えます。
「朝敵徳川慶喜が家臣。西郷吉之助殿にお目通り願いたい!」と。
朝敵だろうが、信じた主のためには行動する鉄舟の気持ちが見れます。
おお!と見ながら声をあげちゃいました!
次に西郷吉之助との会談では、勝から進軍を止めて欲しいとの願いを吉之助に断固拒否された鉄舟が、短刀を取り出し、自らの命と引き換えに交渉を続けます。
その、仕草がまたいいのです!
姿勢をただし、衣服を崩し、腹を出し、落ち着いた風に短刀を取り出し、腹に突き立てる。
堂々たる演技でした!
そしてまさに、鉄舟が腹に短刀を突き刺そうとしたその時、吉之助も根負けし、勝海舟と江戸で会う約束を取り付けることが出来たのです。
吉之助が鉄舟に聞きました。
「ないごて、あん慶喜公の為にそこまで?」
鉄舟は毅然としてこう答えます。
「侍が主のことを信じられなくなったら、それは侍ではございますまい」
うううう!!!!!かっこよすぎます。名言過ぎます!
侍の中の侍ではありませんか!
本当に緊迫した場面で、藤本隆宏演じる山岡鉄舟の心意気が感じられる1シーンでした!
結果、西郷吉之助が勝海舟と会って話をすることに相成りました。すごい!
参照:大河ドラマ「西郷どん」第36話のあらすじ【ネタバレ注意】「慶喜の首」
西郷隆盛との会談2名言
さらにこれまたかっこいい逸話です。
その時の駿府での会談で、西郷隆盛から掲示された条件「●江戸城を明け渡す、●軍隊を向島に移す、●軍艦を引き渡し、●兵器を差し出す」という条件は山岡鉄舟、飲むのですが、「将軍慶喜は備前藩にあずける」という条件だけは拒みました。
西郷隆盛は、「これは朝廷からの命令でごわす!」と凄むのですが、山岡鉄舟一歩も引きません!
その反論がこうです。これは名言です!
「もし、あなたの(西郷隆盛)の主君、薩摩藩主の島津公が、同じ条件で敵の藩に預けられるとするならば、到底あなたは受けいれられないはずだ!」といった内容を理路整然と伝え、それは、西郷隆盛に、山岡の忠義の心と単身敵地に乗り込んできた勇気を鑑み、きっちり伝わりました。
ギリギリの交渉ですね。
結果西郷隆盛はそれを受け入れ、江戸城無血開城につながることになるのです!
おお、山岡の熱意、伝わる!やった!
剣豪中村半次郎との接触未遂!名言
山岡鉄舟が西郷隆盛のところを訪れた際、それを聞いた薩摩藩士の剣豪中村半次郎と村田新八は、山岡鉄舟を斬るために追いかけたといいます。
しかし、追いつけませんでした。
その事実を後日村田新八が山岡鉄舟に語った時の山岡鉄舟の名言がまた良いのです!
こうです。
村田新八が出てきて言った。「先日、官軍の陣営を、あなたは勝手に通って行った。その旨を先鋒隊から知らせてきたので、私と中村半次郎(桐野利秋)とで、あなたを後から追いかけ、斬り殺そうとした。しかしあなたが早くも西郷のところに到着して面会してしまったので、斬りそこねた。あまりにくやしいので、呼び出して、このことを伝えたかっただけだ。他に御用のおもむきはない」。鉄舟は「それはそうだろう。わたしは江戸っ子だ。足は当然速い。貴君らは田舎者でのろま男だから、わたしの足の速さにはとても及ぶまい」と言い、ともに大笑いして別かれた
引用:Wikipedia
ですって。
敗けず嫌いの性格もあったようで、豪傑そのものって感じがして本当に良いです!
とその一方、男女間についての色情の道も極めようとしていたようです。
色情の道・妻英子の名言
色情の道も相当な物で、片っ端から商売女をなで斬りにしていったと言います。
これも鉄舟にしては修行の一環でした。
しかしこの色情の道は、妻の英子が、「やめなければ子供3人刺して自害するよりほかありません!」と訴えたため、鉄舟もバッサリと色情の道をやめております。まあ、10年ほどかかったようですが。欲に溺れたわけではなく、あくまで修行だということです!
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明治維新後
戊辰戦争が終わり、明治維新がおきてからの山岡鉄舟はどうしていたでしょうか?
徳川宗家・德川家達について静岡での仕事に就いたり、政治家として、静岡、茨城、佐賀などの政務に就いたり、明治天皇の付き人になったりと様々な仕事を歴任しています。
その中で、色んな逸話が生まれました。
それをいくつか見てみましょう。
剣を教える・名言
自らの道場「春風館」を開き教え、また、宮内庁内に「済寧館」という道場で教えていきました。
一刀正伝無刀流という流派を立ち上げました。
精神修養に重きをおいている山岡鉄舟の考え方は、近代剣道の理念にも大いに影響を与えています。近代剣道の父といえるでしょう!
この名言が頭に浮かびます。
「道は千載不滅だよ。いかなる大敵でも、道には勝てぬ」と。
剣道の道は自ずから自分を強くするのだと。山岡鉄舟の教訓です!
武士道という言葉を作る
武士道とは、「神道でも儒教でも仏教でもない、この3つが融和して出来た思想であり、中古の時代から主として武士の階層において、著しく発達してきたもの」と定義しています。
禅に通じていた山岡鉄舟が24歳の時に作ったとされています。
鉄舟が考えたのなら納得です。
さらに、「武士というものは、出処進退を明らかにし、確固として自己の意志を決した以上は、至誠を持って一貫するのが、真の武士で、また武士道である」とも言っています。
名言ですね!
日本の宝です!
清水次郎長との付き合い
引用:Wikipedia
山岡鉄舟が静岡の副知事をしていた頃、旧幕府の軍艦「咸臨丸」が静岡清水港に反乱軍として入港した時、新政府軍は攻撃を仕掛け、旧幕府の士達を惨殺した事件がありました。
その後、旧幕府の士達の遺体に始末を反乱軍に加担したと見られるため誰も手を付けられなかったところ、港の警備を任されていた有名な任侠・清水次郎長は集めて埋めました。
山岡鉄舟が清水次郎長に事情を聞くと、「死ねば仏だ、仏に官軍も賊軍もあるものか」と即答!
ここにも男がいました!
山岡鉄舟は唸り、清水次郎長との付き合いは長く続いたと言います。
(賭博で逮捕された時罪を軽くしたり、割烹屋を開くにあたって鉄舟の書跡のある扇子1,000ケを引出ものとしてあげたり)
同じ匂いがしますものね!
この清水次郎長が「悟りとはなにか?」と鉄舟に聞いた時、鉄舟は「精神満腹」と答えたと言います。
ユーモアあるご回答!
道を極めることが習慣となった鉄舟。
食においても例外はありませんでした。
食通、山岡鉄舟
食にまつわる伝説を多く持っています!
見てみましょう。
明治天皇の手土産は味付け海苔
明治天皇の侍従として仕えていた時代の話ですね。
明治天皇が京都に行くときの手土産について、山本海苔屋二代目と相談の末、味付け海苔を考案しました。
言うなれば、味付け海苔が現在あるのは山岡鉄舟のおかげとも言えるわけです。
書としてもいくつかの商品には鉄舟の文字が使われています。食通でもありました。
木村屋のアンパン好き
木村屋の初代がアンパンを売り出したのは、明治7年ですが、その翌年旧水戸藩下屋敷に訪れた明治天皇にアンパンを紹介し、食してもらったのは天皇の付き人をしていた山岡鉄舟のおかげです。
銀座木村屋の看板は、山岡鉄舟の書であります!
引用:http://www.kimuraya-sohonten.co.jp/shoplist/detail/honten
忠七めし伝説
埼玉県の小川町にある割烹旅館「二葉」には鉄舟が好んだ料理「忠七めし」が伝わっています。
米にわさび、海苔、ゆず、ネギなどを散らし、かつおだしをかける料理なのですが、
鉄舟は、二葉の主人に対し、「料理に禅味を盛り込め」と言ったらしいのです。
そこで主人は、剣=わさび、禅=海苔、書=ゆず、で表現した!という逸話が残っています。
鉄舟先生らしいですね!
さらに、ゆで卵100個食べたととか(3日間吐き続けたらしいです・・・)とか、まんじゅうを100個食べたとか・・・。やることが大きい!
揮毫(きごう)
揮毫とは筆を振るって字を書くことです。
書の達人だった山岡鉄舟は、100万もの書を残したと言います。
木村屋の看板もその一つです。
扇子に揮毫して、その謝礼として道場の建設費としたり、貧しいものへ与えたりといった世の為になる資金としての役割もあったようです。
しかし、自分の為にはその謝礼は使わなかったため、いつも貧乏だったと言います。
やっぱり山岡鉄舟はそうでなくっちゃ!
死に方も男です!
引用:Wikipedia
明治21年、53歳で胃がんで亡くなります。
この時の死に方がまたかっこいいのです。
見舞客が訪れる中、「そろそろだな」と言って、死に装束に着替え、数珠と扇子を持ち、懐にお経を入れ、座禅を組み、皇居(江戸城)の方角を向いてそのままの姿で亡くなったのです。
伝説過ぎます!
そして、山岡鉄舟が残したものとは?
この名言が物語っています。
「金を積んでもって残す、子孫未だ必ずしも守らず。書を積んでもって残す、子孫未だ必ずしも読まず。陰徳を冥々の中に積むにしかず、もって子孫長久の計と成す」と。
金や書を子孫に残しても何の役にも立たない。人に知れず密かにする善行こそが役に立つ。と。ガツンと来ました!きちんと相続出来るものは、良い行いを自らがし続けることでしか得られないのでしょう。
最後に
幕末に幕臣でこれだけの肝の座った男がいた事は日本の誇りです!
そんな男が発した言葉だからとっても重みがあります。
江戸城が戦火にまみれなかったのは、山岡鉄舟のおかげでもあり、そのことで、日本は首都の機能を損なわずに新しい時代に入り、近代国家の仲間入りを果たせたと考えると、、、山岡様、本当にありがとうございます!と感謝の気持ちしかありません!