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終わりよければ全て良し

とはよく言われる言葉ですよね。

まあ、これは戦国時代とは関係ありませんが、、。(シェイクスピアの作品名)

日本語では「有終完美」ですね。

 

戦国時代というなかなかありえない状況の中、大名として生き延び、そして

亡くなっていった武将・大名たち。

 

今回はその言葉とは逆に、いまいち最期が良くなかった武将たちを6人まとめてみました。

ちょっと特殊な死に方をされた方をまとめましたので、否有終完美とさせていただきました。

 

うがった視線からの戦国武将の最期ですが、これもまた真実。

楽しんでください!

 

 

散った命の数だけドラマがあります!

戦国武将・戦国大名たちの意外な最期

今回は、戦場で華々しく散った!という死に方ではなく、

ええっ!そんな死に方ってあり?

みたいな死に方、または、死に様を激選してみました。

お楽しみください!

 

まず一人目。

やはり最初はこの人でしょう!

茶器と共に爆死!松永久秀(享年68歳)

松永久秀

引用:Wikipedia

室町幕府将軍足利義輝(剣豪将軍)を殺害したり、

東大寺大仏殿焼失事件など、悪名高き戦国大名です。

戦国時代で悪名度は戦国時代ナンバーワンでしょう!

 

そんな松永久秀だから、その死に様は壮絶で、独特でした。

1577年。当時飛ぶ鳥を落とす勢いの織田信長軍に松永久秀の城、

信貴山城は4万の兵で完全に包囲されます。

信長長男の信忠を総大将としたその軍の猛攻に、松永久秀は10日間ほど持ちこたえますが、

ついに落城。

信長は久秀が所有する茶器「平蜘蛛」を差し出せば助命をすると通告するのですが、

久秀はそれを拒否!

「平蜘蛛」と「茄子の茶壺」に火薬を詰め、点火して爆死しました!

日本で最初に爆死した人物であると今も語り継がれています。

そして、その爆死した日は奇しくも久秀が10年前東大寺大仏を焼いた日と同じ日だったのです、、、。

 

 

次はちょっと恥ずかしいきっかけで命を落としたこの人!

おならがきっかけ!?千葉邦胤(29歳)

下総(千葉県)千葉氏29代当主の千葉邦胤は1585年、就寝中に家臣の万五郎に殺害されてしまうのです。

 

その原因とは?なんと!お・な・ら!

 

元旦、新年の祝賀で家臣一同集まっていた所、千葉邦胤は上機嫌でした。

 

しかし食事の配膳係だった万五郎があろうことに大きなおならを2発してしまったのです。

千葉は烈火のごとく怒りまくります。

 

万五郎も素直に謝れば良いものを、言い訳をしてしまいます。

 

千葉はその態度にガチギレ!

万五郎を蹴っ飛ばし、今にも斬り殺そうとしそうな状況。

周りの重臣たちがたしなめその場は収まりますが、城に登城することは禁じられます。

 

その後、登城を赦された万五郎は、5月のある夜、千葉の寝所に侵入し千葉の身体を思いっきり刀で2度刺して絶命させてしまいます。

元旦の恨みがいまだに忘れられなかったようです。

 

(一説には、千葉と万五郎は恋人関係で、他の男に手を出した千葉に万五郎が怒ったという説も?)

しかしながらちょっとお恥ずかしいお話でした。

 

死の直前まで身体の心配!石田三成(享年41歳)

石田三成

引用:Wikipedia

関ヶ原の戦いの後、処刑を待つ石田三成は、警護の者に白湯を所望します。

がすげなく断られ、かわりに柿を勧められました。

しかし、三成は「柿は痰の毒だから要らない」と断ります。

警護のものが「もうじき処刑されるのに身体を気遣ってどうるすのだ?」と笑うと、三成は

「大志を持つものは、最期の瞬間まで命を惜しむものだ」と言い返したのでした。

気丈な心意気で妙に頑固な所を、死ぬ直前まで貫き通したのでした。

参照:映画「関ヶ原」岡田准一が演じた石田三成公と食べ物!

 

怨霊に悩まされて!小早川秀秋(享年21歳)

小早川秀秋

引用:Wikipedia

関ヶ原の戦いで、西軍から東軍に寝返り、東軍德川方の勝利の一因となった

小早川秀秋は、関ヶ原勝利の2年後に急死します。

 

死の直前には精神的に異常をきたしていたとも言われています。

 

それは、破れた西軍の主力メンバー大谷吉継や西軍の実質リーダー石田三成の怨霊だという説があります。

特に大谷吉継は「3年の間に祟りをなさん!」と言って死んでいったくらいですから本当に怨霊として

現れたのかも知れません。

吉継や三成の霊にうなされた小早川秀秋は、酒に入り浸り、そしてついには精神的におかしくなり、

そして21歳の若さであの世に行ってしまったのです。

人生の選択って難しいものですね!

 

 

人生唯一の傷が原因!本多忠勝(享年63歳)

本田忠勝

引用:Wikipedia

徳川家康の家臣の中でも四天王と言われ、数多くの武功を挙げた本多忠勝。

戦場ではただ一度の傷も負うことのないとして恐れられていました。

しかし、63歳の時、戦場では傷を負うことのなかった忠勝が、

誤って小刀で持ち物に名前を彫っている時に指に切り傷を付けてしまうのです。

 

人生で唯一のその傷を見た忠勝は、「傷を負っては本多忠勝も終わりだな」と嘆き、

その数日後に亡くなります。

その傷が感染症になって亡くなったとも、他の病気で一気に免疫力が落ちて亡くなったとも言われます。

でも、生きる事を続けられないほど、ショックだったことは容易に想像できます。

 

ご冥福をお祈りします。

参照:人気戦国武将ランキングベスト10!最強は誰?

尿管結石?胃がん?虫?を掻きむしって!丹羽長秀(享年51歳)

丹羽長秀

引用:Wikipedia

織田信長の重臣、丹羽長秀は柴田勝家とともに双璧と呼ばれた素晴らしい武将でした。

しかし、本能寺の変で主君織田信長が明智光秀に討たれ、山崎の戦いで明智光秀が羽柴秀吉に討たれ、清州会議で

羽柴秀吉が天下の主導権を握ると、もともと織田信長の家臣であるはずの秀吉が、どうも天下を狙っていることが

明らかになってくるのです。

 

同じく織田信長の家臣であった丹羽長秀は秀吉の行動に納得いきませんでした。織田信長をないがしろに

しすぎだったからです。

 

そこで、長秀が死ぬ時、割腹自殺して、内臓を秀吉に送りつけたと言います。

(内臓とも、虫とも言われています)

よっぽど怒り心頭だったのでしょう。

参照:織田家臣野球チームベストメンバー9!最強ランキング付!

まとめ

戦国武将・戦国大名たちのちょっと変わった最期を見てきました。

ここには様々なドラマが見え隠れしていますね。

終わりが良くなかった武将たちをご紹介しましたので、若干すっきりしないところもあるやも知れません。

でも、登りつめていった武将、大名たちの影に、今回の人たちがいなければ輝けなかったのも事実。

ご冥福をお祈り申し上げます。