「石の声を聴き、石に従う」
上の画像は比叡山坂本の通りの石垣です。
自然の石を巧みに組み合わせて石垣をつくる石垣職人「穴太衆」が作った作品です。
現代でも地震に強い工法ということで評価が高まっています!
今回は、「穴太衆」とはどんな方たちだったのか?を紐解いてみたいと思います!
穴太衆の代表作「安土城」
穴太衆が作った石垣で有名なものに織田信長の城、「安土城」があります。
参照:日本100名城安土城は織田信長が住んでいた!アクセスと周辺施設ご紹介!
安土城の石垣を穴太衆が担当した経緯もなかなかすごいです。
安土城を担当した経緯
織田信長が比叡山を焼き討ちにした後の後処理を家臣の丹羽長秀が担当していました。
参照:織田家臣野球チームベストメンバー9!最強ランキング付!
燃え尽きてしまった建物の後始末をしている時、石垣を崩そうとしたのですが、
全く崩れなかったのです。
その石垣を作ったのは何を隠そう「穴太衆」だったのです。
どんだけって感じです!
その石垣の堅牢さに丹羽長秀は驚き、それを上司の織田信長に伝えました。
そうして比叡山に使われていた石垣の堅牢なことを知った信長が
自らの城、「安土城」を築城の際、石垣は穴太衆に任せて高くて丈夫な城壁を作ったのです。
(安土城は日本で最初の石垣の上に天主が乗るタイプの城です。穴太衆の石垣が必須だったのです!)
上は安土城の石垣です。整然としていないように見えますが、その実すごい強固な石垣に
仕上がっているのですね!
この安土城での仕事の実績が全国的に穴太衆の名前が知れ渡るようになったのです!
他に、天空の山城「竹田城」や井伊家の城「彦根城」、世界遺産「姫路城」など
著名な城を多く手がけています。もちろん比叡山延暦寺や坂本城もですね!
参照:西教寺は明智光秀ゆかりの地!墓・辞世の句・煕子伝説・馬の鞍・坂本城も!
まさに全国レベルの集団。一世風靡とはこのこと。シェア率相当高かったでしょう。
彦根城の石垣も穴太衆!
参照:日本100名城国宝彦根城攻略!井伊直弼の生まれた場所!ひこにゃんは?
それでは、穴太衆のルーツを紐解いてみましょう。
穴太衆の歴史は朝鮮半島にあり?
穴太衆の技術のルーツは、朝鮮半島の百済や高麗にありました。
6・7世紀、比叡山の隣町、穴太に、穴太古墳群という遺跡がありました。
そこに使われた石の積み方が朝鮮の百済や高麗に見られる技法に良く似ているのです!
※野面石の乱積み構架法と呼ばれています
えっ!朝鮮から?って思いますが、良い技術はどんどん取り入れるその姿勢は
伝統的に日本人の良いところでしょう。
これは朝鮮半島から渡ってきた氏族たちが伝来した技術で造られていたことを物語っていますね。
その後比叡山や坂本の歴史とともに、石垣技術者集団が形成されていきました。
特に伝教大師・最澄が比叡山延暦寺を開創する際には、土木工事を請負、特に石垣づくり
を担当しその実績を積んでいったのです。
そして戦国時代の安土城にて全国へでていくことになるのです!
では、現在の穴太衆はどうしているのでしょうか?
現在の穴太衆は?
冒頭にあるように、「石の声を聴き、石に従う」という自然の石を巧みに組み合わせて
石垣をつくる技法をずーっと伝統的に取り入れています。
「石の声を聴く」ってすごいレベルだなって思います!
明治時代には近代化と共に需要が激減し、石工も縮小しましたが、
20世紀にはいって史跡などの修復工事に穴太衆の野面積みの技術が
再認識されるようになっていくのです。
コンクリートより強固!?
2003年に新名神高速道路と歩道の間の壁の構造に穴太衆積みが採用されたのですが、
その際、コンクリートと同じ条件で強度の実験が行われています。
250トンの荷重をかける実験です。
途中でコンクリートは壊れそうになりますが、穴太積みの方は耐えます。
結果、1,5倍以上の耐荷力が証明されたのです。
歴史としたら1500年以上前。城の石垣としても400年以上前から続く技術が
現在も色褪せずに通用するって事に脱帽です!
今も近江に穴太衆石匠・粟田さんが引き続きその伝統を守られています。
公式ホームページ→粟田建設
最後に
穴太衆の石垣について見てきました。
歴史があり、そして今も伝統して残る穴太衆の石垣。
「石に聴き、石に従う」という伝統は今も引き継がれていることが良く分かりました。
人工的なものが増えた現在だからこそ、
逆に自然に力を活用した技術が見直されているのかもしれません。
今後もその技術を活かして、地震大国日本の建造物の安全に貢献していって欲しいと思います!
[…] 穴太衆とは […]