明智光秀と言えば本能寺の変を思い浮かべる方が多いことでしょう。
引用:Wikipedia
2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公でもありますね!
今回は、明智光秀に大いに関係がある明智光秀の菩提寺、西教寺と明智光秀の居城、坂本城について、書いてみたいと思います。
また、西教寺の住職さんにもお話を聞くことが出来ましたので、それも併せてご紹介出来ればと
思います!
それでは行ってきましょう!
明智光秀の菩提寺「西教寺」
西教寺は、琵琶湖の近く、比叡山の隣にあり、天台真盛宗の総本山で、
聖徳太子が創立したとの言い伝えがある、歴史がある仏教寺院です。
総門です!趣があります!
明智光秀も何度もこの門をくぐったことでしょう!
(この門は明智光秀の居城、坂本城からの移築です!)
聖徳太子が開いたとは!由緒ありますね!
門をくぐって両側にある子院を見ながら坂道を登り、
さらに急な階段を登ると、西教寺のメインの場所があります。
木のトンネルです。雨が降ってもそこそこ守ってくれます。
途中、念仏道場もありました!
その小高い場所には、明智光秀一族の墓、明智光秀辞世の句、本堂、伏見城から移築した
客殿、小堀遠州作の庭、など見所がたくさんありました。
これらを見るだけで、もうクラクラしちゃいます!
明智光秀一族の墓
明智光秀が何故ここを菩提寺としたか?
かつて明智光秀の上司、織田信長が、比叡山を焼き討ちにした際、
この西教寺も焼失してしまいました。
焼き討ち後、明智光秀はこの西教寺があるこの地を治めるのですが、居城坂本城に地理的に
近い、西教寺を菩提寺と決め、復興のために大いに援助しました。
結果、3年で本堂まで復興したと言います。(ちなみに比叡山の復興はその倍以上かかっていたようです)
明智家にとってかなり関わりが深いお寺なのです!
参照:明智光秀のゆかりの地を紹介!坂本城や本能寺との関わりは?
明智光秀妻煕子の墓
明智光秀より6年前に亡くなった正室煕子もこの西教寺に眠ります。
明智光秀がこの煕子を愛していたエピソードを住職様から聞くことが出来ましたのでご紹介しますね。
参照:明智光秀子孫にタレントクリスペプラーが!あの人も家系図に?
1,領主ながら葬儀に参列
西教寺がある坂本の地は、伝統的に夫は葬儀に参列しないという暗黙のルールがあるようなのです。
しかし、妻煕子を愛していた光秀は、領主でありながら、堂々とそのルールを破り、煕子の葬儀に参列
し、祀ったという話です。自分の正しいと思った道を行く、光秀らしい話ですね!
2,煕子の髪の話
若かりし明智光秀が居城を追われ、浪人していた時期がありました。
浪人ですから禄もなく、かなり生活は困窮していました。
そんな折、連歌会を開くことになったのですが、おもてなす料理を出すお金もない状態。
そこで、妻煕子は、自らの黒髪を売って、見事夫に恥を欠かすことなく面目を保ったという美談です。
内助の功ですね!
3,松尾芭蕉も絶賛
時は流れ江戸時代。
この地を訪れた江戸時代の俳諧師、松尾芭蕉は、髪を売って光秀を助けたという、煕子のエピソードを聞き、感動し
一句作ったのです。
「月さびよ 明智の妻の はなしせん」
という句です。
「月さびよ」という部分は、「月が寂しげ」という意味と「わびさびのさび」という2つの意味が込められている
ようで、月の下で芭蕉が煕子のはなしを得意げに話した様子が伺えます。
松尾芭蕉は、生涯に700ほどの句を残していますが、そのうち女性に関する句はこの一句しかなく、
相当煕子のエピソードに感動したのだろうと住職さんはおっしゃっていました。
煕子さんは妻の鏡ですね!
明智光秀辞世の句
境内には明智光秀の辞世の句が残されています。
「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」
意味は、「修業の道には順縁と逆縁の2つの道がある。しかしそれらの道は実は1つで、人間の心の源に
つながる大道である。五十五年の我が人生の夢も覚めてみれば一元に帰すものだ」との意味のようです。
表裏一体、真実は一つっていう意味に私は取りました。
明智光秀のとった行動(本能寺の変)を私は理解しようと思います!
参照:本能寺の変の真実とは?智将明智光秀が下した決断の理由!
明智左馬助の馬鞍
引用:Wikipedia
お堂の中に、明智光秀の娘婿で重臣だった明智左馬助の伝説の馬鞍が残されていました。
どんな伝説かと言いますと、
山崎の戦いの際、安土城にいた左馬助が、敗退を聞いて、坂本城にいる明智光秀の家族を守らなければと
坂本城に移動した際、陸路は危ないということで、湖の中を馬とともに泳いで渡ったという伝説です。
その際に乗っていた馬の鞍が残されていたのです。
その鞍を目の前にして、「この鞍を背負っていた馬が、左馬助を坂本城までたどり着かせたのだな!」
ととても感慨深かく、涙ちょちょぎれそうになりましたあ!
参照:明智光秀の家臣・本能寺の変を共有した5人の桔梗武士達!
さらに客殿が奥にあるのですが、この客殿、ただの客殿ではありません。
なんと、豊臣秀吉が築城した伏見城から移築したものだと言うのです!
伏見城から移築した客殿
豊臣秀吉が亡くなった場所であり、
関ヶ原の戦いの前哨戦で、徳川軍の鳥居元忠の血天井などでも知られる伏見城。
そこから移築された客殿が公開されています。(中は撮影NGです)
西教寺に寄進したのが、大谷刑部吉隆の母親達だと聞きました!なんかすごい!
見学しながら、「ここに豊臣秀吉が座っていたんだなあ。」とか、「屏風は当時はかなりきらびやかだったんだろうな?」
とか、思いを馳せながら見させてもらいました。完全にタイムトリップ状態です。
庭園は小堀遠州作
安土桃山から江戸時代に活躍した大名であり、作庭家の小堀遠州が作った庭園です。
琵琶湖をイメージして作ったといわれる庭園は、古田織部の影響を受けつつ、庭園に直線を導入したことにあるよ
うです。詳しくはわかりませんでしたが、庭園を見ていると、とっても落ち着くのは400年の時を超えて
伝わるパワーなのでしょう。しかも雨が降っていて尚更風流さに磨きがかかっていました!
石垣で著名な穴太衆の庭園も公開!
安土城の石垣や、比叡山へ向かう坂道の両脇にある石垣など、野面積みという手法を使って
各地の著名な建造物の石垣を担当した集団が穴太衆です。
その石垣のプロがつくった庭園。
小堀遠州とはまた違った趣を感じますね!
参照:穴太衆とは?野面石の積み石垣は安土城や比叡山坂本に使用!?
最後にもう一度、総門をカシャ!
これが坂本城の入り口だったのか!明智光秀が馬に乗って颯爽と城の中に入っていく姿が目に浮かびます!
この門をイメージしながら坂本城址へ行って見ます!
坂本城跡へ
日吉東照宮に立ち寄って、その後坂本城跡へ向かいました。
日吉東照宮からの琵琶湖の眺めです。
日光東照宮のモデルになる東照宮です。
日光東照宮を作った天海が実は明智光秀説や、明智左馬助説がありますが、
それを考えてしまいますね。
そしてやってきました坂本城跡!
坂本城跡
1571年の比叡山焼き討ち後に明智光秀は坂本城を築城しました。
ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの話では、安土城に次ぐ絢爛な水城だったようです。
参照:日本100名城安土城は織田信長が住んでいた!アクセスと周辺施設ご紹介!
今は、石垣(穴太衆?)は琵琶湖に埋もれています。
一度、琵琶湖が渇水したときに、現れたのです!その時の画像を坂本観光案内所の方に
見せてもらいました。感動!!
(今は、琵琶湖の水量を調整しているので御目見かかることはないようですが)
織田信長琵琶湖4大城ネットワーク(安土、長浜、大溝、坂本)の他の城の記事はこちら
参照:日本100名城安土城は織田信長が住んでいた!アクセスと周辺施設ご紹介!
明智塚
そして、坂本城内にあった明智塚!
光秀の持つ宝物を当時埋めた場所です。
(光秀が持つ脇差名刀、正宗十哲の伝説の刀工、郷義弘なども埋められたといいます)
左馬助が坂本城落城の際、織田の宿将、堀秀政に宝物を引き渡しましたが、
その中の一部が埋められたのでしょう!
左馬助が泣く泣く刀を埋める場面が脳裏に浮かんできます。ううっ。
最後に
明智光秀ゆかりの地、西教寺と坂本城を見てまいりました。
何を考えて本能寺の変を起こし、どのような思いで妻を愛し、民に治世を敷いたのか?など、
想うところは様々でした。
でも、本当に良いところだと感じました。
風景も、水もキレイですごいパワースポットだと思いますね。
基本情報
西教寺
アクセス→JR湖西線「比叡山坂本駅」下車。バス7分か徒歩30分
(バスは本当に本数少ないです。)
拝観料→500円
住所→滋賀県大津市坂本5-13-1
電話番号→077-578-3418
地図
坂本城址
地図