戦国時代最強軍団と言えばああ?

「甲斐(山梨)の武田信玄率いる武田家」!

そして、それを影から支えていたのはあ?

「武田家の家臣、真田家の忍者達」でした!

※真田家は、武田家二十四将の真田幸隆・昌幸親子を指します。

 

どのように忍者たちは武田家、真田家を支えていたのでしょうか?

 

忍者達は、敵の情報を確実に仕入れることを、最大の仕事としていました。

戦国時代はまさに情報戦。(今と一緒ですね!)

 

「己を知り、相手を知れば、百戦して危うからず」とは、中国の孫氏の言葉ですが、

武田家の当主、武田信玄は、情報を仕入れ、的確な戦術でなるべく最小限の損害で相手に勝つやり方を

常としていました。

 

この武田信玄のやり方に忍者の情報収集能力は必要不可欠だったのです!

 

そして、その忍者たちを支配していたのが「出浦盛清」だったのです。

今回、武田家・真田家の強さの秘密、忍者「三ツ者」を統括していた

出浦盛清の逸話をご紹介して行きます。

是非楽しみながらお読みいただければと思います!

出浦対馬守盛清(いでうらつしまのかみもりきよ)

出浦盛清は、武田信玄が組織した「三ツ者」と呼ばれる忍者集団の支配人です。

※三ツ者とは見方、間見、目付の三職分に携わる者の総称です。

 

 

出浦盛清は、もともと信濃(長野)の出身で、はじめは信濃の豪族、村上義清支配下にいました。

 

村上義清が武田信玄に敗れると武田家に仕えるようになります。

 

そこから長じて忍者としての修行をして、「三ツ者」と言われる武田家の忍者集団を統率していたようで

す。その統率方法がなかなか理にかなっているものなので、見てみましょう。

参照記事:武田信玄まとめまるごと!戦国最強軍団親分の全記事一覧!

武田家忍者統率者として

武田信玄は、冒頭にも述べましたように、とにかく情報収集に重きをおいた武将で、その情報収集の

的確さは「足なが坊主」と言われるほどでした。

(山国の甲斐にいながら全国の情報を知っているという意味。全国を廻っているかの如く知っているということ)

 

その情報が故に、武田信玄がおもに指揮した戦いでは80勝位(負けは諸説ありますが2.3度です)する

ほどの常勝率を誇っていました。

 

まさに武田軍戦国最強を影で支えたのが、武田家の忍者たちで、そのリーダー、出浦盛清は正にその要だったのです。

 

すごい、偉人です!

忍者集団統率者としての厳しさとは?

200人程いたと言われる、武田家忍者集団「三ツ者」を統率していた出浦盛清が特にこだわっていた事がありました。

それは、「的確で嘘のない情報を、確実に武田信玄にお伝えすること」、です。

 

このためには、部下の忍者たちが持ち寄る情報が本当に嘘偽りのないものかどうか、確かめておく必要があります。

 

というのは、中には適当なでっち上げた情報を挙げてくる忍者もいたからなのです。

また、敵の忍者が紛れ込んでいる可能性も有りました。

 

適当な情報が武田信玄にもたらされては、戦に負け、武田家は路頭に迷うことになりかねません。

そこで出浦盛清は情報の担保を自ら行ったのです。

それはこうです。

出浦盛清流、情報裏付け方法

例えば、今度ある城を攻略するので、その城の情報を得るように武田信玄より命じられたとします。

 

まず、出浦盛清は適任の忍者に任務を与え、実行させます。

 

と、同時に出浦盛清自身が、任務を与えた忍者に先んじて城へ情報を取りに行ってしまうのです。

 

そして、任務から帰ってきた忍者からの報告が、自らの調べた情報と違っていた場合、

その忍者を成敗し見せしめにしてしまうのです。

 

すごいですね!

 

これは、もし忍者が嘘の情報を出してきたらそれを防ぐことが出来ますし、また、忍者が敵が送り込んだスパイだとしたら、

それも防ぐことが出来たわけです。

 

このように、出浦盛清が部下の忍者を統率し、きちんとした情報を武田信玄に上げていたからこその戦国最強軍団だったという

事がおわかりになったと思います。裏では、結構大変な思いをしているのですね!

織田家武将森長可を護衛する!

引用:wikipedia

時代は過ぎ、武田家が滅び、織田軍が信濃を治めていた頃、織田の武将、森長可(森蘭丸の兄)に出浦盛清

は仕えていました。

しかし、織田信長が本能寺の変で自害すると、信濃の周りの武将たちは、森長可に反旗を翻しました。

 

そんな中、森長可は織田信長の弔い合戦に出発しました。

 

行く手は敵だらけ。

 

これには出浦盛清も同情。

 

本拠地の美濃金山城に無事に帰れるように、護衛して差し上げたとのこと。

男ですね。

参照記事:武田騎馬隊に使用され、戦国武将に愛された甲斐の名馬ご紹介!

真田家に仕える

森長可が美濃(岐阜)に帰ると、真田家の真田昌幸がその後を治めるようになりました。

そして、出浦盛清も真田昌幸に仕えることとなるのです。

 

ここでも、忍び集団の頭領として忍者を養成しながら、岩櫃城(群馬県吾妻郡)に居住して、

北条氏攻めに参加し活躍していくのでした。

 

この辺りは、大河ドラマ「真田丸」でもでてきていましたが、寺島進演じる出浦盛清は

かなりすごみがあり、本物もこんな感じだったのだろうなと思わせてくれました。

 

ちなみに、真田十勇士で知られる雲隠才蔵のモデルが出浦盛清だそうです。

※雲隠才蔵を主人公の小説「風神の門」はおすすめです!

最後に

出浦盛清は、武田信玄、森長可、真田昌幸と主君を変えながらも、忍者を統括する仕事を

生涯全うしていきました。

戦国時代、忍者の仕事、役割は実に重要で、その情報をもとに、戦争を仕掛けたり、噂をばらまいたり、裏

切り工作をしたりと戦術を繰り広げていったわけなのです。

 

しかし、忍者もすべてが良質だったわけではなく、出浦盛清のように、忍者がきちんとした情報を

得てくるかどうかを精査する役割が必要不可欠だったのです。

 

出浦盛清がいなければ、武田信玄がこれほどまでに戦に勝利出来なかったかも知れませんね!