戦国時代をこよなく愛する激務ファミレス店長南昌幸がお届けする

ブログにご訪問頂きましてありがとうございます!!!

はじめに映画の演者の早口対応を!

映画関ケ原!一度見ましたが、私の脳裏は演者の早口が頭のなかで混乱中!

早くもう一度じっくりみたい!!

しかし文字通り激務のためなかなか行けない!!!明日は絶対行ってやる!!

しかも、日本語字幕がある映画館に!字幕さえあれば内容が理解できる!

 

 

ということで日本語字幕をやっている映画館をご紹介しています!→こちらからです

「関ヶ原」についての簡単な解説は、『関ケ原の戦い!合戦に至る経緯を分かりやすく5分でまとめました!映画「関ケ原」を10倍楽しめます!』をご覧ください。

 

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映画「関ケ原」の宇喜多秀家公役は生島翔さん

映画本編では宇喜多秀家公はほんのすこしの登場でちょっと悲しかったですねえ。

生島ヒロシさんの息子、生島翔さんが演じていました!

戦国の貴公子宇喜多秀家公ですから、やはりイケメンがお似合いでした!

関ケ原のご説明をしています→こちらからです

ちょっと優しすぎるお顔立ちかもしれませんがね!そこはお愛嬌です!

宇喜多秀家公とは?

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戦国の梟雄」(残忍で強く荒々しいこと)宇喜多直家公の次男として備前(岡山県)に

生まれます。母は、福といい、絶世の美女だったといいます。

 

(岡山いいところですよね!岡山城は一度だけ行った事がありますが、黒い城壁が

特徴的な素晴らしいお城でした!)

 

秀家公が10歳の時に父直家公は53歳で亡くなり、若くして家督を継ぐことになります。

 

ちょどそんな時、豊臣秀吉公が毛利攻めの途中岡山を訪れていて、その機会に

宇喜多家は後見人は豊臣秀吉公に依頼します。

 

さらに2年後、備中高松城(水攻めで落城)攻めの途中岡山によった時に、

34歳になった絶世の美女、福と豊臣秀吉公は会い、一発で心奪われ即側室にしてしまいました!

(どれほどの美女だったのか!気になります!)

 

その後、秀吉公から57万石(現代で換算すると420億くらいの収入、

徳川家康公の江戸が250万石で1875億ですからそれに比べても10代でいきなり大企業の社長になった感覚です!)を領有する大大名になります!

普通はありえないのですが、ひとえに母の福が秀吉公に伽(夜のお相手)をしている時に

息子のことを良くするように言ったのが大きく影響していると思います。

 

元服すると共に名前を秀家と名乗ります。(秀家の秀は秀吉の秀)

その後も、豊臣秀吉公の九州征伐では家老・戸川達安(みちやす)公の活躍もあり、島津軍を敗退させたり、

京都聚楽第で後陽成天皇の前にて和歌を読み上げたりして文才も発揮したりしていました。

 

すっかり豊臣秀吉公のお気に入りになった秀家公は17歳の時、加賀藩の前田利家公の4女で豊臣秀吉公の養女であります、豪姫」(15歳)と結婚をします

 

豪姫も秀吉公から「男だったら関白を譲っていた」と賜るくらいの才女で、イケメンで長身(177センチあったといいます当時の平均は156センチ程度)の秀家公とは良いカップルでした!

そんな豊臣秀吉公お気に入りの秀家公は、朝鮮戦争の時には総司令官を命じられ、それを家臣の活躍により

こなし、さらに秀吉公病気の後は、豊臣5大老にも若干24歳で加えられることとなります。

((他の4人の大老は関東の徳川家康公、加賀(石川県)の前田利家公(舅ですね)、越後(新潟県)の上杉景勝公(上杉謙信公の後継者で直江兼続公の上司)、中国地方の毛利輝元公(豊臣軍と何度も戦を交わした間柄ですが、今は服従しています)といった超実力者もしくは大大名揃いのベテラン勢です))

 

とここまでは異例の出世街道を歩んでいくのですけれど、秀吉公が死去し、利家公が死去してからは、

歯車が狂い始めます。

 

お家騒動が勃発し、その仲介を他の大名に頼まなければならないほど混乱を極めました。

(これにより今まで武勲を挙げてくれていた家臣が去っていきます悲)

 

ご自身の素行もなかなかの豪奢好みで、ツケを領民に回したり、鷹狩の餌を領民に出させたりと

悪政が続いたりしました。(領民あっての領主ですね!それを忘れてはなりません)

 

その後の関ケ原の戦いでは西軍の主力として東軍福島正則公と激戦を繰り広げます。

相手の有力武将、可児才蔵公も苦戦するくらい宇喜多家の家臣明石全登公は善戦しますが、

小早川秀秋公の裏切りにより、総崩れ、敗走せざるを得なくなります。

(裏切りさえなければ、もしかしたら、、、、)

 

関ケ原付近の伊吹山で40日間匿われ、京都で敵方に見つけられなながら

薩摩(鹿児島)に逃げ込みます。(すごい強運の持ち主だと思います!

他の西軍武将で唯一ですね)

 

その後、家康公に身柄をわたされますが、妻の本家である前田家の命乞いにより

死罪は免れ、八丈島ヘ流され、その地で50年ほど過ごし、84歳の生涯を終えます。

(前田家さまさまです!そして当時としては長生きですね!

健康マニアの徳川家康公ですら75歳ですから!)

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側室をとらず、正室の豪姫一筋だった?宇喜多秀家公!

宇喜多秀家公は戦国時代の大名ですが、当時大名の皆さんは、正規の奥様(正室)

の他に、妻を娶ることが(側室)出来ました。といいますか、やっていました。

 

お家を存続させることが必須の戦国時代において、子供がいないと後継が出来なくなり、

お家断絶!と相成ってしまいます。すればその家に仕える人が途方に暮れてしまいます。

 

もちろん「養子」という方法もありますが、やはり血筋が一番強いですし、

自分の血を分けた子供に後を継がせたいわけです。

 

また、政略結婚などに子どもを利用するという為に産ませる必要もありました。

 

子供は多ければ多いほど利用価値がある、という考えが強い戦国大名の間に、

家の組織としての役割や存在が大きい正室の他に、子どもを生む役割が主な

側室の制度は広がっていました。

 

宇喜多秀家公はそんな中、正室である豪姫一筋で、側室は一切持ちませんでした!

(隠し子がいたという噂はありますが、、、)

正室を大事にした、今で言う良い夫、良きパパだったのでしょう!

奥様豪姫病弱解消伝説

病弱だった豪姫は、出産をするたびに大病を患っていたと言われています。

その原因を狐に取り憑かれたからだとした養父、豊臣秀吉公は、

全国に狐狩りの文書を出したといいます。

 

さすが権力者は違いますね!やることがすごい!

そして豊臣秀吉公にそこまでやらせる豪姫への愛情っぷりがすごいです!

 

もし、豪姫がこの時大病が原因でなくなっていたら、

お稲荷さん(狐)を祀る神社は全て取り壊されていたでしょう!

 

しかし、大病を患いながらも、4人の子どもを産みます!

愛の結晶ですね!

 

豪姫との密会伝説

関ケ原の敗戦で落ち延びていた秀家公は、その途中で大阪の備前屋敷に寄ります。

ここで、豪姫と密会を実現します!

 

逃亡中の中の密会伝説!

なかなかスリリングですね!さぞ燃え上がったことでしょう!

 

その愛の結晶は、しっかりと結実します!

その時の子、第4子の先勝院は皇族に嫁ぐことになるのです。

 

まとめ

宇喜多秀家公は、戦国時代に生まれ、戦国の梟雄の父、絶世の美女の母のもと

その運命を一身に背負い育っていきます。

 

そんな中前田利家公の娘で豊臣秀吉公の養女の豪姫と結婚します。

仲睦まじく、4人の子どもをもうけます。

秀家公は側室を持たず、豪姫を大事にしたといいます。

 

ただ、子供が生まれるたび豪姫が大病を患うので、原因の狐を退治する!

という文書が養父の秀吉公から出たのには驚きました!

 

関ケ原の戦い敗れ敗走している間、豪姫と密会する伝説もありました。

 

流された先の八丈島で豪姫と会った記録はありませんが、仲良く夫婦の像が

現在の八丈島に建っているのをみると、当時の仲良さが想像出来ます!!!