戦国時代をこよなく愛する激務ファミレス店長、南昌幸がお届けする
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今回は、公開中の映画、「関ケ原」の東軍大将、徳川家康公の健康法について
書いていこうと思います!
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「関ヶ原」についての簡単な解説は、『関ケ原の戦い!合戦に至る経緯を分かりやすく5分でまとめました!映画「関ケ原」を10倍楽しめます!』をご覧ください。
なぜ、これを書こうと思ったかといいますと、最近自分が運動をしていないなあ、と
感じたことが最大のきっかけです。
仕事では身体を動かしますので、なんとか健康は維持できているのですが、
もっと、本来ならば身体にもっと良い運動の仕方があるのではないか?
と考えている時に、家康公は鷹狩をよくしていた、ということはなんとなく知っていたのですが、
その効能や、効果、やっていた場所など、あまり詳しく知りませんでした。
もちろん現代鷹狩は簡単に出来るはずもないのですが、参考になる点もあろうかと思いました。
なので、鷹狩について調べてみることにした次第です!
現代にもなにかしら参考になる考え方などあるかもしれませんので、
楽しみにお読みいただければなと思います!
徳川家康公はどの位健康だったのか?
とにかく当時としては長寿でした!
75歳まで生きられたのですから!
しかも病気で弱っていたわけでなくものすごく健康な状態で、です!
他の戦国武将で戦死や自害以外で亡くなった方を挙げてみますと、
毛利元就公74歳、伊達政宗公68歳、豊臣秀吉公61歳、前田利家公60歳、
北条氏康公56歳、武田信玄51歳、上杉謙信48歳となっていますので、
比べると家康公は長寿だったことがわかりますね!
(参考に江戸時代将軍は15人いましたが、家康公より長生きしたのは15代慶喜公
の77歳お一人だけでした!)
最後の合戦「大阪夏の陣」は1616年で亡くなる1年前で、晩年まで戦争に参加していました!
健康でなければ戦争なんていけませんよね!
また、病気に関しても、44歳の時に背中に大きな腫瘍が出来て以降、
大きな病気もなく、健康そのものだったといいます。
精力も旺盛で、75歳で亡くなる時に一番若い側室は20歳だったといいます。
なんと、55歳差です!気持ちもかなり若い!!!!
そんな健康な家康公をもう少し紐解いて行きましょう。
徳川家康公について簡単にご説明します
本当に簡単にご説明しますと、いちばん有名なのは、江戸幕府を開いたお方ということです。
人柄を表した有名な歌がありますのでご紹介いたします!
「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」
→実際、幼き頃の今川家への人質時代、織田との同盟では息子を殺さざるをえず、
秀吉公には三河から江戸へ左遷させられ、と様々な苦難を耐え続けて天下を待ち続けます!
その流れを上手く表現したのが下になります!
「織田がつき、羽柴(豊臣)がこねし天下餅、座りしままに喰うは徳川」
最後には徳川家の天下になるのですが、耐え忍び、試行錯誤した結果なので当然のことでしょう!
最後は勝った徳川家康公。そして70過ぎまで当時としては長生きをした
その秘訣の一つ、鷹狩の効用について書いていきたいと思います!
徳川家康公の鷹狩への考え方
ここに関ケ原直前のエピソードがありますので是非ご紹介致しますね!
関ケ原の戦い前、徳川連合軍は、上杉征伐に向け、山形方面に向っていました。
そんなおり、家康公は、軍議などそっちのけで、鷹狩ばかりやっていたそうです。
それに見かねた部下の本多忠勝公は家康公に対して苦言を呈したもよう。
家康公は、返す言葉で、鷹狩の効能を語りました!
それをご紹介しますね!
鷹狩は、
1,筋骨を働かせて、手足を俊敏にさせる(戦場で体が動かなければ生き残れません!)
2,風寒炎暑も厭わず、体を動かすので病気を予防する(体の季節対応機能の発達です!)
3,朝早起きするから胃もたれせず、朝食も上手い(美味しく食べる秘訣です)
4,夜は疲れて眠るので、女の事を考えずに済む(熟睡できることで疲れをとり、成長ホルモンの
分泌も促せます!)
5,家人の動きをチェックし同時に鍛えられる(直接指導することも出来ますね!)
6,普段動かない女性たちも運動出来る(運動する機会を公に与えてくれました)
7,下人の苦しみや士風も察知することが出来る(現場での情報を手に入れられる。
事件は会議室で起こっているんじゃない?!)
と、自分の健康に対してここまで深く考えて鷹狩を行っていた事が分かります!
また他にも様々な目的があって鷹狩を行っていた事が明らかになっています!
さすが、徳川家康公ですね!
現代でいえば、会社でしたら、部下と一緒に休みの日にお得意様のゆかりの地でゴルフをしたりする
といった感じでしょうか?(ちょっと軽い?)
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そもそも鷹狩ってどんなの?
一言で言えば、「鷹を使った狩猟」です。
訓練された鷹を用い、鳥や、哺乳類を追い詰め、弓や槍などで仕留める行為の事を言います。
起源は古く、紀元前3000年頃のモンゴルあたりが発祥の地と言われるくらい歴史はあります。
日本では、355年に仁徳天皇の時代に行われたことが日本書紀に記録されています。
かなりスタンダードな狩りだったのですね!
次に、良く家康公が鷹狩をしていた場所をご紹介していきたいと思います
東金御殿とは?
東金御殿とは、家康公が鷹狩に行く時に、宿泊した場所、鷹狩御殿の名前です。
千葉県の東金市にありました。(今は高校になっています)
山と池に挟まれて城のような地形に作られています。
ここに到着した家康公は、近くで鷹狩をしました。
(現在それをよく表す地名が残っています。其の名も「家徳」!!!
ご推測の通り、「徳川家康」の文字からとっています。
また、「家康公が家臣にこの地の名を求めた時、未だ名のない地名のため咄嗟に答えた」ところから
「求名」という地名もこの頃に名付けられています。)
そして東金御殿の前の道は、船橋まで通じるのですが、ほぼ一直線の道です。
これは、家康公が鷹狩へ行くために作った道です。其の名も「御成街道」と言います!
さすが将軍です!
しかし、この地は元々が外様大名が治めていた土地。そこへの監視を怠らないためにも、
鷹狩や、一直線の道は欠かせなかったのだと思います!
まとめ
鷹狩を健康法としてだけでなく、家の強化としても利用した家康公。
また、鷹狩へ行くために、道を整えたり、御殿を築いたりとなかなか
破格な行動を起こせたのは、将軍ならではの力技ですね!
この、鷹狩の効用、スポーツに置き換えれば、活かすことが出来るかもです!
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