戦国時代に生きた日本人たちも、現在と同じく病気に悩まされていたのかなあ?なんて事をふと思いました。
今現代社会、インフルエンザだったり頭痛だったりノロウイルスだったり、色んな病気に悩まされる日々です。
病院でもらった薬を飲んだり、休養したり、栄養をつけたりして治していますけど、病気は無いに越したことはありません。
翻って戦国時代はどうだったのでしょう?
戦国時代の武将たちもやはり同じように病気にかかってはいたのでしょうけど、現代のように医療も進んでいない中、病気をどのように治していたんでしょうね?
どんな病気にかかっていたのでしょう?
そもそも病院ってあったんだろうか?
病気の原因は何だったんだろう?
今回は、こんな戦国時代の病気や病院に関する疑問を紐解いて見たいと思います!
まずは戦国時代のあった病気の原因について見てみましょう!
戦国時代の病気の原因
現在でも二人に一人はかかっているという病気「癌」です。
戦国時代のころから既にあったようですね。
では早速見てみましょう。
癌
癌は癌でも、食道がんや胃がんが多いです!
この原因はやはり食事にありますでしょう。
戦国時代の食べ物といえば、味噌や魚は良く食べられていましたが、それぞれ結構塩分入っています。
赤味噌100グラムで13グラムは塩が入っています。
通常、成人男性8グラムなので、すでに5グラムもオーバーですね。
塩のとりすぎで胃が弱ってしまった事が考えられます。
そして、お酒も原因の一つでしょう。
お酒の成分が代謝されるとアセトアルデヒドになります。このアセトアルデヒドが発がん性があるとされています。
お酒の飲み過ぎで、喉(食道)がやられちゃったのでしょう。
食べ物には注意しなければね!
参考記事:https://ganjoho.jp/public/pre_scr/cause_prevention/factor.html
http://www.eiyoukeisan.com/calorie/nut_list/salt.html
中風
中風とは現在で言う、脳梗塞であり、脳出血です。
中風もまた、食べ物やお酒が原因でしょう。
酒とそのつまみに塩辛いものなど組み合わせたら、ダブルパンチで体に悪影響があります。
血圧がどんどん上がっていくことを避けられないのでしょう。
程々に飲めばよいのですが、飲む量が半端でない大きな盃で飲む武将には歯止めが効きません!
お酒はコミュニケーションのために、またストレス解消のために、武将に欠かせませんでしたから、これは防げませんでした。
参考記事:https://www.asahibeer.co.jp/csr/tekisei/health/action.html
梅毒
梅毒とは性病のことですが、梅毒の原因とはなんでしょう?
梅毒トレポネーマという細菌が感染して発症する病気ですが、原因は、性的な接触による感染が主な原因です。
戦国時代は、この梅毒の細菌を持った人が多くいたのでしょう。母子感染などもありましたから、生まれつき梅毒を持っていた子供も多くいたのかも知れません。
そのためどんどん感染していったのだと言えます。
戦国時代の衆道(男性同士での性的接触)も多かったので、このあたりももしかしたら原因かも知れません。
参考記事:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E6%AF%92
では、次に、戦国時代、これらの病をどのように治していたのでしょうか?
実は日本最初の病院は戦国時代に出来ていました!
戦国時代の病院とは?
1557年、ポルトガル宣教師(キリスト教を伝える人)で医師のアルメイダが大分に日本初の病院を開業しました。(1557年とは、武田信玄が上杉謙信と川中島でバチバチ戦をやっている頃です)
キリスト教を信じる大名、大友宗麟の領地だから出来たことです。
そして病院の内容がすごく、外科、内科、ハンセン科を備えた総合病院!
いきなりすごいですねえ。(日本最古の医学校も併設されていた様子)
外科をアルメイダが担当し、内科を元僧侶の日本人キリシタンが担当する分業制。
外科と言っても、まだまだ呪術的な治療(祈祷や十字架などを用いる)がメインだったりしたようですが、。
それでも当時貧しかった大分の領民は大いに助けられたのだと思います。
では一方、日本の主流であった、東洋の医学に基づく治療方法はどうだったのでしょうか?
それで、見てみましょう。
戦国時代の病気の治し方は?
基本的には、漢方薬を投与して治すやり方でした。
植物や鉱物などの生薬を組合あわせ、その症状にあった漢方薬を作り出していったのです。
徳川家康なども自ら調合して薬を作っていたりしましたね。
※ちなみに生薬をすりつぶす器具のことを薬研(やげん)といいます。刀の薬研藤四郎、城の堀の薬研堀の由来だったりします。
戦国時代には、有名なお医者さんが登場し、漢方薬を用いて治す手法がブラッシュアップして取り入れられていきました。
では、どんなお医者さんがいたのか見てみましょう!
戦国時代の有名な医者は?
ここでは二人のお医者さんをご紹介しましょう!
曲直瀬道三(まなせどうさん)
医聖と呼ばれることもある曲直瀬道三は今までにあった観念的(現実に即していない)な医学を見直し、漢方医学を元とした具体的事実に基づいた医学を追求していました。
結果、医療効果が見られ、戦国武将や皇族から引っ張りだことなりました。
著名な戦国武将達を多く診断していまして、例を挙げると、織田信長、毛利元就、三好長慶、豊臣秀吉、蒲生氏郷、などを診察しています。錚々たるメンバーですね!
織田信長からは、褒美に東大寺にある香木を与えられるほどでした。
そして当時の病のほぼすべての治療法を著した内容の「啓迪集(けいてきしゅう)」という医学書は、後世に多大な影響を与えることになるのでした。
また、医学の学校も立ち上げ、多くの門人を育て上げていきました。これで、少しは当時の日本人の平均寿命が伸びたのでしょうね!
もうひとりご紹介しましょう。
永田徳本(ながたとくほん)
曲直瀬道三は結構著名なセレブ的な人たちを診察していましたが、永田徳本は庶民の味方って感じのお医者さんです。
元は、甲斐国(山梨)の武田家お抱えの医者でしたが、武田家滅亡後は諸国をめぐり、安価で診察をして回ったのです。
ちょっとした逸話をご紹介しましょう。
地名に「薬袋(みない)」という場所が山梨県にあるのですが、その由来がすごいです。
永田徳本は、安価な治療費で診察をし、病気を治していたので、薬を必要としませんでした。
そこから、薬要らず=薬袋を見ない、という所から「薬袋(みない)」と名付けられたという伝承があります。もし本当ならばすごいですね!
ちなみに肩こりなどに効く薬を製造している会社「トクホン」の名前の由来にもなっているようです。
関連記事:「薬袋」の読み方は?由来は武田信玄公?浅利四族の一角!
では最後に、今まで上げた病気にどんな戦国武将たちがかかっていたのか?を調べてみました。
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病気にかかった戦国武将達!
戦国時代に病気に苦しんでいた武将達を調べてみました!
癌で亡くなった戦国武将
結構たくさんいるんです。
丹羽長秀(胃がん)、武田信玄(胃がん)、毛利元就(食道がん)、徳川家康(胃がん)、伊達政宗(食道がん)・・と。
彼らは、今の病気で言えば「癌」で亡くなったと言われています。
それぞれ見てみましょう。
丹羽長秀(にわながひで)
織田信長の家臣であった丹羽長秀は癌により、かなり壮絶な死に方をしたと伝承されています。
なんと、自ら腹を切り、病巣を手で取り出して自害したと言われているのです。
ちょっとその場を想像しにくい話ではありますが、もし本当ならばすごすぎますね!
単に胃がんで死んだわけではないようです汗。
武田信玄(たけだしんげん)
戦国最強の騎馬隊を率いる甲斐の虎(山梨)の武田信玄です。
若い頃から、労咳を患っていたり、病気持ちではありました。
そんな病気の体を押して京都へ向け出陣した信玄は、三方原の戦いで徳川家康を粉砕したまでは良かったのですが、この後体調が急変し、信州駒場で亡くなります。癌は確実に進行していたのですね。
52歳でした。
遠征の疲れなども病状を悪化させる結果となったのでしょう。
本当は長生きしてその後の武田軍の進軍を見てみたかったですけど、病には勝てませんでした。
もし、永田徳本(当時の優れた医者)が戦についていったならもしかしたら?なーんてね。
毛利元就(もうりもとなり)
中国地方の覇者で、一代で毛利家を全国レベルの戦国大名に押し上げました!
三本の矢の故事(一本の矢は折れやすいが、3本ならば折れないことから)は有名ですね。
そんな毛利元就は食道がんで亡くなりました。お酒は飲まなかったので食べ物が原因でしょうかね?
曲直瀬道三(当時の優れた医者)先生!どうにか治せなかったのですか?
徳川家康(とくがわいえやす)
260年続いた江戸幕府の基礎を作った武将です。
自ら薬を調合し、健康には特に気を使っていた徳川家康でしたので、もう少し長生き出来なかったのかなあなんて思っちゃいます。
享年75歳ではありますが、前年に豊臣家を大阪城で滅ぼしたことで、達成感を感じちゃって、生きる目的を失くしちゃったのでしょうかねえ?
鷹狩の最中に倒れたり、胃に激痛が走ったり、腹に大きなしこりが出来たりと、結構症状は出ていました。
これらを総合して胃がんで亡くなったと言われています。
関連記事:おんな城主直虎の井伊直政公が仕えた徳川家康公の媚薬数々
中風で亡くなった戦国武将
中風とは今で言う、脳梗塞、脳出血ですね。
中風で亡くなった武将は、上杉謙信、池田輝政がいます。
上杉謙信(うえすぎけんしん)
上杉謙信は、越後(新潟)の戦国武将です。
隣国の武田信玄とは、川中島の戦いにおいて、5回も戦っています。
因縁の仲ですね。
上杉謙信は、とにかくお酒が好きな戦国武将でした。
地元越後(新潟)で飲み、戦場で飲み、京都で将軍と一緒に飲む、っていうように、どこでもお酒と一緒でした。
なので、結構血圧も高かったんじゃ無いでしょうかね?
関連記事:酒豪上杉謙信公お酒にまつわる逸話!越後と京都の日本酒?!
最期は、厠(現在のトイレ)で脳卒中で亡くなったと言います。
今頃、天国で自分の名前が入った銘柄のお酒など飲んでいるのでしょうかねえ?
池田輝政(いけだてるまさ)
織田信長と豊臣秀吉、徳川家康のもとで働いた、初代姫路藩主、池田輝政!
今の姫路城(世界遺産!)の基礎を築いたお人です。
そんな池田輝政は、晩年、中風の発作のため、半身不随になってしまいました。
秀吉の家臣から、家康のもとに主君変えし、結果的に裏切った形になった豊臣秀吉の呪いが輝政を中風にさせた!なんて噂もありますが、実際は本当に高血圧だったのでしょう。
次に梅毒で亡くなった武将はどなたでしょう?
梅毒で亡くなった戦国武将
梅毒とは?いわゆる性病ですね。
加藤清正、結城秀康、黒田官兵衛たちが梅毒に罹っています。
これまた名だたる武将たちですね!
加藤清正(かとうきよまさ)
豊臣秀吉子飼いの戦国武将です。秀吉と同じ場所(愛知県の中村)に生まれて、お互いのお母さんはいとこ同士!秀吉とは25歳離れていますが、清正は「秀吉LOVE」だったようです。
戦では数多くの戦功を挙げ(賤ヶ岳七本槍の一人!朝鮮で敵20000人を撃破!)、築城も得意で名城熊本城を築き、政治面では熊本統治にて、かなりの善政(治水や農業政策などなど)を敷いた武将でした。
そんな清正が、梅毒で急に亡くなりました。「英雄色を好む」を地で行くようなお人だったため、要らないものまでもらってきてしまったのでしょう。(毒殺説もありますが・・)
本当に気の毒でなりません。現在ならば防げたかも知れませんがね。
結城秀康(ゆうきひでやす)
徳川家康の息子さん(次男)です!
柴田勝家が住んでいた北ノ庄城跡に、福井城を築城し、越前を領国に支配しました。
武に長け、文才もあり、人としての礼儀も持ち合わせていた秀康でしたが、34歳の若さで亡くなってしまいました。
死の直前、梅毒のせいで鼻がもげてしまったと言われています。
梅毒っていう病気は恐ろしい病気ですね。
黒田官兵衛(くろだかんべえ)
豊臣秀吉の軍師を務め、筑前福岡藩の初代藩主になる戦国武将です。
豊臣秀吉の元で、主君織田信長の敵明智光秀を討つために、中国地方における毛利家との争いの和解をまとめ、急遽京都に戻った「中国大返し」を献策した話は聞いたことがあるのでは?
また、水攻めにして落城させた備中高松城の攻め方を秀吉に献策して成功させたりもしています。
なかなかすごい貢献度ですねえ。
そんな天才軍師、黒田官兵衛も最期は梅毒によってだいぶ苦しめられた様子です。
側頭部に腫れ物ができ、梅毒に脳を冒されて情緒不安定になったり、相当やられちゃってました。
原因不明の病気で亡くなった豊臣秀吉(とよとみひでよし)
天下統一を果たし、豊臣家の栄華を実現した豊臣秀吉でしたが、晩年は衰弱し、病魔に蝕まれた生活を送っていました。
しかし、その病名は現在は残っていません。
もしかしたら次期政権を担当した徳川家康の手のものが、資料を廃棄してしまったのかも知れませんが。
著名な医師団が集まって秀吉の治療を担当していたのですが、その力及ばずでした。
症状は、失禁、神経痛で腰が立たないほどで、ポルトガル宣教師のロドリゲスも「人間と思えないくらい衰弱しきっている」と記録に残していました。
諸説としては、肺結核、気管支炎、赤痢、梅毒など様々ありますが真相は????
それにしてもなかなか、恐ろしい病気に皆さんかかっていますね!
まとめ
戦国時代の武将たちが悩まされた病気と原因。そしてその治し方を見てまいりました。
医療技術が進んでいない時代の中、どのように病気と向かいあっていたのか分かりました。
もちろん、病名すらわからず、治し方も本当にそれでいいのかわからず、不安だったでしょうね。
そんな戦国武将の苦労を思い馳せながら今の現代、病気にならないように生きたいなと思います!