戦国時代をこよなく愛する激務ファミレス店長、南昌幸がお届けするブログに
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映画「関ケ原」にて島津義弘公役を演じた麿赤兒(まろあかじ)さん。さすが、いい味出していましたね!!!
「関ヶ原」についての簡単な解説は、『関ケ原の戦い!合戦に至る経緯を分かりやすく5分でまとめました!映画「関ケ原」を10倍楽しめます!』をご覧ください。
ドラマ「葵徳川三代」でも同じく島津義弘公役で出演していました!!
鹿児島の方言がバリバリで、ちょっと聞き取りにくい部分はありましたが、臨場感は抜群です!
実際の現場を想像させてくれました!
また、女優の杏さん(歴女)が好きな武将として挙げるほど魅力的な武将だったりします。
そんな、麿赤兒さん演じ、女優にも好かれる島津義弘公ですが、どういう人だったのでしょう?
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島津義弘公について
島津義弘公は様々な伝説、エピソードをお持ちです。
その話それぞれに人柄がにじみ出ています。
幾つかご紹介していきましょう!
鬼島津
薩摩(鹿児島県)島津家の18代当主で、武勇の評価高く、「鬼島津」と呼ばれていました。
20歳の元服以来50数回の戦に出陣し数々の武功を遂げられました。
一番の武将としての功績は、朝鮮、明の連合軍約3万に対して、島津軍約7000で戦った「泗川の戦い」でしょう。
寡兵が大軍を破った例として類例のない勝利を挙げ、一気に伝説レベルになりました!
これはすごい!4倍から5倍の数の敵を破ってしまうなんて!!「鬼」ですね!
関ヶ原
関ケ原の戦いでは結果的に西軍として参加しました。66歳だったそうです。
「島津の退き口」という敵の中央を突破するという、前代未聞の退陣方法を取り、
多大な犠牲者を出しながら見事鹿児島まで帰ることに成功します。
これも伝説ですね!!!普通敵軍中央突破など考えつきません!
徳川家康公が最後まで武力で屈服させることが出来なかった唯一の大名です。
そんな人がいたなんて!!
また、青少年教育、産業の促進など
そしてその島津義弘公を現在も偲ぶ行事が行われています。
それが「妙円寺詣り」と言います。
島津家の結束
豊臣秀吉公は島津家を恐れ、家の分断させようと様々な策略を巡らすが、島津4兄弟(義久、義弘、歳久、家久)の結束は固く、微塵とも互いを疑うことは無かったと言います。だから、鹿児島をずーーと治め続けることが出来たのでしょうね。
家臣も大切にする
とても家臣を大事にしていました。
例えば、吉田温泉は島津家の湯治場でしたが、家臣に解放したり、
例えば、暖も分け隔てなく部下と一緒に囲炉裏で暖まることも普通でした。その為、極寒の朝鮮戦争では他の日本軍は凍死者が出たのに島津家は一人も出なかったと言います。
なので、義弘公が亡くなった時、殉死禁止令があるのみの関わらず、13人の殉死者が出に至っています。凄い慕われようですね。
愛妻家
家族を大事にする男だったようです。
朝鮮の役で妻に手紙を送るのですが、内容がまたいいのです。
「3年も朝鮮で苦労しているのも家族のためだ。自分が死んだらどうなるかと思うと涙が止まらない。私が死んでも多くの子供のため生きて欲しい。それが1万部のお経を詠むより嬉しい。」と。
心から家族を愛していることがひしひしと伝わりますね。
また、関ヶ原の帰り、家臣は早急に帰還することを進言するが、大阪に人質としている妻子を残してどの面して故郷に帰れるか!
と妻子の救出に向かったといいます。かっこいいです!
猫を時計代わりに
朝鮮の役の際、性格な時間を知るため、時計は当時なかったので、代わりに7匹の猫を連れて行ったそうです。明るいところでは目が細くなり、暗いところでは丸くなるところから時刻を読み取ったといいます。7匹中生還した2匹を祀った神社が今でも仙巌園に「猫神神社」として残されています。
と色んな伝説を残された島津義弘公ですが、医者としての一面も
かなり高度なレベルをお持ちのようです!
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金創医(外科医)としての島津義弘公
金創医とは、刀や銃弾による傷に対応した外科医の事を言います。
島津義弘公は、武人の嗜みであります金創医術を極め、家臣の戦傷を自ら診療しました。
どのような診療を行ったのでしょうか?
手順は?
1,負傷者に対して、問薬を与えます。
(試しに飲ませて治療の方法を探っていきます)
2、血縛りで止血を施します
3,洗薬で傷を洗い流します
4,腸や脳が出ているときは、もとに戻し縫合します
(脱腸時には布に包んだ温かい麦飯で温めながら、呼吸に合わせて元に戻します)
5,抜き薬で鉄砲の玉や矢尻を抜きます
6,重症時には呪文を唱え、眠らせてから処置をします(そんなことまで!)
6,最後は、漢方薬などを処方し傷を治していきます
といった、オペを施していくわけです。
本格的ですね!
これで、相当の人数の家臣を救ったことでしょう!
さらに助産医術まで身につけていた?
金創医の技術をさらに、助産医術にも転用していました。
「産は腹の傷に同じ」という認識のもと活用されたようです。
お
分娩のポイントは?
1,まず人参、沈香、などの調合剤を内服させます
2,陣痛の時は、催生薬(お産を早める薬)を投与します
3,逆産や横産のような異常分娩の場合は内服薬などを駆使して治療
薬を上手く活用しながら分娩を行っていたようです。
「鬼島津」に分娩をしてもらったそのお子様は、将来有望な人物に
なりそうですね!!!
まとめ
鬼島津で知られる島津義弘公。攻めも守りも素晴らしい。
戦国時代の武将は、いかに生き残るかがお家を存続させる一つの条件となっていました。
怪我を治していくことも必要なこと。
結構本格的に治療を施していたことが分かりました。
まあ、呪文を唱えるなどと、昔ならではな事をやっていた部分もありますが、、、。
国主自ら行うことで、領民の意識も高まったことでしょう!
是非私も島津家の人となり、その治療を受けてみたいものです!