戦国時代をこよなく愛する激務ファミレス店長、南昌幸がお届けする
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映画「関ケ原」で冒頭、豊臣秀吉公の甥の秀次公の親族が処刑される場面があります。
「関ヶ原」についての簡単な解説は、『関ケ原の戦い!合戦に至る経緯を分かりやすく5分でまとめました!映画「関ケ原」を10倍楽しめます!』をご覧ください。
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なぜ、豊臣秀次公の親族は処刑されたのでしょうか?
そして駒姫とは?
初芽が雇われていた最上家との関係は?
映画の中ではちょっと突然話が出てきたのでわかりにくい部分もあったかと思います。
簡単にご説明させて頂ければと思います!
豊臣秀次公の親族が処刑されるに至るまで
豊臣秀吉公についてはコチラから簡単にご説明していますのでご参照下さい!
次に豊臣秀次公について簡単にふれてみたいと思います。
豊臣秀次公は豊臣秀吉公の姉の瑞竜院日秀の長男で、秀吉公から見ると甥っ子になります。
秀次公は、若い頃は、政略の為に、様々な家の養子に出されていますが、
秀吉公の嫡男鶴松公が亡くなった後、秀吉公の養子となり、関白という職を秀吉公から受け継ぎ、
豊臣家の家督を相続します!(豊臣家2代目です)
ここまでは、いい感じに出世して行きます!
しかし、この後秀吉公に子供ができます!豊臣秀頼公です!
すると、秀吉公の直接の子供ではない秀次公は疎んじられるようになり、
秀吉公に謀反の疑いをかけられて自害に追い込まれるのです!!!!
(映画の中の三成公も秀次公に謀反の疑いは無かったと言っています)
さらに、秀吉公は秀次公の親族を全て処刑するように命じます!!!!
理由は、見せしめであり、親族の断絶でありましょう、、、。
あまりにもむごいです、、。
残酷!の一言。
(また、側室が多かったので、、。全員で39名)
(血も涙もないです、、、、。島左近公が腹わたが煮えくり返り、竹を斬りまくるのもわかります!!!)
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処刑の前に三成公が秀吉公に助命嘆願した駒姫とは?
処刑の前に、三成公が秀吉公に「駒姫」という姫の助命を請う場面があります。
ここで、駒姫 について簡単にご説明致します。
駒姫とは最上義光公(山形藩初代藩主で伊達政宗公の叔父です)の次女で、
類まれなる美しさを持ち合わせていたと言います。
東国一とも言われる美少女の噂を秀次公は聴き、側室に欲しいと最上義光公に迫ります。
はじめは断っていた最上義光公でしたが、最後は折れ、せめて娘が15歳になるまでは待って欲しいと
お願いし、それは受け入れられました。
そして、15歳になり、山形からはるばる京都まで秀次公に嫁ぐためやってくるのですが、
京都に到着し長旅の疲れを癒やしていた頃、既に秀吉公に謀反の疑いをかけられて
いた秀次公が自害をしてしまいます!!!
なので、一度も生きている秀次公と顔を合わしていないのです。
そんなことって!ある?!
秀次公と一度も顔を合わしていない、正式に側室になってもいない、駒姫だったのですが、
処刑の対象から外す事を三成公の助命嘆願でも秀吉公は許しませんでした!!!!
(史実では、父の最上義光公本人が嘆願しています!)
なんで!まだ側室にも正式になっていないのにそれはあんまりではないか!
最上家の悲しみ憎しみいかほどか!!!!!!
この一件は最上家に秀吉公憎し!の感情を根深く植え込むことになります。
ひとたらしの秀吉公が何故にそれを分からなかったのか!
映画では、最上家に雇われた伊賀忍者の初芽は、駒姫を救出すべく、三条河原に潜み、
処刑を失敗させようとしました!!!!大胆でしたね!!!
でも、取り押さえられてしまいます!惜しいっつ!!!
途中で島左近公を石田三成公が追ってしまったため、その後の次第は分かりませんが
無事に駒姫は逃げおおせたのでしょうか!!!逃げて欲しい!
、、、とすいません。ちょっと感情的になってしまいました。
でも、なんとかならなかったのか!悔しいです!
(でもでも、秀次公の正室だった池田恒興公の娘(若御前)とその子3名は難を逃れているのです、、、。
これはどういうことですか?あまりにも不公平ではないですか秀吉公!!
やはり織田信長公の重臣に対しては弱いですか?まあでも処刑の前年に池田恒興公の息子
池田輝政公に徳川家康公の娘、督姫が嫁いだ世話を秀吉公がしたというのも影響ありますか??
いやでも納得いかないです!)
三条河原伝説
この処刑場になった三条河原とはどんなところなのでしょうか?
ちょっと調べてみました!
場所 | 三条木屋町交差点を少し南へ下がったところ |
地図 | |
最寄り駅 | 地下鉄三条駅から1分 |
現在は | 木屋町通から先斗町歌舞練場前につながる道路の入り口付近だったようです。今は埋め立てられて繁華街になってますが、当時はこの木屋町周辺も鴨川の河原でした。 |
お薦めの宿 | 三条駅から徒歩1分のデザイナーズホテルです! |
他の処刑、晒首人 | 石川五右衛門(1594年8月25日)釜茹での刑 石田三成公(1600年)晒首 近藤勇(新撰組局長)(1868年)晒首 |
その他 | 東海道53次西の起点(1601年)徳川家康公が定めました。(関ケ原の翌年ですね!) |
まとめ
秀頼公が生まれたことにより、関白秀次公はその座を追われ、
謀反の罪を着せられて自害します。
さらにその親族を一掃させる命令を秀吉公は無残にも出します。
まだ、秀次公に会ってもいなかった最上義光公の娘15歳の駒姫も
助命嘆願の思い虚しく処刑されます。
そんな非道が起こった歴史の場所、「三条河原」の
現代をご紹介しました。
時の権力者のちからは本当に恐ろしいと感じました!