戦国武将をこよなく愛する激務ファミレス店長、南昌幸がお届けする

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豊臣秀吉公が天下統一をしてから、「能」がにわかに

活気づいてきました!

 

戦国時代までの能の歴史はこちら

豊臣秀吉公が愛好した「能」戦国時代のミュージカル!その歴史を5分で簡単にまとめました

 

豊臣秀吉公は、天皇の前で踊っちゃったり、自分で能を作っちゃったりと

その「能」の好きっぷりは、なかなか破天荒なんモノがありました!

 

妻に対して、

「今は稽古で忙しい!」などと手紙を書いちゃうくらい!

 

その影響は誰からなのか?

見てみたいと思います!

 

豊臣秀吉公が能の影響を受けた3人!

豊臣秀吉

下間少進

本願寺の坊官(政治部門を取り成す役職)をしていた武将でした。

 

能との出会いは、能役者の金春大夫善勝が重傷を負っていた所を助けたことが始まりだそうです。

 

その金春大夫善勝の元で修行し、プロの能役者である金春の持つ金春流の秘伝はすべて伝承されます。

 

その後、豊臣秀次公はじめ豊臣秀吉公にも能を指南していくようになります。

 

秀吉公が能に目覚める前、毛利家の催しで下間少進の「能」を

見て、そこで素晴らしいと感じたことが一つのきっかけになったようです!

かなり素晴らしい演技だったのでしょうね!

豊臣秀次公

豊臣秀吉公の甥で悲劇の関白です。

こちらの記事をご参照ください。

 

映画「関ケ原」石田三成公が助命嘆願した駒姫は最上家から豊臣秀次公に嫁ぐ予定でした!豊臣秀次公親族を全員処刑!場所は三条河原!どんな所か調べてみました!

 

豊臣秀吉公よりも早く能の手ほどきを受けていて、当時ほとんど演じられてい無かった秘曲「関寺小町」を

舞ったほど秀吉公と同じく能の魅力に魅入られた方でした。

 

親族に、能を愛する人がいたことも、少なからず豊臣秀吉公に影響を与えていたのでしょう!

でも、もしかしたら、秀次公の方が能の才能があって、嫉妬していたのでは?

なんて勘ぐっちゃったりして?

 

暮松新九郎(くれまつしんくろう)

朝鮮との戦いのため、豊臣秀吉公は名護屋(佐賀県)に滞在していました。

その秀吉公のもとに、新年のあいさつに能役者、暮松新九郎が訪れたことがきっかけで、

豊臣秀吉公は榑松新九郎の指導の元稽古をはじめます。

 

要するに、実際の稽古を始めるきっかけになった人物です!

 

それでは、天皇の前で披露した時の事を見てみましょう!

舞台 能 能舞台 奉納 瑞巌寺 寺 神社

天皇の御前で能を披露!

1594年には、天皇のお住い(禁中)で、能の催しをしています。

このときは、3日間催され、その2日目に、豊臣秀吉公、徳川家康公、前田利家公の

3人で演じたと言われています!

 

凄い3人ですね!観たい!

その後、豊臣秀吉公は自分で能を作っちゃいます!

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豊臣秀吉公の「能」作品

 

後に「太閤能」と呼ばれる作品を実際に作っちゃってます!

 

豊臣秀吉公命令の元、

作曲は、金春安照(こんぱるやすてる)(前述の金春大夫善勝の次男)、

作詞は御伽衆の大村由己(おおむらゆうこ)(天正記という軍記物を書いたりした学者)

が担当し作られました。

 

内容は、主に豊臣秀吉公の業績を称える内容だったそうです!

 

一つご紹介しますと、「吉野詣で」という演目があります。

 

「吉野に参拝に行った、豊臣秀吉公の前に天女達が現れ、

天女が舞を舞って、豊臣の治世を賛美し、豊臣の繁栄を約束する!」

 

という内容です!

ううううつ!唸っちゃいます、、、。

我が世の春!って感じですね!

 

さすがは天下人!この時が絶頂期だったのでしょうね!

 

まとめ

豊臣秀吉公は、主に下間少進、豊臣秀次、暮松新九郎などの影響を受けながら、

能にハマっていきます!

 

そのハマりっぷりは、天皇の御前で演じたり、自分を賛美した演目を作り、これも

宮中で演じたそうです!

 

そんな豊臣秀吉公は能役者、主な座(大和猿楽四座)に対し給与(配当米)を与え庇護しました

その御蔭で現在も「能」が日本の芸能として息づいていることも忘れてはなりませんね!

 

豊臣秀吉公をもっと知りたいな!って思った方はこちらの記事もお楽しみになれます!