戦国時代をこよなく愛する激務ファミレス店長南昌幸がお届けする
ブログにお越しくださいましてありがとうございます!
[ad#co-1]
映画「関ケ原」が鬼ヒットから修羅ヒットへ観客を順調に増やしていっています!
なんと、19日現在で観客動員数は156万人を越え、興行収入は19億円を突破しました!
どんどん見て、関ケ原のことや歴史のこと、歴史上の人物のことを好きになってくれる人が
増えるといいな!って思っている今日このごろです!
さて、映画の中で、石田三成公と大谷吉継公が、割粥を二人きりで食べるシーンがあります。
その時に話していたエピソードがちょっと気になったので調べてみました!
「関ヶ原」についての簡単な解説は、『関ケ原の戦い!合戦に至る経緯を分かりやすく5分でまとめました!映画「関ケ原」を10倍楽しめます!』をご覧ください。
その前に大谷吉継公について調べてみたいと思います!
大谷吉継公とは?
生まれは?
近江の国(滋賀県)に生まれ、豊臣秀吉公、豊臣秀頼公に仕えます。
吉継公の母親は、豊臣秀吉公の妻、北政所の取次役として政治の重要なポジションに付いていました。
その流れもあったのか、豊臣秀吉公に仕え、側近の部下として活躍していきます!
出世の人生
豊臣秀吉公が柴田勝家公と覇権を競った賤ヶ岳の戦において、三振の太刀と称される手柄を立て、調略についても柴田勝豊公を内応させたり、九州征伐では兵站奉行としての仕事も首尾よくこなし、堺奉行の仕事も実務を担当しその存在感を増していきます!
そして、豊臣秀吉公に認められ、越前国敦賀郡(福井県)を与えてもらい、敦賀城主、大名となります!
その後も、小田原征伐に従軍したり、奥州仕置にも従軍し出羽国の検地を担当したり、
朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で、船奉行・軍監として船舶の調達、物資輸送の手配などを務めてその手腕を発揮しりと次々と良い仕事を続けていきます!
豊臣秀吉公が「関白」になると大谷吉継公は「従五位下刑部少輔」という官位に叙任され
俗に言う「大谷刑部」が誕生します!
本当に、順調に出世し、仕事も卒なくこなしていきますね!!
[ad#co-2]
病気の影響
このようにいい感じで人生を歩んでいた大谷吉継公ですが、ある病気にかかってしまいます!
病気の症状で、どんどん目が見えなくなり業務に支障が出て、奉行の役を降りることとなります。
なかなか人生上手くばかりはいかないものですね、、、。
関ケ原へ向けて
関ケ原の戦い前には、はじめは会津の上杉景勝公に謀反の嫌疑があると主張した東軍の徳川家康公側に付きます。
しかし進軍途中に寄った、親友石田三成公の居城、「佐和山城」で石田三成公から「豊臣家を守るため徳川家康公に対し挙兵する!」と打ち明けられます。
大谷吉継公は、さんざん石田三成公に「勝ち目はない!」事を何度も説くのですが受け入れられません!
親友石田三成公の「豊臣家を守る!」という固い決意と熱意の前についに敗戦を覚悟の上で、最終的には、西軍の主力メンバーとして息子とともに東軍徳川家康公と戦うことを決めます。
大谷吉継公は、三成への友情に重きを置いたのでしょう!男の友情です!
関ケ原本戦では、藤堂高虎公と激戦を繰り広げ、また一方で小早川秀秋公の裏切りに備えていました。
が秀秋公以外にも裏切りが出て、耐えきれず大谷軍は壊滅し、大谷吉継公は自害します!
無念!
割粥のエピソードとは?
その前に割粥ってどんな食べ物?
米を米臼で砕いたものをおかゆにしたものを言います。
消化が良く、胃に優しかったと言います。
そして、豊臣秀吉公の昔からの好物だったそうです。
割粥のエピソードってどんな話?
盛大な法要を終えた際、割粥が食べたくなった豊臣秀吉公は、
住職にすぐつくるように命じます。
ところが、高野山には米が乏しく、米臼もありませんでした。
困り果てた住職は、とりあえず米をありったけかき集め、高野山中の
小僧に集合をかけ、臼で粉砕するかわりに、包丁で米を2つに割って
その代用とすることを考えつき、実行しました。
きっと、この時に、豊臣秀吉公の元に仕えていた石田三成公と大谷吉継公も
住職や小僧たちと一緒に包丁で米を2つに割っていたのでしょう!
「急ごう!」「早く!」「なかなか上手く割れないなあ」
「上手く割れるようになってきた!」などと話しながら作業していたのかと
勝手に想像すると嬉しくなっちゃいます!
映画の中で、嬉しそうに思い出しながら包丁で米を割る動作をする大谷吉継公が
本当になんともいえず、胸の奥底にジーンと来ます!
そして、その皆で割って作った粥を豊臣秀吉公と一緒に食べたのでしょう!
そりゃあさぞ旨っかたでしょう!思い出の味ですね!
その場で食べてみたかったッツ!
しかし、さすが豊臣秀吉公。米の切り口がきれいなことに気づき、
その理由を住職に聞き、本当のところを知ることとなります。
豊臣秀吉公は、感激し、住職に褒美を取らせ、上機嫌で下山していったといいます。
そばに仕える石田三成公、大谷吉継公も、胸をなでおろしたことでしょう!
でも一説によると、
豊臣秀吉公いわく、
「高野山に臼がないなら、わざわざ割粥にしなくてもいいのだ。
いつも食べている普通の粥を出せば良い。
わしの権勢を怖れてるのはよく解かるし、その点では感謝もするが、
包丁で一粒ずつ米を割るなんて贅沢すぎる。
それは無駄な贅沢というものだ」
と言ったとか言わないとか?
天下人の元に仕えるのはなかなか大変なことですね!ふふふつ。
こんな事があったのね!と知ってから映画のそのシーンを見ていただくと
なおさら感情移入できるかと思いますよ!
DVDの中では「1:41:45」のあたりで見れます!
割粥が気になった方はこちら
手早く手に入れたい方お薦め!
割粥を食べれる所見つけました!
名古屋に秀吉公の割粥食べれる所見つけました!割粥食べれる所!
興味ある方は是非!
名古屋嬢の台所 名古屋栄店で扱っている料理です!
「豊臣秀吉の挽き割粥 700円」
興味のある方は是非行ってみてくださいね!
まとめ
大谷吉継公は、豊臣秀吉公に若くから仕え、重用されていた武将でした。
石田三成公も同じく重用されていました。
そして、徳川家康公と関ケ原で共に戦い破れていく運命にありました。
そんな2人が映画の中で、関ケ原本戦直前、割粥を食べるシーンがありますが、
そこで話していたエピソードについてご紹介しました。
割粥を所望された豊臣秀吉公に、少ない米を集め、粉砕する臼がないので代わりに
包丁で2つに割って作り、秀吉公の機嫌を損ねず万事うまく行った
というエピソードでした。
その時を回想する石田三成公と大谷吉継公はとてもうれしそうで、
映画の中でも、見どころのあるワンシーンではないでしょうか?
このエピソードを知っているとさらに感情移入できるようになりますよ!
歴史マニアが、映画「関ケ原」を2回観に行って気がついた、「関ケ原を最大限楽しむ3つのポイント」を教えます!
石田三成公に興味を持たれた方は、以下の記事も楽しめる内容になっておリマス!