戦国時代の名門、武田家終焉の地、最期の地はどこ?

答えは

天目山(てんんもくざん)にある「景徳院(けいとくいん)」!!!

です。

 

今回は、武田勝頼公が無念の最期を遂げたそのストーリーと、勝頼夫妻と息子、家臣たちが祀られている景徳院について調べてみたいと思います。

戦国時代最強と言われた騎馬隊を父武田信玄公から引き継いだけれど家臣団をまとめきれず、最後滅亡へと転がり落ちた悲劇の武将の話は涙なくして語ることができません。

 

それでは行ってみましょう。

 

武田家終焉までの流れ!!!

 

簡単に流れを見ていきましょう。

武田勝頼公の攻勢(武田家最期の華)

●武田勝頼公の父、武田信玄公が西上作戦(京を目指して進軍し織田軍をせん滅する作戦)の途中で死去します。

 

●その後武田家の跡を事実上継いだ武田信玄4男の武田勝頼は意欲的に戦を進め、一時は武田家最大の領土まで拡大しました。

この辺りまではイケイケドンドンの絶好調な勝頼でした。

 

武田勝頼公の苦戦(武田家終焉への序章)

長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れてからは一気に立場が悪くなり、劣勢になっていきます。美濃岩村城主の秋山虎繁公が木曽義昌公の援軍を得られずに処刑されたのもこのころです。

 

●周辺の外交(北条氏との同盟を結ぶための政略結婚の相手が勝頼の妻、北条夫人です)により危機的状況を回避しようとしますが上杉家のお家騒動での立場に失敗し北条家を敵に回してしまうなど上手くいきません。

●内々でも、武田勝頼公が織田軍に攻められた高天神城への援軍を出せずに結果的に見捨てたことは、武田家への信頼が大いに失ってしまう出来事でした。

高天神城

高天神城

 

このころから雲行きが怪しくなっていきました。

打つ手がうまくいかずに後手後手に回っていきます。

終焉への序章といえます。

 

武田勝頼公の哀愁(武田家終焉への下り坂)

●さらに織田・徳川軍との戦いや、新たに居城として築いていた新府築城への多大な費用を埋め合わせるため、多くの年貢や労役を領民、領主に課していました。結果、領国内の人の心すらも離れていきました

新府城

新府城

●浅間山が噴火したことも天から見放されたと武田軍の動揺を誘う原因となりました。

浅間山

浅間山

 

このころには今までなんとか武田家についていっていた家臣、民衆たちもだんだん離れていきました。

勝頼の意気込みが空回りしているようでした。背中が悲し気・・・。

武田勝頼公のあがき(武田家終焉へ急降下)

●決定的なのは、親戚の木曽義昌公が勝頼を裏切ったことでした。木曽義昌公は武田信玄公の娘、すなわち武田勝頼公の妹を正室にめとっていたのにも関わらず、武田勝頼公の圧政や将来性の危惧により織田家に寝返ります。武田勝頼公はそんな木曽義昌公の身内を処刑すると天皇から織田信長公に武田家討伐の勅命が下ります。

 

●織田軍の猛攻に武田勝頼公率いる武田軍は鳥居峠の戦いで木曽義昌公に敗れ、徳川や北条の攻撃により南信濃、遠江、上野方面の戦でもことごとく逃亡、敗北。急速にその領地を奪われていきました。

 

●武田24将穴山信君公(勝頼公の娘と自身の嫡男の婚姻についてもめていたことから恨みがあった?)が徳川家康公と内通(裏切り)していたことも武田家から離反を促した大きな原因となりました。

 

●唯一高遠城にて武田勝頼公の弟、仁科盛信公は激しく抵抗し、最期まで織田軍にたてつきましたが、打ち取られ京都にてさらし首にされてしまいました。武田家の最後の花も高遠の空に散りました!!!

 

武田勝頼公の最期!!(武田家終焉の地へ)

●まったくもって不利な状況となった武田勝頼公はまだ未完成の新府城に火をかけ、1000人足らずの軍勢で小山田信茂公の居城岩殿城へ向かいます。

 

岩殿城

岩殿城

 

●しかししかし!勝沼の大善寺で小山田信茂公が裏切ったことを知ります(大月地域の領民を戦火から守るためといわれています)。手勢は200人行かないくらいに減っていました。

「武田滅亡記」を記した理慶尼と勝頼一家は大善寺で一晩を共にしています

 

●行き場を無くした勝頼公は天目山の武田家祖先ゆかりの積雲寺を目指しますが、さらなる家臣の裏切りなどもあり、積雲寺までたどり着けず、途中引き返し田野にて息子武田信勝公の元服式(楯無の鎧を譲る儀式)を行います。

景徳院

元服式を行った場所に建てられた景徳院

 

●その後、土屋惣藏(つちやそうぞう)公による片手千人切りと伝わる壮絶な戦いもこの時におこりました。

 

※千人切りの石碑と現場の谷底

●武田家最期の戦い(四郎作、鳥居畑の戦い)が繰り広げられ、家臣たちはこの最後の戦いでほぼ全滅します。(3日で多くの兵士の血が流れたことからその谷川は三日血川と名付けられ、今は日川と名を変えて残っています。

●裸足で血だらけになりながら最後までついてきた女たち16名も川に身を投げ自害しています。そこは姫ヶ淵と名付けられています

姫ヶ淵

姫ヶ淵の碑

 

●そしてついに田野の景徳院がある場所で武田勝頼公たち一家三人は自刃します。

●一説には最後まで勝頼たちを守っていた土屋惣藏公が討ち取られ、疲労と飢えで憔悴しきった武田勝頼公も伊藤永光という兵士によって討ち取られてしまったというところが織田方の記録には残されているようです。武田信勝公は鉄砲で撃たれてしまったとか?

 

それでは武田勝頼公たちを弔っている景徳院へ行ってみましょう。

武田家終焉の地「天目山景徳院」

武田滅亡後の領地を引き継いだ徳川家康公によって武田勝頼公たちを弔うために建立されたお寺です。

境内には武田勝頼公のお墓をはじめ、まつわる遺跡などが残されています。

景徳院

景徳院

武田勝頼公の墓

まずは武田勝頼公のお墓です!!!

武田勝頼公、北条夫人、信勝公の墓

右が相模の国から嫁いだ北条夫人(北条氏康公の6女)で、左のお墓が嫡男信勝(実母は織田信長公の姪にあたる龍勝院ですでに他界していました)

夫婦と息子と3ショット!

眺めるだけで哀愁が漂ってきます。

後ろの石垣もなんだか情景をさらに濃いものにさせてくれる気がします。

 

そしてそして次に武田勝頼公たちが最期自害して果てたとされる生害の石です。

武田勝頼公の生害石

武田勝頼公はこの石の上に座って命尽きたとされています。

※生害とは自害のことで、自害をする場所にある石のことを生害石といいます。

 

松の脇で自害して果てたようです。

この松は当時のことをありありと語ってくれているような気がします。

37歳というまだまだ働き盛りの真っただ中の無念の死でした。

北条夫人の生害石

最期まで夫に付き添いその命を絶ちました。

自分の信念を通したすごい意志の持った女性だったのでしょう。

枯れた大木がより寂しさを引き立たせてます・・・。

嫡男武田信勝公の生害石

まだ16歳の信勝は武田と織田と諏訪の血を引き北条の教えも混ざるサラブレット!将来が楽しみであったなあ!

 

武田勝頼公たちがこれらの石に座り自害して果てたことを想像すると、胸がはちきれそうになります!

山奥の人気のないこの地に、最後まで落ち延びた主従3.40名ほどの者たちの泣き叫ぶ声が木霊します。

「ううっ」

血の匂いがあたり一面に漂いそうです。

家臣たちを祀った墓

主従たちは両脇の碑に祀られていました。

薬袋小助墓

薬袋小助たちの墓

ここに武田勝頼公に最後まで付き添い戦った私の祖先、薬袋小助も祀られているようです。

 

小助は武田信勝公か勝頼公の馬引き?をしていたようですが、どんな思いで主君の死を見届け、そしてどんな思いでなくなっていったのでしょう???

思わず天目山の空を仰ぎみずにはいられませんでした。

首洗い池

近くには武田勝頼公たちの首を洗ったとされる池があり、このせせらぎを聴いていると、涙が出て気が遠くなりそうです。

胴洗い

三人の魂がここから確実に旅立っていったように思うと何とも言えない気持ちになります。

没頭地蔵尊

武田勝頼公たち3名の頭の無い胴体だけの遺体が埋められたといわれています。

没頭地蔵尊

武田勝頼公御一家の簿冥福を心よりお悔やみ申し上げます。

辞世の句

3人が詠んだといわれる辞世の句が残されています。

3句それぞれにはかなく、壮絶な句であるなと感じます

武田勝頼公の句

「おぼろなる 月もほのかに 雲かすみ 晴れてゆくえの 西の山の端」

辞世の句

3月の月夜の夜。はかなさ、むなしさを超絶に痛感させる句であります。

無念さを通り越して達観した心持なのかとも感じられます。

遠い目をした武田勝頼公が目に浮かぶようです。

北条夫人の句

「黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき 思ひに消ゆる 露の玉の緒」

口惜しさがにじみ出るとともに、悲しみの渦の中にのみこまれてしまいそうな悲劇の句。

願いが叶わなかった想いが天にも昇るくらいの勢いでどこまでも駆け巡るかのように感じられます。

涙にくれながらの最期だったと想像します。

最後の韻が勝頼公の句と似ているのがさらに悲しさを増大させます・・。

辞世の句

武田信勝公の句

「あだにみよ 誰も嵐の桜花 咲き散るほどの 春の世の夢」

桜が咲き散っていたのか?

春の夜の暗闇の中、ほのかなピンクが舞い散る様が襲い掛かるように勢いよく見えます。

若さゆえのエネルギッシュあふれる力がみなぎっているかの如く。

ゆえに散り方も激しくそしてはかなく感じます。

辞世の句

 

三人の辞世の句を詠むとしょいきれないほどの重い人生が怒涛の如く迫りくるかのようです!

ひたすらに「悲しい」

まとめ

武田家終焉の地を巡ってみました。

巡るところすべてが悲しく、考えさせられることばかりでした。

無念さや悲しさや辛さなど、いろんな思いが渦巻いているように感じました。

ぜひ天国で安らかにご家族ともにお過ごしくださることをお祈り申し上げます。