戦国時代、多くの大名に恐れられた甲斐の虎、武田信玄公。
その後を継いだ勝頼公。
武田家を滅亡への道へまっしぐらとなる悲劇の人生を歩むことになります。
あれよあれよと滅亡へと転げ落ちていく時、勝頼公自身はどういう気持でいたのでしょうか?
武田勝頼公の気持ちになって考えてみました。
父親は偉大なる戦国大名、武田信玄公です。
どこか雲の上の存在だったのかなと思います。
偉大なる父親、武田信玄公
武田信玄公は、天下布武を掲げる西の王者、織田信長公の対抗馬一番手です。
領地は信濃、甲斐、西上野、駿河遠江(長野、山梨、群馬、静岡)と広範囲を治めるまでに至っていました。
現代で言うところの大企業の社長です。
その息子というだけでプレッシャーは半端なかったと思います。
「うっ」「親父、偉大過ぎます!」
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何万人もいる領地を大名の采配で、戦乱から守り、生き延びさせるとともに、
出来うれば、天下を狙っていくという大きすぎる野望。
「おおおおおお!」叫んでいたことでしょう!
数々の戦に勝ち、様々な政治を行い、様々な部下を掌握して
その積み重ねの上に成り立っていた武田王国でした。
並々ならぬ苦労と、信念が実現させていたのでしょう。
「父上だから出来たことじゃないのか?」
その経験がある父からポーンと跡継ぎを任されるって、意味がわからないです。
「???????」「まだいなくならないで下さいよ!」
内心、目の前がクラクラするような衝撃があったのではないでしょうか?
「誰かかわってくれえ!」
家臣から信頼されるためには話を聞く
2代目の辛い所
実際、父親が大大名で、子供が上手く行かない例が戦国時代では多いです。
織田信長公しかり、豊臣秀吉公しかり、今川義元公しかりです。
しかも、武田勝頼公は、もともと嫡男ではなかったのです。
本来は、正室の子、武田義信公が跡継ぎになっていたはずが、武田義信公は謀反の疑いにより自害。
急遽、役目が回ってきたというわけです。
武田勝頼公は本拠地の甲斐(山梨)出身ではなく、信濃(長野)の諏訪の出身です。
直属の部下たちは諏訪に関連する部下を重用し、昔から武田家に仕えていた古参の家臣たちを重用しなかったのもあり、家臣団との間に微妙な隙間風が流れていました。
父親が亡くなる事態
そして、後継いだ2年後には偉大なる父がこの世を去ってしまうという試練。
想像を絶するものがあります。
「もっと帝王学を教えてください!」と思ったことでしょう!
自分だったらどのように対応していただろう、と吐き気がしちゃいそうです。
とにかく、部下をどのように扱っていくかが一番難しいでしょう。
「信濃からきた、傍流な俺が、武田家の二十四将達をいかに手綱を握って操っていくのか?そのすべを俺は知らない!」と困ったことでしょう!
それ故今までの重臣よりも自分に近い部下、信濃寄りの部下を重用していくのです。
これがイケなかったのではないでしょうか?
もっとバランス良く家臣を重用していくべきだった!
情報を仕入れるルートの確保すべき
そして、目まぐるしく変わる時代の変化に上手く対応していくために、とにかく情報を仕入れるようにしていくことが最重要になってくるだろうと私は想像します。
「情報をどのように仕入れるべきか!でも、俺は忍者をあまり信用出来ないからなあ」と武田勝頼公は考えてしまいます。
忍者などによってもたらせる情報は絶対的に必要です。
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「己を知り相手を知れば百戦して危うからず」と言うくらい情報は必要なのに、あろうことか、情報を集めてくれる忍者を避けてしまいます、、、。
惜しいです。
でも、武田勝頼公なりのプライドや考え方があったのでしょう!潔くはあります。
そしてその中で覚悟を決めたのでしょう。勝頼公自身のやり方で実行していくことになります。
「でもやるしかない!」と!
頑張りが通じない現実
長篠の戦いの敗北
勝頼公なりに一生懸命頑張って行かれたんだと思います。
でもでも、人心は離れていく一方でした。
「なんで、お前もか!お前も俺の元を去っていくのか!」
でも、人が離れたのは、武田勝頼公が、もっと、家臣の意見を聞き入れていれば良かったのではないかなって思う所も多々あります。
特に重臣の意見を振り切って行った長篠の戦いの敗北は武田家の滅亡への道を決定つける戦いでした、、、。
かなりの重臣が亡くなっています。
人がいなければ話になりません。
無念でなりません。
親戚も重臣もどんどん離れていく現状を考えると鳥肌が立ってきます。
織田信長公による武田家侵攻
織田信長公による武田家侵攻は、多くの武田家家臣の離反を誘いました。
「あの裏切り者め!」とか、「この世は終わりだ!」とか思ったかもしれませんし、
逆に一方で、「武田家再興を最後まで諦めないぞ!」と奮い立たせたとも思います。
最後、田野という山中で、土屋惣蔵氏の片手千人斬りにて時間を稼ぎますが、武田一家は自害を果てることと相成ります。
最後まで武田勝頼公に付き添ったのは41名にだと言われています。
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時代の流れの恐ろしさを感じない訳にはいきません。
4つの県の広さの領土を誇っていた武田家がこんなにかんたんに滅んでしまうなんて、、、。
私たちは、武田勝頼公から学ばなければなりません。
その死を無駄にしないためにも。
部下がその下を離れないために何をすればよいのか!
まとめ
以上から2つのことが武田勝頼公から学ぶことが出来ると思います!
1部下をバランス良く重用していき、話をきちんと聞き活用する!
自分に近い部下は扱いやすいのは確かです。
昔からいて実力のあるものは、言うこともいちいちまともでもしかするとプライドを傷つけられることもあるのかもしれません。
でも、良いと思うことは、私心を廃し、本当に将来を考えて採用していかなければならないと思うのです。
偏りなく部下を配置、意見を採用していくことが大事だといえます!
2情報収集に重きを置く
相手に勝つためには自分の事、状態を知ることはもちろんのこと、相手のことを知らなければなりません。その情報によって戦略が変わってくるのです。
その情報をもたらしてくれるのは忍者だったりします。
彼らを父親の武田信玄公は重用しましたが、それをしなかった武田勝頼公は、戦力の部分で劣ってしまっていたのかと思います。
戦にしても、領国を治めるにしても、情報はとても大事だと言うことを学ばなければなりませんね!
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