明智光秀を支えた家臣たちってどんな人がいたのでしょう?
引用:Wikipedia
明智光秀も一人では本能寺の変を起こせませんでした。
本能寺の変前日の6月1日。
丹羽亀山城で5人を集めます。
そして主君・織田信長を討つ!ということを打ち明けるのです。
彼らは明智家の5宿老とも呼ばれる男たちです。
はたしてその家臣5人とは?
明智秀満・明智光忠・藤田伝五・斎藤利三・溝尾庄兵衛の5人です!
桔梗の旗のもと集まった重臣たち!
今回はその5人を見ていきたいと思います!
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まず一人目
明智左馬助秀満
引用:Wikipedia
明智光秀との関係は
秀満は、明智光秀の叔父、三宅光安の子供であります。(諸説あり)
光秀とは従兄弟ですね。
光秀の血縁者ということで、5宿老の一人に名を連ねています。
明智軍団ですから、銃の腕は素晴らしい物があったのでしょう!
妻は光秀の娘をもらい受け、光秀からみて娘婿の関係に!
相当強固な絆のもと、主従関係が結ばれました。
実力もあり、秀満も丹羽平定の際には相当活躍し、
本能寺の変の前日にその丹波国の重点地点、福知山城の城代を務めるほどになります。
左馬助湖水渡り伝説
引用:Wikipedia
本能寺の変では先駆けを務め、その後、安土城を守ります。
特攻部隊です。
死をも恐れない明智軍団の先鋒隊ですから相当肝が座っている武将と言えます!
秀満は様々な伝説を残しています。
山崎の戦いの敗戦のあと、琵琶湖を馬で渡り坂本城に逃げ帰ったこと。
坂本城で堀秀政の軍勢に囲まれて敗けを悟った時、
城にある宝物や名物を、差し出すという紳士で冷静な対応をして見せたこと。
なんというエネルギッシュ&クールさ!
最期は、光秀の妻子や自分の家族を介錯し、城に火を放ち47歳の命を閉じます。
※一説では、秀満が天海説も?南光坊天海僧正の人生とは?正体は明智光秀だった説?!
二人目は?
明智次右衛門
色んな説がありますが、ここでは、秀満の父である光安の弟光久の子供説を取ります。
すると、秀満同様に光秀の従兄弟ということになります。
さらに、秀満同様光秀の娘(玉の姉)を嫁に貰い受けています。
固いですね!
秀満同様、丹羽平定の際に活躍をして、八上城城主を努めています。
本能寺の変では、信長の長男信忠を二条城に攻めています。
しかし、戦闘中に銃に撃たれ、重症になり、知恩院で静養中に山崎の戦いの敗けを知り、
無念の自害を果たします。
山崎の戦いに駆けつけられなかったことを最期嘆げきながら死んでいきました。
最後まで仕事させてあげて!って言いたくなります。
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3人目は
藤田伝五
明智光秀の父親から仕えていた譜代の家臣です。
山城国(京都)静原山城城主で、光秀と各地を転戦した桔梗の元に生きた武士です!
本能寺の変の後、かつて明智軍の仲間の大名だった筒井順慶を一緒に信長亡き後の戦争を戦おう
と説得しますが、振り回され、これに失敗します。
山崎の戦いでは、崩れながらも右翼の防戦を続けましたが、6箇所負傷すると、
淀まで落ち延び、明智の城、勝竜寺城が堕ちたと聞き、自害します。
明智家の夢、儚く消えゆく、、、。
4人目は?
斎藤利三
引用:Wikipedia
元々美濃(愛知県)の斎藤家の家臣でスタートし、
織田家の家臣、稲葉一鉄の元に仕えていました。
しかし、反りが合わない一徹から光秀がヘッドハンティング!
1万石で家老職と黒井城主として丹羽氷上の支配を任せられます。
「無双の英雄」と評されるほどの実力者です!
妻は一徹の娘で、その子供に春日の局(3代将軍徳川家光の乳母)がいます。
四国の覇者、長宗我部元親とは親戚つながりとなります。
なかなかの血縁関係が広いです!
しかし、四国の長宗我部を討つように方向転換した織田信長の方針のもと、
立場が微妙になっていきました。
明智家筆頭家老の利三が、信長の方針転換を嘆き、光秀に直訴したと言う説も・・・。
いずれにしても、本能寺の変では部隊を指揮し実行!
その後、山崎の戦いでは秀吉軍に破れ、近江堅田で捕獲、六条河原で斬首、本能寺に晒されました。あうっ!
引用:Wikipedia
さあ、最後の5人目は
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溝尾庄兵衛
明智光秀が主君織田信長と足利義昭将軍を仲介する時に関わっていたり、
織田信長が德川家康を武田攻めのねぎらいに安土城に呼んだ時の饗応の指揮にも参加しています。
重要な任務の時、光秀の側にいました。
光秀が山崎の戦いで破れ、落ち延びていく時もそばにいて、光秀を介錯し首を土の中に埋めたとも言われています。翌日には見つけ出され織田家に差し出されたと言いますが、
その首は本当に光秀のものだったのでしょうか?
いずれにしても、溝尾もこの山崎の戦いの敗走で落ち延びている最中に命を落としたようです。
最後に
悲しき運命を背負った5人の桔梗の家紋の下に集った武将たちを見てきました。
5人共、明智光秀を信じてついていき、最後は壮絶に自ら自決したり、処刑されたり
その命を捧げています。
悲しいですが、これが戦国の厳しさと言えるのでしょう!
ご冥福をお祈りいたします!
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